(かのこそう の ゆりかごうちゅう)
Xさんの第2信です。それを「問」と受け止めさせていただき。いただいた言葉から私なりの答えを見つめてみたいと思います。
Xさんに、重ねて御礼申し上げます。
{問}-----------------------------------------------------
ぶしつけな質問に応えていただいたことに感謝します。こういう理解でよろしいですか。
あなたの書かれている内容は、学術的にも、宗教的にも、あるいは哲学的にも、既存のものには根拠はない。
唯一の根拠は、それどれの中にある心だと。
私の疑問は、このたいそうな講義は、人をどこに連れて行こうとしているのかという一種の新興宗教的な気持ち悪さだったので、氷解出来ました。
-X-(要約)
{答}--------------------------------------------------------
まさに、そのように理解していただければと思います。
ただ、根拠がないと申しましても、人類が築き上げてきた文化と全く関係がないと言いうことは出来ませんし、
ある意味、逆の言い方になりますが、
私たちの思考は、この文化を土台にして成り立っている訳ですから、そのすべてを拠り所として成り立っているともいえるわけで、心というものはそこを土壌にしているということはご理解ください。
ですので、もう少し私の思いに近い表現をいたしますと、社会の中で形骸化した思考を根拠にはしないということです。
Xさんのおっしゃる既存とは、そういう意味で使われていると思いますし、危惧されるような特定の形骸を私が密かに持っていて、導こうとしているということはけっしてありません。
むしろそれは逆でありまして、私は心の形骸化が社会現象になることを恐れています。
心とは存外弱いもので、いっときの高揚も時が経てば静まり、拠り所を既存の中にみいだし、その殻の内で眠ろうとします。
それは心の自然な流れですが、そこで怖いのは思考停止なのですね。
己とは何かという思考が停止すると、形骸の中で自分が見えなくなり、個性が消えます。簡単にテロに走る心は、まさにその最たるものではないでしょうか。
この形骸化を防ぐ方法は一つしかありません。
それは人々がみな、己の心に目覚めることなのです。
宗教は、答えを丸ごと与えてくれます。
私がいいたいのは、その丸ごと与えられた答えを、己の心に照らして見るということの大切さなのです。
どんな優れた宗教でも、同じことが言えますし、
科学に至っては、日進月歩、昨日の論理は明日には否定されるということもあり得ますね。
哲学にしても、社会の中で決して不動の正義であるわけではありません。
これらの文化を形骸化させないのは、
常に己の心に返ること。己の心で思考することだと私は思うのですね。
五次元思考は、その意味で、常に己の思考を約束してくれるのです。
なぜなら、スケール思考というのは、己の中心を貫いて宇宙につながるイメージを与えてくれるからです。
そこには己の心から生まれる世界がうごめいています。
自分の呼吸を宇宙の律動と思うことだってできます。
そしてそこから生まれてくる思考を己と定めることが出来れば、
私たちは形骸から解放された宇宙と一体になることが出来ると思うのです。
個性が尊重される社会。
この健康を保ち続けたいですね。
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