尻屋の“寒立馬”
寒立馬は南部馬の流れをくむとみられている
幾世紀にわたる『牧』の経営や 馬の改良への
藩政の厚い保護と 家々代々での伝承が
かつて 名産地を築いたのだと伝えられている
「イーハトーブ電子図書館・岩手の古絵図」の中に
「南部九牧の図」を見かけた
この絵図を見ながら
南部馬の来歴を辿りたい
奥戸の牧 イーハトーブ電子図書館より 以下同じ
大間の牧
石上玄一郎著「菅江真澄の旅」の“おのとり”編での吉川保正による挿画
大間・奥戸の牧で駒を捕らえて田名部へ牽いて行く場面だと・・・・・・・
有戸の牧
木崎野牧
木崎野牧の図 県立郷土館蔵
気比神社 木崎野牧に鎮座
気比神社の由緒
気比神社の位置
又重牧
北野牧
三崎牧
相内牧
住谷野牧
南部九牧の図表紙
唐馬の碑 三戸町HPより
同上
唐馬の碑 碑文 青森県叢書奥隅馬誌より
唐馬の碑位置
尻屋馬 鎖国時代の牛馬飼養がおもわれる・・・・・・・・
【参考資料】南部馬改良史 廣澤安任
『南部馬改良史』 廣澤安任
中央獣医会雑誌 (3Appendix・79―83) 1890(明治23年)
私は青森県の廣澤安任と申します。與倉(よくら)君から、今日の獣医官の会席で、南部馬の来歴の話をしてもらいたいと言われていたので、かつて考えたことを少し申しあげたいと思います。
さて、第一にはその馬の種のことであります。私が申し上げたいのは、南部馬の種は、南部の地が開かれた当初から、我々住民と創生を共にしてきたのであろうと言える証があるということです。それは、耳慣れた「末の松山波越さじとは」という古歌のあるその「末の松山」が、奥州街道沿いにありまして《一戸の浪打峠のこと》、ここから地質時代の品々・水産・陸産等の形あるものが石に化して現出しているのです。そしてその多くのものの中に、たまたま馬の蹄がそのまま石に化したものが見つかったわけです。馬の蹄はどこでも石になりうるのでそれだけでは証にはならないと思われるでしょうけれども、海から隔たること30里の山奥の地におきまして、いろいろなものと一緒に化石となったものなので、その地質時代に存在したものであることの証ともなるのではないでしょうか。
また、奥州のことではありませんけれども、スサノオノミコトが生き馬の皮を剥いだという話しは天照大神の時代のことでありますし、牛のことが書物に出てくるのは神武天皇の時代になるのですから、すべて我が国の牛や馬は我々と始まりを共にしている種だということになりましょう。百済王から2頭の善馬を贈られたことが我が国の馬の始まりとなったのだなどということは信ずることができないと思います。
南部家の先祖の南部光行がいまだ奥州に赴いていない文武天皇の頃には、諸国に「牧」が開かれ、甲州、信州、武州、薩摩、奥州等に牧がありました。奥州におきましては、「尾駮(おぶち)の牧(まき)」が最も有名で、早くから大宮人の耳にも入り、古歌にも 「綱たえて はなれはてにし みちのくの 尾駮(おぶち)の馬を きのう見しかな」などの歌も詠まれております。また村の名にも尾駮があり、その近隣には高尾《鷹架(たかほこ)》という村、鞍打(くらうち)《倉内》と言う村があり、みな馬の縁からとったもののようで、今にいたる馬の産地となっております。
その中に奇談があります。龍馬が天降ってきて、地馬で悪種のものを食いつくし、わずかに後々の種となるべき良牝馬を残したというのです。これは神明の仕業であり人間の思いを離れたことであったと言われております。その龍馬は巨大で、その背には鞍を7つ並べることができたほどで、これを「七(しち)鞍(くら)」となづけ現在も倉(くら)内(うち)村の地に小やしろを建てたものが祀られております。はてさて、凡慮の届かない事は全部神明々々とかたづけておりますが、じつはその時に明達な人がいて馬種は精選しなければいけないと教えたものと私は考えるものであります。
その後、源平合戦のころ、つぎつぎに名馬を出したことが知られております。軍人が良馬を選ぶのは無理のないことであります。その頃、馬は戦争の第一の武器であります。今でも火縄銃をとるか村田銃をとるかと言われれば、火縄銃をとるものがないように、勝負はその武器によって決すると言われるほどなのであります。ですから奥州のはるかな遠いみちをも厭わずに、上方の織物などの珍品をたずさえて良馬を買い求めにきたのであります。
「義経の大夫(たゆう)黒(ぐろ)」は三戸の住谷野から、「佐々木の池(いけ)月(づき)」は七戸の上野村から、「権(ごん)太(た)栗毛(くりげ)」は一戸村から出ておりますし、その他有名な馬は南部の地すなわち今の青森県に属する村々から出たものが多いのであります。
