のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

新セリナの物語 (第二部)  かわかみ れい 著

2016-09-08 | 新セリナの物語...

2007年のセリナの物語(原作)に対し、2016年、女性作家が女の視点から二次創作を行ったものです。男と女の愛の形が立体的に描かれています。はじめて読まれる方は、前篇から読んでいただくことをお勧めします。)

 

新セリナの物語(第二部 芹里奈の影)   かわかみ れい著

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……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 娘のセリナは小学生になった。通学帽をかぶり、ピンクのランドセルを背負って毎日元気に学校へ通うようになった。荷物をひとつ下ろしたような、そんな気分だ。
 息子は来年、高校を卒業する。にきびだらけの、学業よりもクラブ活動に熱心な子で、将来一体どうするつもりなのか、聞いてもはぐらかしてばかりいる。が、何はともあれ元気で健康なので、あまり心配していない。
「弘樹はサッカーで進学できないのか?」
夫はのんびり、そんな事を言う。私は苦笑まじりに答える。
「……無理でしょ。そんな実力があるなら、とっくの昔にスカウトが来てるでしょうし」

 

 夫と結婚して八年ばかり。娘のセリナが生まれて、七年。多少のごたごたはあったものの、穏やかな家庭生活を送っていると思う。

 まだ赤ん坊のように幼い息子を連れて前夫の家を出たのが、十四、五年ばかり前。
 前夫は私が離婚届を置いて出ていったのを知ると、唖然としたようだった。怒りや焦りより、不可解さの方が大きかったらしい。その点では少し……今の私は彼に同情する。出て行くその朝まで、私は彼の食事を作り、いってらっしゃいといって素知らぬ顔で見送っていたのだから。まさか妻がその静かな顔の下で、着々と離婚の準備を進めていたとは決して思わなかっただろう。
 前夫は決して、根っから悪い人間ではなかった。でも、私はもう耐えられなかったのだ。
 彼は、少し強引でお天気屋だけど行動力のある、いつも熱を発散して歩いているような感じの人だった。私は彼を、仕事以外ではどこかはっきりしない所のある自分を、ぐいぐい引っ張って行ってくれそうな気がし、頼もしく思っていた。
 結婚して間もなく、彼の強さが実は、子供の怖い物知らずと同じなのだと気が付いた。そして彼は、私を愛しているというよりも、自分にかしずくように尽くしてくれる、母親のように忠実な妻が欲しかっただけなのだ、ということも。
 それでも子供が出来るまでは私も、それはそれなりに彼の個性と思うよう務めてきた。でも……子供が生まれても彼は、やはり子供のままだった。慣れない子育てで疲れている私を、いたわる気は毛頭、無さそうだった。

 

 食事が手抜きだ。
 掃除が行き届いていない。
 身だしなみがなってない、それでも女か。
 子供を泣かせるな、うるさい。

 

 ひとつひとつは大したことではなかった。でもそれが毎日毎日……と積み重なると、大したことになってゆく。出来ていないことばかりを数え上げる夫の顔が、だんだん醜悪に見えてきた。
 ある日突然、私の中で何かが切れた。そして天啓がひらめくようにこう思ったのだ。
『子供は、息子だけで沢山だ』
 その後の行動は早かった。夫は忘れていたかもしれないが……私はこれでも、そこそこ優秀な事務員だったのだ。『総務課長の懐刀』……そんな風にも呼ばれていた。寿退社をかなり惜しまれたものだ、こう見えても。
 やり直そうと何度も彼は言ったが、うまく言いくるめて元の鞘に収まれば、そのうち私もあきらめて昔のように従順になるだろう、と高をくくっているらしいのが透けて見えた。私は頑として応じなかった。しまいに彼は、泣いたり脅したりし始めたが……私の決意が固い事を知り、あきらめた。そんな女だとは思わなかった、と、ぼやくように最後に言って、離婚届に署名をした。

 

 そんな女だとは思わなかった、って……じゃあ一体、どんな女だと思っていたのだろう?後で、そんなことを少し思った。

 

 離婚後、少しは実家に頼ったりしながら、私は働き始めた。小さな商社で経理の事務員を募集していたので応募すると、運よく採用された。決算時など以外には残業もあまりない、シングルマザーには有り難い職場だった。


