惑には、見惑・思惑・困惑・迷惑の四つがございます。
見惑とは、見たものに対してはっきりと見解が定まらず迷うことです。
思惑とは、一つの例をとって考えて見ましょう。
今百歳の人がいたとします。
その人は百歳ではまだ足りないから、千歳まで生きたいと考えたとします。
人の寿命は、百歳位が限界ですから、このように考えることは、既にその考えが間違っているわけです。
間違って考えることを思惑と申します。
困惑とは、困(こん)とはくくられることです。
くくられるとは、道を受け、道のよいことを知っていながら修養しようとしない境地です。
もう一つは、この世のすべてのものが仮のものであることが、道の話を聞いて解ります。
しかし、仮物に執着する、これが即ち困惑です。
迷惑とは、“人に迷惑をかけた”という迷惑ではありません。
字は同じですけれど、意味は違います。
人間世界の声色貨利によって人は迷うわけです。
そして、これに迷うことは非常に悪いことであることを知りながら、あくまでも執着して離れない、その為に道を進むことが出来ない。これを迷惑と申します。
人間にはこの四惑のとりこになっているのです。
我々は牢屋に閉じ込められた囚人ではないけれど、目に見えない四惑によって牢屋に閉じ込められた囚人と同様にとらわれの身となっているのです。
起惑、造業、受苦。(惑を起こし、業を造り、苦を受ける。)
四惑を起こせば、必ず業が造られます。
業には十の悪行がございます。
この十悪業は、身で造る業、口で造る業、意で造る業の三つに分けられます。
意に貪(どん)・嗔(しん)・痴(ち)。
口に悪口(あくこう)、両舌(りょうぜつ)・綺語(きご)・妄語(もうご)。
身に殺(さつ)・盗(とう)・淫(いん)があります。
これを合わせますと十悪業となるわけです。
人は、身(しん)・口(く)・意(い)の三業が不浄の為に非常に苦しみを受けています。
私達は、その苦しみを免れるために修道しているわけですが、修道することにより、だんだん三業が清浄になるわけです。
続く