次は意の業です。身の業・口の業は形に現れていますので、これは努力すれば非常に改めることができますが、この意の業は目に見えないものが業を起こしているので改める事が非常に難しいわけです。
同じ業でも身で犯したものを過ち、口で犯したものを錯(あやま)ち、意で犯したものを罪と申します。
意の業は先ず念が起きるわけです。
念は物を貪ることから始まります。
貪(どん)とは、名誉、利益、財貨、色、酒を貪ることです。
例えば、自分は持っていないけれど他人は持っている、それを自分のものにしようとする、これも貪です。
貪(むさぼ)りが起こり、それが完全に自分の手に入ってしまうならば、問題ないかも知れませんが、我々の心の中の貪りが完全に果たされることは、ほとんどない訳です。
嗔(しん)とは、求めても手に入らないと嗔(いか)りが起きます。
私たちの佛性は非常に浄(きよ)らかで圓満なものでありますが、嗔りが起こって来た時には、あの真黒い雲が十五夜の月を被(おお)うが如く、私達の明らかな佛性が被われ、無名の境地に陥(おちい)るのです。
你火我不火、燒你不燒我。(你〈なんじ〉は火〈おこ〉るも我は火〈おこ〉らず、你を燒いて我を燒かず。)
火という字は、嗔(おこ)るという意味です。
腹が立った時、胸が熱くなるでしょう。結局その胸の中に火が起こってくるわけです。
あなたがおこっても、私は起こらないようにしなければなりません。
もし、あなたが嗔(おこ)った場合、あなたの佛性が燒かれていくのです。
私がおこらなかったならば私の佛性は燒かれません。
続く