 今の夫に出会ったのは、勤め始めて二、三年は経った頃……だったと思う。彼が事務所へ、有給休暇の届出用紙か出張手当ての請求用紙か、そんなものを取りに来た時だったと思う。
 その時事務所には、たまたま私しかいなかった。私は用紙を取り出し、彼へ渡した。
「ありがとう」
彼は軽くそう言い、にこっと笑った。片頬にかすかに浮かんだ儚いえくぼが、奇妙に印象に残った。

 別に何てことのない、呼吸のようになめらかなお礼の言葉だった。彼はおそらく誰にでも、気軽にお礼を言うだろうしあの笑顔を見せるだろう。そんな気がした。でも……そのさりげなさが、私の心に残った。思えば前夫は『ありがとう』なんて決して言わない人だった。してもらって当たり前、と、意識するより前から信じ込んでいる、そんな所があった。むしろ、自分の思うように相手が接してくれないとすぐへそを曲げる、わがままな幼児のような所があった。私は常に夫の顔色を観察し、彼が機嫌良くいられるよう心を砕いていた。曲がりなりにも夫に対して愛情があった頃は、それもさほどは苦にならなかったが……、子供の世話に手を取られるようになり、睡眠も十分とれない状況が続くと、赤ん坊でもない、大の男の顔色を常に見て、せっせとお世話しなくてはならないのに疲れてきた。二重三重と疲れが降り積もり……私の中で何かが切れた。そんな気がする。
 片えくぼのその人は、どういう訳かいつも、なんとなく疲れたような雰囲気があった。そつなく仕事をこなしているようだったが、出世しようとか手柄を立てようとか、一切思っていないようだった。淡い影のようにそこにいて、いつの間にかふといなくなる。いなくなったとしても消えるのではなく、まるでたそがれの中の淡い影のように、気が付いたらまた再びそこにいる。そんな感じの、とても不思議な存在感の人だった。

 それとなく、その人のことを調べ始めた。
 私は経理が担当だが、総務や人事の仕事も時には手伝うし、同僚たちから噂話を集めることも出来る。
 彼はバツイチ。恋女房に捨てられるような形で別れたのだ、とか。以来、仕事だけでなく、生きてることそのものに半ば興味をなくしたような雰囲気になったのだ……と。
「なんかさ……幽霊みたいな男だよね」
ズケズケとそんな事を言う者もいた。
(……でも。『ありがとう』も言わない男より、ずっとまし……)
心の中でそんなことを思ったりする。

 彼と親しくなるきっかけは、会社のレクリエーションだった。事務所で初めて会ってから、ずいぶん経っていた。
 当時小学三年生だった息子の弘樹を連れ、私は参加した。私は普段、こういうイベントには余り興味がない。でも今回はバーベキューもするというので、お肉の好きな息子が喜ぶだろうと参加したのだった。
 お肉もらってらっしゃい、と、私は息子を送り出した。息子は当時、いつもなんとなくおどおどしているような、遠慮しているような、そんなところがあった。あの傍若無人な夫の息子とも思えない。おそらく……、私に気性が似たのだろうが。しかし、いつまでもそれではいけないと、私は母親として感じていた。傍若無人なのは論外だが、言うべきことはきちんと言い、するべきことはきちんとし、そして自分のしたいことはためらわずに実行する、そんな人間になってほしかった。
 十歳にもならない息子が、知らない大人たちにまじって自分の食べたいものを取ってくるのは、なかなかハードルが高かろう。でもあえて、私は行かせてみた。もちろん、どうしても取れないのならフォローするつもりだったが。
 お肉から滴る脂で、時々焼き網より高く火があがる。息子は火が怖いのか、少し離れたところで身を堅くしていた。
 その時、さりげなく彼が近付いて来て、流れるようにごく自然に、焼けたお肉や野菜を取って息子へ渡してくれた。嬉しそうに笑ってそれを受け取り、息子が私の方へ駆けてくる。私の方も小走りでそちらへ近付いた。
「……すみません、ありがとうございます」
彼は私を認めると、かすかに笑んで
「……ああ。事務所の……」
と言った。顔は知っているけれど名前は知らない、事務員の人。そんな風に思っているらしい顔だった。
 そのままなんとなく一緒に、私たちは食事をした。息子には珍しく、物怖じせずに彼へ話しかけていた。親切にしてもらったのが嬉しかったのだろうし……子供にはうとましい、男の人にありがちな威圧感……みたいなものが、彼には稀薄だったからかもしれない。
「……ばいばーい」
弘樹はまるで親戚のおじさんに対するような気安さで彼へ手を振り、その日は別れた。
 それからしばらく後のある日、息子が遠慮がちながら、遊園地へ行きたいな、と言い出した。学校の友達が、家族で遊園地へ行ってジェットコースターに乗った、という話を聞き、うらやましくなったらしい。だけど私は正直、絶叫マシンは苦手だ。少し考え……彼に、息子の『一日お父さん』になってやってほしい、と依頼することを思い付いた。
 ジェットコースターに乗せてやってほしい。そんな風に頼んでみた。優しい彼は応じてくれた。その日は一日、はしゃぐ息子を真中に、私と彼は家族のように寄り添って過ごした。少なくとも傍目には、我々は家族に見えただろう。見えた……どころか私自身が、遊園地にいる大半の時間、そんな錯覚の中で過ごしていた。彼と、私と、弘樹。この三人が一緒にいることが、とても自然に思えてならなかった。
自然に思えた……否。それこそが私の願望なのだと、その日初めて、明確に意識した。自分でもたじろぐくらいの、それは強い強い願望なのだ……ということも。

