三十二、心好いのに何故入道するや
普通の人で、もし善良な原子に属しているならば、この道を一聞すれば踴躍(ようやく)して入道し、修道しながら力を尽くして道を提唱するのであります。
おおかた善人や君子は世道や人心を思わぬ時はありません。
現今世道は軽薄になって地に落ち、人心は奸詐(かんさ)になり険しくなって悪気が沖天(ちゅうてん)したために、種々の悪劫(あくごう)を招くようになりましたが、道を憂う君子は朝夕法を説き、衆生救済に余念がありません。
今日、天道が現れたのを求め得て、その普伝された事を喜ばぬ者がありましょうか。
入道の最高の目的は、超生了死して本源に達還することと、閻魔王の裁きや輪廻の苦しみを再び受けない所にあります。
もし、徒(いたずら)に心が好いといわれても、それは時があるので、それは濁世(だくせ)の一善人に過ぎず、転生して福報(ふくほう)を受けるだけであります。
しかし、福禄(ふくろく)亦尽きる時があるので、その尽きる時が到ればどういう結果になるか知れません。
これに較(くら)べると、入道した者は、明師の指点を受けて永く輪廻の苦しみを脱し、安らかに無窮(むきゅう)の福を享(う)ける事が出来るので、日を同じくして語ることは事は出来ません。
我々が細かく玩味(がんみ)すべき孔子様の郷原(きょうげん:偽善者)を悪(にく)んで申された言葉に『徳の賊(ぞく)なり』という一語と、亦悟って見なければならぬ『朝に(あした)に道を聞けば夕(ゆうべ)に死すとも可なり』という貴い名言は、即ち心の好い事は本より入道したのと違う事を申されたのであります。
続く