おいそこ!喧嘩しない。
今回は、心の振り子についてさらに深く立ち入ってみたいと思います。
端的に言えば、論理の破たんについて考えてみたいのです。
前回に見た心の振り子は、ある限界を超えない穏やかな心の状態についてでした。そこで見たものは、時間軸に向かって心が振れて苦悩が生まれても、その苦悩は自然にスケール軸の力によって身体の実存に引き戻されるというものでした。
その時の図がこれです↓
この振り子のイメージで理解できるもっとも重要なことは、スケール軸に表されています。つまりスケールの軸は「私」そのものを創っている実在の大宇宙でもあるのです。このスケール軸には、宇宙を「私」というひとつの存在にまとめようとしている力が働いているということでした。この身体があるのは素粒子の一つ一つが勝手気ままに動くのではなく、一つにつなぎ止めている力があるおかげなのですね。
そしてその力が苦悩を癒す力にもなっているというものでした。
ところが、私たちの心はそう単純ではありません。場合によっては「私」を完全に壊してしまうほどの大きな感情を表すことがあるのです。つまり自然の力によって心の振り子は癒しに向かっていくという論理はそこでは成り立たないのです。
それがたとえば「恐怖」と「恨み」です。
それを図で表すと、こんな感じになります。
②の図に「恐怖」と「恨み」を描きこんだだけのものなのですが、これを見て分かることは、心の振り子が完全に時間軸の上に取り込まれてしまっているということです。
つまりここまで来ると、スケール軸にある「私」の力はゼロになってしまいます。具体的に言うと、「恨み」の場合我を忘れて憎き相手を思い描いているという訳です。スケール軸は忘れ去られ、想像さえしない状態ですね。
この時心は完全に相手だけを見つめ、思えば思うほどその相手が憎く恨みがつのります。この力はとても大きなものですよね。
そればかりか、恨みは復讐によって快感を呼び起したり、赤穂浪士のように美化されることもあります。むしろそちらの方が大きいかもしれませんね。岩窟王のモンテ・クリスト伯は有名な復讐劇ですし、現実には中東の泥沼のような長期の紛争などにも、「恨み」の感情が大きく影響しているような気がします。
怨念と復讐心を伴う憎しみは、心をつくる感情の中でも最も根深く長期にわたって消せないものなのですね。
なぜ「恨みは」こんなにも長く、私たちを苦しめ続けるのでしょうか。
このような感情は、もはや身体の力で回復することは無いでしょう。なぜなら完全に心が時間軸に取り込まれてしまっているからです。取り込まれてしまっているというのは別の意味もあります、つまり「恨み」には、その同じ心の場所に喜びに通じる道を独自に持っているということです。いうまでもなくそれが復讐ですね。
復讐は時間軸の中にあって、時間軸に沿いながら苦悩から喜びに向う道なのです。
考えてみてください。私たちは日常様々な場面で復讐の喜びを体験しています。取るに足らない小さな復讐、たとえば妻が子供のおもちゃにつまずいて転んだとき、思わず喜ぶ私の心もまた復讐心の現れですし、やられたらやり返す倍返しで溜飲を下げる心も復讐心。そんな骨格を持つドラマは大ヒット間違いなしです。
時間軸に取り込まれるとはまさにこういうことです。苦悩と喜びがセットになっている訳です。誰もそこから逃げようとは思わない訳ですね。
もちろんこれは何も「恨み」に限ったことではありません。
地位や名誉、豊かな暮らしという喜びもまた、時間軸にセットされた苦悩の対極にあるもの、時間軸の中で完結させる心の仕組みであり、そこでは時間軸に取り込まれた生活が延々と続いて行く訳ですね。まさに今体験し続けている生活そのものです。
時間に追われ、一体私たちはどこに行こうとしているのか。
少し考えただけでも分かりそうなどうでもいいことにこだわり、身を壊してもそのこだわりを実現しようとしたり、あるいはそれを人に強いる。
身体の自然には振り返りもぜず、無理をしてでも時間軸の中で生きていけるのは、苦悩の対極に喜びが与えられているからです。
しかしその喜びは至福とは似て非なるものなのですね 。
考えれば考えるだけ、恨みは増していきます。許せない感情は消えるどころか、復讐し報復することで満足しない限りそれは消せないのです。
つまり心が時間軸に取り込まれたら、心の振り子は完全に論理破綻してしまう訳です。
心を引き戻す力そのものがなくなってしまうためだと思われますね。なくなってしまうというより、見えなくなっているということでしょう。
振り子の論理はこのように、心の振り子が原点(現に生きているこの身体)からもっとも遠ざかった所に行ってしまうことで、いわば振り子の糸が切れるように破綻します。
糸の切れた振り子は、永遠に時間軸の中をさまよう訳ですね。それが四次元の私たちの姿だと言えましょう。
それならどうして論理破綻の話につき合わしたのか!とお叱りの弁、ごもっともです。
しかしこれは言い訳ではなく、真実なのです。
論理は宇宙ではない。ゆえに破綻のない論理はない。我々は破綻から学ぶしかないのですね。
