忍辱波羅密多至上菩提果。(忍辱波羅密多〈にんじょくはらみつた〉は至上の菩提果なり。)
忍辱とは、六波羅密の一つですが、仮に何か嗔ることがあったとしても、それを抑えて耐え忍ことです。
波羅密とは、到彼岸、即ち悟りの岸に到ることです。
苦海であるこの世を此岸(しがん)と申します。
忍辱波羅密したならば、最高の菩提果を得ることができます。
菩提果とは、佛果です。
人間社会の地位のようなものを理天では果位と申します。
痴(ち)とは、どちらかが正で、どちらかが邪であるかをはっきり分別できないことです。
例えば物を貪る、それが得られないならば、怒りを起こす、そして、痴の境地に陥るわけです。
苦報是果。(苦報は是れ果なり。)
我執が因となって惑業を行う、これが縁である。
これによって、十悪業が造られ、苦が生じてきます。
この苦しみが、この因と縁の報いであります。
これを果といいます。
三苦とは、苦苦(くく)、行苦(ぎょうく)、懐苦(かいく)。
四苦とは、生、老、病、死。
八苦とは、四苦と怨憎会苦(おんぞうあいく)、愛別離苦(あいべつりく)、求不得苦(きゅうふとくく)、五陰熾盛苦(ごいんしきせいく)。
身為苦本、是身無常。(身は苦の本を為す、是れ身は無常なり。)
我々の身そのものが苦しみの根本を為し、この世に生まれて来ると、もう既に苦しみが来るわけです。
そこでお釈迦様は、是れ身は無常なり、と申されました。
人の身は無常である。
黒い頭の毛をした人が間もなく白い髪となり、そして、この世から消えて行かねばなりません。
これは一つの簡単な物語ですが、ある人が年をとって死にました。
そして、閻魔王(えんまおう)の所へ行って、「どうして私を殺して、地獄へ連れて来たのですか。」と申しました。
すると閻魔王は、「あなたの寿命が来たからあなたは死んで地獄に来たのです。」と言いますと、その人がまた、「何日の何時頃、あなたは死ぬという手紙をどうしてくれなかったのですか。」と文句をつけました。
そこで閻魔王は、「あなたの髪は白かったでしょう。」「勿論白かったです。」「あなたの歯は抜けていたでしょう。」「抜けていました。」「私はもう既に、あなたの体に手紙を上げましたよ。」と閻魔王がその人に言いました。
髪は真白になって来る。
歯は抜けて来る。
顔が皺(しわ)だらけになって来る。
これは、既にこの世を行く手紙が閻魔王から来た、と考えても間違いないわけです。
これはもうこの世から去るべき時が間もなく近づいていることを意味しているのです。
ですから、三苦とは、
苦苦。(苦しみを苦しむ。)人間は、生まれ落ちると、直ぐ苦しみを苦しみ始めわけです。
行苦。(行うを苦しむ。)行うとは、一つの苦しみがあって、その苦しみを果たす為に行うのであるが、また次の苦しみを生み出して、又苦しむ、遷流(せんりゅう)即ち流れを移して行くのです。
壊苦。(壊〈こわ〉れるを苦しむ。)例えば、自分の命と同じ位大切にしている骨董品を子供が割ってしまったとします。
しかし、子供を叩いてみても、怒って見ても元通りになるわけではありません。
そこで非常に惜しんで苦しむ境地です。
次に八苦でございますが、中でも生老病死は非常に公平で、一國(こく)の王様であろうとも、この苦しみを逃れることはできません。
生苦。(生まれる苦しみ。)私達が母胎に宿っているとき、丁度、真暗な部屋に閉じ込められている様な状態です。
お母さんが食べられたものを僅かいただきながら、十ヶ月して苦しみながら生まれるのです。
この苦しみは、すべての人々が同じく受けているのです。
老苦。(年をとる苦しみ。)年をとりますと、顔にしわが出る。歯が抜けて物を食べても美味しくない。
足腰が痛む。これは如何に親孝行の息子がいたとしても、親の苦しみを代わることはできません。
病苦。(病気の苦しみ。)健康な時には、健康の有難さは解りませんが、病気に罹(かか)りますと痛みと精神不安が交錯して非常に苦しむわけです。
死苦。(死の苦しみ。)人が死んで行く時には、この体は丁度壊れかかった家のような状態です。
死にたくないけれど、体がもう壊れかかっているのでやはり死んで行かなければなりません。
死んだ後、どこに行くのでしょうか。
初めてあの世のことが心配になってきます。これが死んで行く時の苦しみです。
続く