八、人一を得れば聖
無極が動いて位置が生まれ、その一本が万殊に散って参りましたので『天がその一を得れば清となり、地がその一を得れば聖となる』と古聖が申されました。
故に、
仏教では『明心見性(めいしんけんしょう)と万法帰一(ばんぽうきいつ)』を説き、
道教では『修心煉性(しゅうしんれんせい)と抱元守一(ほうげんしゅいつ)』を説き、
儒教では『存心養性(ぞんしんようせい)と執中貫一(しっちゅうかんいつ)』を説かれました。その一とは真理であります。
人間は天の理を得て性となし、天の一を得て形をなしております。
故に先天においては、一である性が円満光明で渾然(こんぜん)とした天理であって、飲まず食わず、思わず考えず、母親の呼吸に随い、一気が流通されるのであります。
しかし生まれ落ちて、あーっという泣き声一声出してからは、陰気の二気が口と鼻から入り、理であった一は陰陽の二に分かれてしまうのであります。
先天では、ただ一つの性が、後天においては、もう一つの命を得て、性と命の二つに分かれて、各々その一を失ってしまいました。
性は一を失い、乾(けん)は変じて離(り)となりました。
離とは、はなれることでありますので、必ず分散するのであり、分散すれば又虚(むな)しくなります。
一点の霊性は舎利子(しやりし)の本位を離れてしまいますので、その本位は虚しくなる訳であります。
一点の霊性は、目に分散されて行って色を見分け、又分散して行って声を聞きわけ、鼻に分かれて行って臭いを嗅ぎ分け、口に分かれて行って飲食を味わい、言葉を話し、四肢(しし)に分散して行って動作をなし、皮膚に分かれて行っては痛さ・かゆさを知り、毛孔(けあな)に分散して行って寒暑の差を感覚し、臓腑に分かれて行って飢飽(きほう)を知り心に散じて行って六慾を産み、意に散じて七情をもちながら、東西にさすらい、酔うように生き、夢のように死んで朦朧(もうろう)とした、不安な世界へと落ちてゆくのであります。
命は又一を失い坤(こん)は変わって坎(かん)となります。
坎とは凹でありまして、凹があれば、必ず落ちるものであり、この一点の霊性は七情六慾に陥(落居)り、そして、酒色に溺れ(おぼ)れ、財気に埋(う)められて、四生六道(ししょうろくどう)の輪廻に陥って、本来の面目に立ち還ることが出来なくなります。
天が一を失えば、日月星辰(にちげつしんせい)が軌道から外れて乱れ、地が一を失えば、山は崩れ海は決潰(けっかい)し、人がその一を失えば、陰陽の虜(とりこ)となり、輪廻の陥ってしまうのであります。
性とは理でありまして、理が一を失えば埋められ、埋が一を得れば理となるのであります。
古言に『理あれば普く天下を渡り、理なければ寸歩も行き難し』と申され、理の貴い所を説かれました。
続く