以来私は、彼が私を忘れかける……程度の頻度を見計らい、少しお節介かもしれない、でも、そこまでされると困りますとつっぱねるほども重くない、そんなことをした。軽やかな笑顔をまじえ、作り過ぎたおかずに困ったので余分にお弁当を作りました、良かったらどうぞ……などと言って、使い捨てのランチボックスに詰めたお弁当を渡したりした。
 その度に彼は、少し困ったような、でもまんざら嬉しくもなさそうな、そんな顔で
「ありがとう」
と、くぐもった声で言ってくれた。こういう場合なら誰でも言うであろう、そして彼なら相手が誰であっても言うであろう『ありがとう』だったが、私には、とても貴い宝のひとこと……に思えた。

 そんな時間がゆっくりと過ぎた。彼の顔が、少しづつ変わってくる。彼の中で私の印象が、徐々に徐々に移り変わっていくようだった。

 

 会社で見かける顔見知り。
 頑張ってるシングルマザー。
 時々弁当をくれるお節介なおばさん。
 だけど……嫌い、ではない。惹かれない、といえば嘘になる……。

 

 そんな感じに『ありがとう』と言う半ば伏せた彼の瞳の色が変わってきた。
 ……私に都合のいい思い込みでないのなら。

 その前後、私の両親が再婚の話を持ってくるようになった。老い先短いことを実感し始め、私の今後が改めて心配になってきたようだった。
 前回の結婚が、傍目以上に私にとって辛かったことを理解してくれていた両親は、つまらない再婚ならしない方がましだとよく言っていた。が、両親ともが相前後してちょっとした入院をして以来、急に出戻り娘の行く末が心配になったらしい。今まで私は、息子を言い訳に使ったりしながら適当にはぐらかしてきたのだが……自分の中で、何らかのけじめをつける時が迫っているのを実感していた。
 彼は未だに、別れた奥さんを愛しているらしい。もちろん彼が直接、そんなことなど言う訳ないが、さすがにそれくらいは私にも察せられる。


 一方で『温かい家庭』というものを熱望しているらしいことも察せられる。遊園地で息子の相手をしてくれていた時の彼は、とても満ち足りた表情をしていた。普段なら、今にもたそがれの中へ溶けてしまいそうな、そんな存在感の人なのに……息子と笑い合っている彼は、昼の光の中でしっかり立っていた。真昼の光をかっきり切り取り、ひとりの男・ひとりの人間としてしっかり立っていた。己れの望む場所に今、己れはいる……そんな深い満足が、その立ち姿からほの見える気がした。
 食べ終わったお弁当のお礼を言ってくれる時にもそんな感じがした。ありがとう、おいしかったですという言葉には、社交辞令以上の心が見える気がした。弘樹くんは元気ですか、と聞いてくれる目にも、知り合いの子供を気遣う大人の配慮、以上の親しみがある気がした。彼なら誰にでも、そんな風なのかもしれないが……私の期待を割り引いたとしても、彼の目に、私越しに『家庭』というものの姿を見ている雰囲気があった。
 でも……それだけ。それ以上には彼の心は育たない。このままだといつまでもこのまま。半ば絶望的に私は思った。
 彼の心は動かない。彼の意思も動かない。なら……私が動くしか、ない。拒否されたとしても、それはそれで仕方がなかろう。私は、人生最初で最後の大博打を打つ決意を固めた。

 

