陸奥のパワースポット

みちのく青森の、自然や神様など、こころ洗われ元気がでる場所を巡る。

イネ  Ⅲ   ・・・ 田植え ・灌漑 ・・・

2015-09-20 11:04:28 | 旅行

 

田んぼの泥の感触は

田植えなどで 田んぼに入ってみても

表現しずらい

体験してみるにかぎる

 

子供らの 田植え体験に備えて、  「回転式田植定規」で泥に手植えの目安を付ける  入内田んぼ

 

同上  入内田んぼ

 

子供らの田植え体験   入内田んぼ

 

同上

 

同上

 

 

今や ほとんどが乗用田植機による        野内川下流域の田んぼ

 

 

野内川下流域の田んぼ

 

 野内川下流域の田んぼ

 

入内田んぼ

 

 カエル ( 蛙 カワズ )の声が聞こえている

 

十和田市の田んぼ

  

水田には 農耕の上で

大きなメリットがある

それは  田んぼに水をはることにより

「連作障害の防止」「保温効果」

「雑草防除」「還元状態での肥効」

「窒素分がよく土壌に吸着され,無駄に流下しない」

「カリウムは用水中から供給される」

「湛水中に発生する藻類の中には空中窒素を固定する働きがあるものもある」

「水質浄化機能」「地下水涵養(かんよう)機能」「土壌保全機能」等・・・・・・

 

春先 田んぼに水をはる       野内川下流域の田んぼ

 

 

同上

 

同上  十和田市の田んぼ

 

根幹となる水を得るため

国内各地で

先人の技術と熱情をもって

長大な用水路を開削し

不毛の荒野に

豊穣の田んぼを

造り出してきた

「稲生川」は

その代表格だ

 

十和田市  稲生川

 

十和田市  稲生川

 

稲生川は山にトンネルを掘って堰を開いた

山の神を崇めつつ  ローソクの灯りを測量の目安にして掘り進んだという

 

稲生川開削の記念公園  十和田市法量

 

 

【 稲生川にかかわるweb資料をここに引用する 】

 稲生川

出典: 『(Wikipedia)』

稲生川(いなおいがわ)は青森県の上北を流れる人工の川である。

 総延長70km、受益面積は2市4町6,000ha。

農水省疎水百選。

全国疎水1位。

開削に至る経緯

  かつてこの地は火山(現在の十和田湖)の噴火で発生した火砕流によってできた荒地で、その地質と夏場の強いやませにより「木なんか三本と育たね」として「三本木原」(南北10km、東西32km)と呼ばれていた。当時この地は年間を通して非常に寒く、農業はほぼ不可能であり、そのため定住者はほとんどおらず「三本木さ行ぐな」と言われる程で外部から人が近寄ることも稀な所であった。

  盛岡藩の新渡戸傳はこれを見かねて耕作可能な地に変えようと水源となる人工河川の開削と、やませを防ぐ防風林の植樹を計画する。この川は陸堰(地上を流れる水路)だけでは不可能とされ、上流に穴堰(地下水路、今で言うトンネル)2本を伴うものであり、水源となる十和田湖からの全長は10里(約40km)にも及び、十和田湖から出る奥入瀬川と三本木原との高低差は30m、さらに前述した建設地の環境の厳しさもあって、難工事は当時より予想されていた。

  1852年(嘉永5年)に三本木開拓の意見書が藩に提出され測量が開始される。1854年(安政元年)には建設開始に向けて有志が集まり始める。建設資金は八戸出身の蛇口伴蔵の援助により賄われた。

建設開始より

  1855年(安政2年)4月に開発着手の願いが藩へと提出され、8月に許可され10月4日起工される。1856年(安政3年)には最初の穴堰が貫通、翌1857年(安政4年)には2本目の穴堰も貫通する。この間に傳は役人として江戸に出たために息子の十次郎が一旦継承する。

  十次郎は稲生町を東西南北12町(1.2km)の碁盤の目の格子状に分け、表通りは16m、裏通りは12mとし、街中に水路を造った。このような格子状の都市計画の始めだと言われる。札幌市を作った中心である開拓使判官島義男が三本木原を見てまわって、参考にして格子状の都市を作ったという。

導水そして命名

  1859年(安政6年)に傳は三本木へと復帰、同年5月4日ついに導水され、水路としての機能が開始される。そしてこの地が実り豊かになるようにと願いをこめて藩主南部利剛により稲生川と命名された。その後も太平洋目指して工事は続けられ、1866年(慶応2年)には十次郎により第二次上水計画が着手される。しかし1869年(明治2年)に開発は一時中止される。その後、傳は工事の再開と国費の投入を請願、これが認められたか否かは定かではないが、国有地払い下げの記録があるため何らかの協力は得られた模様である。そして1937年(昭和12年)ついに国費での開発が決定、翌1938年(昭和13年)より国営開墾が開始される。戦争により一時は中断するも、1946年(昭和21年)に再開され、1966年(昭和41年)ついに太平洋に到達し完成した。その後も古い水路の改良工事等が行なわれている。 



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