わたくしという現象、
宮沢賢治の詩集「春の修羅」に書かれた序文の冒頭に書かれた、詩が生まれ出た「わたくし」を客観的に見ようとした一節ですね。
そして、そこから見える景色は、ある程度みなと共通するというのです。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
そして、期せずして生まれてきた私たちの連歌は、宮沢賢治が観た景色を共通に見ながら、おのおのの中にある違いを見せてくれます。それが却って人のつながりをますのですね。
その連歌に自閑さんの詩が寄せられました。風景がまた一つ広がったわけです。
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心象スケッチ
{春の修羅 序 冒頭}
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
究極の数式
{超ひも理論より}
わたくしという現象は
宇宙に集められた素粒子の
一つの青い銀河です
(あらゆる透明なひもエネルギーの複合体)
あなたと共にこの風景の中で
息づくリズムの明滅を繰り返し
確かな今を照らし続ける
宇宙に満ちたひもエネルギーの
一つの共鳴する波動です
(光はたもち、その共鳴が失われても)
ナウイズム
{五次元宇宙から}
わたくしという現象は
固定されたスケールが見せてくれる
一つのいのちの現れです
(あらゆる大きさのいのちの融合体)
風景や人の固定されたスケールの視野から
忙しく様々に明滅しながら
すべての大きさの一因としてつなぐいのちの
神の胎内にある神として
わたくしは一人の現象です
(その空間はたもたれ 現象は変化しても)
コメントより
{むっちゃんさん}
わたくしという現象は
仮定された全方向の力の
ひとつのゆるやかな形です
(あらゆる方向へ伸びる様々な波長の複合体)
ああ しかしわたくしという現象は
すぐ腹が減り、疲れ、眠くなるのであります
哲学よりも飯のことを考え
芸術よりも惰眠の力にひしがれる……
コメントより
{まかこさん}
摩訶不思議宇宙
奇跡のビッグバンより
宇宙同根多種多様万物一体の
わたくしという
極極小豆電球の中にも
仮定された有機(勇気)交流電灯の電気が
流れています
あらゆる透明な幽霊の複合体として
この大宇宙の風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
常に今!この瞬間も
いかにもたしかにともりつづけています☆
コメントに触発されて
{のしてんてん}
わたくしという現象は
仮定された社会の中で揺れながら灯る
ひとつの頼りないローソクです
(あらゆる宇宙の複合体でありながら)
眼に見えるものと人の間で
せはしくこわごわと揺れながら消えもせず
その稚拙を受け入れてともりつづける
永遠の因果を信頼して
生きるひとつのオレンジの炎です
(ひかりを宇宙に返して 火芯の役目を終えるまで)
コメントより
{自閑さん}
わたくしといふ現象は、
假定された素粒子が対称性を保ちながら、
波動が重なり合い、物質と重力を産み出しながら
X軸とY軸とZ軸座標の交差点を行ったり来たりして、時間軸を進んで行くイオン燈のカケラです。
(そしてもうじきそのベクトルは、方向性を失いカオスにもどる。)
光子が通過した場所と通りもしない闇を抱えながら、混沌とした夜を、無から生み出されるビールの泡の数を数えながら、脳波は停止した。
踏み切りの警報器の音が、起きなくてもいいんだよと催眠する。
DNAとRNAがコラボしている間に、朝日が今日を告げている。
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自閑さんの風景は、壮大な宇宙理論が、ビールの泡につながる喜び。
人生これです^ね^最高。。
ベクトルはむっちゃんさんの方向でもあるわけです^ね^
想いのままに紡いだことだからこそ、伝わるチカラがある…すごいです。
詩的比喩表現はなかなか私はつかみきれないものがありますが、感じるままに…”へぇ~!”と心に届きます。
ちなみに自閑さんのような数学的な姿が割と好きだったり(笑)
私の言葉で言うなら「全てが全てに作用しあって、今の現象全てがある」
(有り難いコメントへ何か応えたいとか、この会話に参加してみたいとかとか全てを持って、コメント書いていたり…)
記事をありがとうございます!興味深いものを見て、楽しんでいます…紅茶を楽しみつつ笑
今ここにあるものは、すべて無駄なく作用しあっているのですね。
そしてそのことを本当に知るのは、知識ではなく、感じることなのです。
ですので私などは、知識より感じる事の方を信用します。
たとえば、ある感じを言葉に置き換えるとき、理屈に合う言葉を選ぶのか、感じから来る直観に響く言葉を選ぶのかですが、
前者の場合、ことば選びに時間がかかり、迷いも生まれる。そのうちに感じも薄れるということになります。
後者は、とんでもない見当はずれの言葉を選んでしまう可能性がありますが、私はそれを怖れず信じるのです。
全てがすべてに作用する。その作用が感じとして表れるのなら、そこに言い訳をする必要も、解説する必要もない。感じをそのまま言葉に現わしたらいい。
そうなるのです^ね^。
感じを大切にして表現をする。
その時その表現が特殊であれば特殊であるだけ芸術に近づく。
人並みでない、オンリーワンを大切にしたいのです。
紅茶に少しブランデーをたらすと、おいしいです^よ^