 一泊旅行のチケットを予約した。大人二人と子供一人、の計三人分。うち大人一人分の乗車券と特急券を封筒に入れ、お弁当と一緒に彼へ渡した。
「子供が楽しみにしているんです。子供が喜ぶと思って……お願いします」
ちょっとおどけたように手を合わせて笑い、要件だけを言ってきびすを返した。心の中で、弘樹にごめんと謝っていた。弘樹はまだ、この旅行自体を知らないのだから。
 断りたいような断るのもためらわれるような、くぐもった意味不明の声が少し、後ろから聞こえた。が、私は足早にその場から離れた。顔がこわばり、心臓がばくばくと異常に脈打っていた。
(寨は投げられた……そういうことね)
後はすべて彼次第。旅行自体断るのも応じるのも、その旅行の意味をどう解釈するのかも。
(……寨は投げられた……すっごく分の悪い、とんでもない大博打……)
私に勝つ目はほとんどない。宝くじで一等を当てるくらい、分の悪い大博打。……でも。
(宝くじを買わないままだったら。一生、一等は当たらない……)
自分に言い聞かせるように何度も何度も、私は心の中で繰り返した。

 当日。駅のプラットホームに彼は現れた。小さな鞄に、旅行の用意を詰め込んでいた。何かが吹っ切れた……そんな清々しい表情をしていた。
「おじさーん!」
弘樹が嬉しそうに彼に駆け寄る。思いがけない同行者に、すっかりはしゃいでいる。
「……来て下さったんですね」
放心したように私は言った。来て欲しいと熱望していたけれど……実際来てくれるとは、ほとんど思っていなかった。彼はほほ笑み、うなずいた。片頬に浮かんだ淡い影が、泣きたくなるくらい愛しかった。
 遊覧船。グラスボート。どれも初めての弘樹は、ずっとはしゃいでいた。思えば旅行自体、初めて……かもしれない、そう言えば。そんな心の余裕も経済的な余裕もずっと無い、ぎりぎりの暮らしだった。弘樹が妙に気を遣う子に育ったのも当然だろう。可哀相なことをした……前夫と離婚以来初めて、私はそう思った。
「……ねえ。まだ?」
はしゃぎ過ぎて疲れたのか、ホテルまでの道々、弘樹は何度もそう言った。足取りが重い。私たちは何度も立ち止まり、苦笑いしながら弘樹を待つ羽目になった。
「よし、弘樹こい」
不意に彼は言い、弘樹を肩車した。小三になる少年の体重が予想以上に重かったらしく、彼は少しよろめいた。
「お父さんが大変だから、降りなさい、弘樹」
自分でも無意識にそんな言葉が出てきた。一瞬後、あまりの厚かましさに顔から火が出る思いがした。ごめんなさい、と、慌てて彼へ言ったが
「お父さんでいいよな、弘樹」
と、彼は肩の上の弘樹へ言う。
「うん」
弘樹が答える。嬉しくなったのか弘樹は、何かをごまかすように乱暴に彼の髪をつかんだ。
「それじゃ弘樹、お父さんと呼んでみろ」
彼の声に
「お父さん」
と、弘樹ははっきり呼んだ。
「お父さん」
もう一度弘樹がそう呼んだ瞬間、私はたまらなくなった。弘樹越しに、私は後ろから彼に抱きついた。彼は少しよろめいたが、軽い笑い声を立てた。
 何故か薄い涙がにじんできた。くすぐったそうな弘樹の声を聞きながら、私はそっと、涙をぬぐった。
(……生まれてきて、良かった……)
そんな言葉が突然、胸の奥から出てきた。ちょっと驚いた後、私はほほ笑んだ。生まれてきて、良かった。この日の為に私は、ここまで歩いてきたのだ……。

 

 何かの機会に見た、トーク番組のエピソードをふと思い出した。
 有名な二世俳優と子連れで再婚した、とある女優のトークだった。
「最近息子は、お父さんに似てきましたね、ってよく言われるんですけど、息子は前の夫の子なんです。なのに今の主人に似てますねって、みなさんおっしゃるんですよ。ああ、そうか、この子は今の主人の子になる、そういう運命だったんだ……そう思いました」
そんなトークだった。聞いた瞬間、なんて自分に都合のいい女なんだろう、と私は、軽くその女優さんに呆れた。……でも。
(……ごめんなさい。私も自分に都合のいい女でした……)
肩車で先に行く彼と弘樹の後ろ姿は、私には本物の親子以外の何物にも見えなかった。弘樹は彼の息子……なのだ。血の繋がり以上の繋がりを、私は今、ふたりに感じる。
(……ごめんなさい。あなたもきっと、こんな気持ちだったんですね……)
私は心の中で密かに、かつて呆れた女優さんに謝った。

