真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~十、真道に考煉(こうれん)あり

2024-04-10 19:07:16 | 性理題釋

十、真道に考煉(こうれん)あり

真道は逆行でありまして、順行は鬼となり、逆行は仙仏となります。

古言に『道はまさに、高い杆(さお)に上る如く、下りは容易にして上りは難し』と申され、水の流れを逆上っていくようなものである、との意味を申されました。

活仏様は『大法は大隠にして大顕(たいげん)あり、真道は真考して真心を見る』と申し、”大法は大いに隠れたり、顕したりし、真の道には真の考煉(試煉)があって、その真心を見るのである”と申されました。

諺に『玉も琢(みが)かざれば器を成さず、金も煉(ね)ら坐れば銭に値せず』と申しております。

そこで道教では『文烹武煉(ぶんぽうぶれん)』を説き、儒教では『切磋琢磨』を説かれました。

道でいう考とは即ち考煉で、その人の意志をためすことであります。

孔子様が陳蔡(ちんさい)に於いて禍(わざわい)に会われた際『高山に登らざれば顛墜(てんつい)の患(うれ)いを知らず、芝蘭(しらん)は幽林(ゆうりん)に生じて人無きに因(よ)り芳(かお)らざらず。

君子は道を修め徳を立て困窮に因り敗節せざるなり』と申され、その試煉に打ち勝たれました。

孔子様は、二三人のお弟子を顧(かえり)みながら『陳蔡の間、丘(きゅう:孔子様の御名)の幸いなり』と申されました。

まさにその刺激が発奮(はっぷん)する根本となり、道を成就せられたことが、これによらなかったと言えましょうか。

孟子様は『天がまさにこの人に大任を降ろさんとすれば、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体腹を餓(う)えしめ、その身を空(う)えせしむる』と申され、“相当な試煉の結果、大任を降ろす”というお話を申されました。

考とは言い換えますと、上天の成全(せいぜん:育成)でありまして、例えば地方の長官はその試験に合格したもので、その資格がなければ誰もその任務にあたることが出来ないのと同様であります。

聖者孔子様は『朽木(きゅうぼく)雕(ほ)るべからず、糞土(ふんど)の牆(かき)汚すべからざるなり』と申され、“余り好くない者には手の施すすべがない”ことを申されました。

上天は仏縁の深く厚い人に試煉を賜るものであり、その人でなければ、どうして試煉を賜り育てて下さるでしょうか。

続く

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