論理は思考ですね。思考は宇宙ではない。ゆえに破綻のない思考はない。破綻こそ私たちの目指すもの。宇宙を知りたいと願う者の目標なのです。
なぜなら私たち人間は、どうしたって思考を止められませんし、ましてや破棄することなどできません。もしそんなことをしたなら、私たちはほどなくその思考そのものから報復を受けることになるでしょう。力で押しこめられた思考は、闇に押しこめらているうちに変貌して私たちを苦しめ続ける魔性となるでしょうね。
その思考というものに破綻は避けられないのだとするなら、それもまた是というべきでしょう。なぜなら真実は破たんの向こうにある。それを知らしめてくれる破綻を喜びとするしかないのですね。
まちがっても破綻した思考を破棄してはなりません。
破綻した思考を消化して昇華する。
消化、昇華!それが私たち考える葦の進むべき道なのです。
私の幼少時代、夜は「恐怖」そのものでした。
当時は今のように夜の日本列島が光の龍ではなかったでしょうし、ましてや私の育った山奥では、蛍の光でさえ文字が読める。そんな漆黒の闇が夜だったのです。
家の中は、信じられないでしょうがランプ。ほどなく電気が通りましたが、一家に一灯だけ裸電球を灯すことが出来るようになる(部屋ごとの照明はその後10年はありませんでした)と、光への愛着が増す一方、闇への恐れがさらに深刻化したのです。一点の光源に照らし出された部屋は光と闇の世界をくっきりと描き出し、おのずと自分は光に守られている者という意識が生まれて行く訳です。
よく尿意で目を覚ますことがありましたが、トイレは家の外に出なければなりません。漆黒のトイレで私の妄想は最大限に膨らむのですね。
誰に学ぶわけでもないのに、恐怖は子供の心の中に自分ではない何者かの存在をはっきりと描きだしていました。
否、むしろ描きだせない、自分以外の悪意と気配に悩まされ続けたわけです。
このように恐怖もまた、スケール軸ゼロの「他から来る悪意」への空想にまみれていたと言えるでしょう。
なぜ怖いのか、長じてそれは生物学的な恐怖、食べられてしまうという本能だと学習しましたが、私は今、さらにその奥に人間の持つ特殊性である時間軸の萌芽を見るのです。
次回は、この「夜の恐怖」から解放される私の体験を交えて、論理の破たんの先にあるものを見て行きたいと思います。
過去記事
自分にとっては大切な武器であり生活のアイテムでもある訳です。
ある時、その論理に逆襲されたら驚きと共に世界の終わりさえ感じることになるでしょう。
あり得るお話ですね ♪
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私が椅子の角に足の小指をブツけた時、妻は手を叩いてのけぞって喜びます。
てっきり、気の毒心の延長かと思って居ましたが、もしや「 ざまぁ 」だったのかも・・ゾーっと致します。
今迄、妻の前で大声で訴えていましたが、これから考えることにいたします。
静かに痛がります。
論理は破たんするもの、こう思えばああなるし、ああ思えばこうなるんですから、
奥様は師匠のギャグの延長と思われたのでしょうね。
小指さんにはおきのどくですが、
これからもさらに大声でお願いします
お師匠様
雑談に来ました☺️。
基本的には能天気な人生を過ごしてきましたけど、ン十年も生きてれば人間、それなりに恨んだり復讐したりもあります(オオ怖い)。
復讐の心は、うちひしがれた自分の命を繋ぐギリギリの力ですけど、復讐って……達成しても何故か虚しい。
達成させるまでは、自分の命を支える強烈なモチベーションなんですけどねぇ。
達成させた後(私は半端者ですから、強烈で完膚ない復讐なんぞよーしませんけど)のこと、考えた段階ですでに虚しいです。
だから、復讐を本格的に達成する前に大抵、まあいいかなと腰砕けになります。
あかんたれかと思っていましたが、その方が平和で、生身の生き物的には健全なのかもしれませんねぇ。
やっぱりただのあかんたれか(笑)。
つまり、普通に言う人生の目標とです。
どれもみな生きるために設定された目標なのですね。そして達成したらむなしい。みな同じです。
ただの命は復讐などしませんし、金持ちになろうともしませんよね、きっと。
なぜむなしいのか、そこが問題なのですね。
正しい答えは誰にも分からないかもしれませんが、むなしいというのは何かが足らないということですよね。
あかんたれに見える方向と、
達人に見える方向。
一つのものでも三角や四角に見える方向があるように、四次元と五次元を考えてみようと試みている訳です。無謀かもしてません^が^
その時、むっちゃんのコメントのように、外からの知識に染まらない自身の中から生まれてくる言葉がとても大切なんです。
もし万が一宝くじに当たるように、真実にめぐりあったら、その時耐えられるのは己そのもの言葉しかありませんから。借り物ではだめなのです。
あかんたれでも、分からんむっちゃんでも、いいじゃないです^か^
とことん自分を楽しみまし^ょ^う