 

 それから私は幸せだった。彼から結婚を申し込まれ、まもなくささやかな式を挙げた。弘樹は、まるで彼が本当の父親であるかのように懐いた。
 やがて私は身ごもった。何もかもが順調で、夢を見ているような気分だった。あまりに幸せ過ぎてバチが当たるのではないかと怖くなるくらいだった。

 

 バチは当たった。とんでもない落とし穴が、バックリと口を開けて待っていたのだ。

 

 ……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 それに初めて気付いたのは、娘が生まれてすぐだった。娘の名前の候補は、生まれる前から色々と挙げていたのだが、夫は娘の顔を見た途端、
「セリナにしよう」
と言い出した。
「カタカナでセリナ。可愛いだろう?」
「……可愛い、けど……」
一瞬後、私は硬直した。セリナ……芹里奈。彼の前の奥さんの名前だ。その名を聞いたのは数えるほどだが、私の記憶にしっかりと刻み付けられている。
「……どうした?」
探るように、夫は私の顔を覗き込む。
「それ……前の奥さんの名前じゃないの?」
軽く聞こえるように笑いをまじえて言ったつもりだが、顔がこわばるのはどうしようもなかった。
「……う」
夫はうめいて視線をそらせた。

「……まだ……前の奥さんに未練があるの?」
それは言うべきではないし、聞くべきではない。私の理性が遠くから警告するが、とても止められはしなかった。
 夫は答えなかった。ただ……かすかにうなずいた。私に見せる夫の横顔は、見知らぬ他人のそれのようだった。遠くに焦点が合った彼の目が見つめているのは……黒々とわだかまる、影。私は彼の視線をたどった。そして闇よりも濃いその影を見た。それは彼の、最愛の女性の影。彼の愛は彼女のもの……すさまじい虚しさに、身体中から力が抜けた。
 彼女の影に生気を吸われ、『幽霊みたい』と言われるほど生きる張りを失くしたのだった、そう言えば彼は。彼女の影に囚われ続け、他のパートナーを探すことさえ出来なかったのだった、そう言えば彼は。私と再婚したのも、別に私を愛したからではない。もちろん嫌いではなかろうが……それ以上でもあるまい。私のプッシュに根負けした、その辺りが本音だろう。
(……彼の心は、私にはない……)
最初からわかっていたこと……かもしれない。あえて見ないようにしてきただけだ。
 そもそも彼女はもはや、彼の手には届かない人だ。他の男性と再婚し、幸せに暮らしているらしい……かつて夫自身がそう言っていた。彼女が幸せならそれでいい……寂しそうな遠い目をしていたが、口調は淡々としていて、彼の中である種のけじめがついている、そんな印象を私は持った。
 その言葉・気持ちに嘘はなかろう。夫だって今さら、彼女とよりを戻したいとは思っていないだろう。……が。おそらく彼が、生涯で愛する女性は彼女……芹里奈、唯一人、だ。少なくとも私ではない。そのあまりにむき出しのむごい事実の前に、私は脱力した。努力では埋められない、時間では埋められない、圧倒的な事実を前に、私は、身体の底から脱力した。脱力するしか……なかった。


 ……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 半ば押し切られるように、娘の名前はセリナになった。セリナ以外の名を、夫は認めなかった。夫は、他のことでは決して強引な人ではなかったが、この件に関しては頑として譲らない、そんな決意が見えた。無言を貫き、視線をそらし、だけど頑として娘の名前は『セリナ』。それ以外は認めない。そんな決意が見て取れた。
 名前が何であれ、みどり児は愛しい。息子を育てたことはあるが、私も娘は初めてだ。男の子に比べ、女の子は何もかもが華奢な気がした。反射的に見せるぼんやりとしたほほ笑みも、それこそ天使のように清らかだった。私は夢中で娘の世話をした。セリナ、という音がだんだん、娘を示す音だと私の中で認識されるようにもなってきた。
 夫はホッとしたようだった。女房に言い訳しなくてもよくなり、母性に目が眩んだ女房が、済し崩し的に『セリナ』という音が娘を示す音だと認識してくれて、心の底からホッとしたようだった。やれ泣いたやれ笑った、寝返りを打ったハイハイしたと、家族中で娘の一挙手一投足に騒ぎながら、私たちは賑やかに楽しく過ごした。
 九割五分はその通りだろう。私にとって『セリナ』は娘。愛しい者の名前。一日、そして一年の大半を、私はそう思って暮らしている。
 が……残りの五分。愚かで貴い母性に目が眩んだ、お幸せな母親ではない部分がある。ある瞬間ふっ……と、『セリナ』がそもそも『芹里奈』であったことを思い出す。夫によく似た片えくぼで無邪気に笑う娘の後ろに、黒々とわだかまる、不気味な昏い影を見る。その刹那、すさまじい脱力感にくずおれそうになるのだ。
(……芹里奈の影が、私を殺す)
少しづつ少しづつ、私の命はむしばまれてゆく。少しづつ少しづつ、私の正気はむしばまれてゆく。決してかなわない圧倒的な敵に脱力する度、私は壊れてゆく。少しづつ。