当時の“馬品”は、今では古図などに伝わるものを見るだけですけれども、なかなかに勇ましく、しかも丈は4尺7・8寸等あったことが源平盛衰記の中に見ることができます。私は、当時は人の丈も高く、馬も高かったに違いないと思っております。旧幕時代において馬は4尺3寸4寸位のものを「乗り頃」として、あまり丈が高いのは武道不案内と言われたのは、兵学者の座上論からでたものであって、そのむかしには馬尺の高いものを尊崇したものであると推察しております。
徳川幕府のはじめの、元和・寛永の頃、南部家二十幾代目の利(とし)直(なお)侯は、固有の名産馬産のために開牧に着手し、第一番目に「住谷(すみや)牧」、「相内(あいない)牧」、「木崎(きざき)牧」等を、追々元禄年間までに、「有(あり)戸(と)」、「大間(おおま)」、「奥戸(おこっぺ)」等の牧を全部で13カ所着手しました。
享保年間には徳川8代吉宗将軍が諸物産に力をいれた時であり、南部家のような産馬地には、洋馬の種をも分与されました。その時の記録では、その馬は五千里はなれた「ハルシャ」国の産であり、公義から賜る大切な馬であるとして、惣馬役所の取扱懸りにねんごろに飼い立てられました。そして、当時三戸に馬役所があって、最も近い住谷野に放牧され、その産出の駒が盛岡に引き出されたことがありました。この馬は鹿毛(かげ)・星(ほし)で丈4尺9寸でしたが、寛保2年に斃れたとされています。現在その塚《唐(から)馬(うま)の碑》は三戸街道の側にあり「陸奥(みちのく)の 住谷に散れる 春沙(はるしゃ)哉」「子の花や 住谷に開く 春の駒」などとその碑に刻まれております。
その後、宝暦年間に一戸五右衛門という人が馬役となりまして、産馬の中興に力を入れ、天保・嘉永年間には最も盛んでありまして、殊に「木崎野」は一牧で8~9百頭あるいは1千頭にもなって、「国一」、「飛龍」、「豊丈」などという名馬を出しました。維新後までは「木崎」
、「又(また)重(しげ)」、「大間」、「奥戸」等の牧は残っておりましたが、その後には廃止することとなったわけであります。
さて、南部家における馬産はなかなか容易なことではありませんでしたが、それが名産地となったのは偶然のことではなく、保護が篤く行われたことの結果であります。
その第一は「種馬貸下(かしさげ)の法」であります。これは牧場その他から産出した良馬を競売場(せりば)において選び取らせて「御用馬」という一声によって買い上げとなり、これを要望のある村々へ「貸下」しました。3軒ある村においても望めば必ず「貸下」したのであります。
この「貸下の法」で最も感服することは何かと申しますと、良馬を君侯の厩に飼い立て置いて、10歳余りまで乗り仕込み、しかる後に馬品とその性質を知りつくしてから、これは何組・何村の牝馬に適当だとみとめれば、その村へ貸しつけたものであります。したがって、その産駒はいわば教育の伝えがあるものとなるわけであります。
また「組合規則」を設けて、冬飼いの方法を授け、2歳の競売場を設けて販路を開き、秋田、庄内、仙台の岩屋堂あたりまで販売が及びました。
当初から、支出収入において幾多の損があるにもかかわらず、藩政によってこれを補足して保護したのであります。
よってもって、3百年間を貫き何時も収支が償われずに容易でなかった南部の産馬は、天保の末頃からようやく少しづつ「蔵入金」を生ずることとなったのであります。
このように、産馬に保護があることによって、今にいたるまで一般村民に伝習され、種を選ぶということに注意しない者がなく、2歳の競売場では“金惜しまず”という意気込みになって、1頭幾百円という村の身代にも似ない集合金によって父馬を買い取ったりするようになりました。したがって牝馬もよく選び、何村何家の「スマキ」と言えば、価格は必ず高く、その馬の孕方(はらみかた)もよろしく、その仔の成長も必ずよろしく、その価格も高くなったのであります。
畢竟、政治がより厚く保護し、家々代々がそれに慣れていったことが、この馬産を有名にすることとなったわけであります。
つまり、南部家の産馬は第一に保護を最も厚くかつ永く続け、また風土にも適し、自然環境の良さという種々の原因があってこれを成し遂げさせたものであります。
以上申し述べましたところは南部馬来歴の極めて概略のものであります。私はこれについてもっと精密に述べたいわけでありますが、時間に限りがありますのでこのあたりで止めることといたします。
なお詳しいことにつきましては拙著の「東奥隅馬誌」《奥(おう)隅(ぐう)馬誌(ばし)》をご閲覧あらんことを希望する次第であります。(文責 kosamu)