 

 夫は気付かない。

 

 休日。私は夕飯の支度をしていた。
 夫はリビングでテレビを視ている。カウンターキッチン越しに、少し寂しくなり始めた後頭部が見えた。
「A 子」
夫が私を呼んだ。私の名前は『映子』だが、ある時からふと、夫は私を『A 子』と呼んでいるような気がし始めた。『A 子』……家庭というものを維持する、必要で重要な部品。ただし、別の新しい部品と取り替えは可。皮肉まじりにそんなことを思う。思った瞬間、私は首を振った。
(……バカバカしい。そんな、自分で自分を貶めるようなことを……)

 私は夕飯の支度をしていた。愛用の、よく研いだ関孫六で野菜を刻んでいた。
 何故か手が止まった。目を上げる。くつろいでいる夫の後頭部が見えた。
(……これを)
関孫六に目を落とす。
(あそこに刺したら。どんな感じかしら……)
地肌の見え隠れするあの頭に、銀色に輝く関孫六が埋まる。かぼちゃのような手応えだろうか?それともキャベツを断つような……?
「……おかあさん、どうしたの?」
私は我に返った。絵本を見ていたセリナが、怪訝そうに私を見ている。
「……ああ。何でもないのよ」
(せめて、セリナが独り立ちするまでは……)
持ちこたえたい。……出来るだろうか?自信はない。芹里奈の影に正気を食い尽くされた後、自分が一体何をしでかすのか……、正直な話、私には自信がない。その前にせめて、彼と別居や離婚をする程度の正気はギリギリ、維持したいのだけれども。

 関孫六が鈍く光る。……ああ。これを夫の頭に埋めたい。心臓に埋めたい。驚く彼の顔をめった刺しにしたい。決して手に入らない男の心を、身体から引きずり出してかぶりつきたい……!
(……無駄だ無駄だ。そんなことをしても彼の心は手に入らない……)
……わかっている。わかっている!でも……娘の名前を呼ぶことで、この世で一番愛しい女の名前を呼び続けられることを思い付いた、男の狡猾が許せない。

 

 私は、ゆっくりと関孫六を研ぐ。

 

 ……芹里奈の影が、私を殺す。

 

 

 ------------------------------------------------  

         《後編 終わり》

           了

 

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4 コメント

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読後感 (にのみや あきら)
2016-09-10 11:43:01
第二部、読ませていただきました。
一部は、前夫の目線で、今回は彼女の目線での展開、面白いですね。
トップの絵、ダリを連想させる絵ですね。
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にのみや あきらさん!こんにちわ (のしてんてん)
2016-09-10 12:43:12
長文にかかわらず読んでくださってありがとうございます。

楽しんで読んでいただけたら幸いです。


ダリはシュールレアリズム「超現実主義」絵画の代表だと言われていますね。

心の世界を描くと、ダリやキリコなどの風景は自然に刷り込まれたように出てくるのかもしれません^ね^
返信する
残暑を暫し忘れました (宮沢治)
2016-09-10 22:20:56
1部は、トンネルが別次元の入り口のようで、汗も引く、ひんやりとした空気感が怖い。2部は覚めてしまった人の気持ちが怖い。セリナと名付けた男の未練が男の共通項で度し難い、女々し男へ引導を与えてくれる彼女は救い主かもしれない。前後が相乗して良かったです。友人に拡散しました。2部の作者のほかの作品も読んでみたいです。
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ご批評心に沁みます (のしてんてん)
2016-09-11 08:40:35
的確なご批評ありがとうございます。

2部の作者 かわかみれい はまだ市場に出てはおりませんが、いずれ、たくさんの人たちに読んでもらえる作家に成長する。

そう思っております。

宮沢治さんのコメントは、とてもうれしい励ましになると思います。

ありがとうございました。
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