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富士には月見草がよく似合う-太宰治の父と乳

2008-09-09 07:48:00 | 日記
富士には月見草がよく似合う-太宰治の父と乳

(1)富嶽百景のころの太宰
(2)父~師・井伏鱒二「富士には放屁がよく似合う」
(3)母~妻・石原美知子「まっしろい水蓮の花の富士、月見草が似合う富士」
(4)富士~単一の美めざして



(1)富嶽百景のころの太宰
 『富嶽百景』は、1939(昭和14)年2月に発表された短編で、中期=安定期の佳作として評価されている。
 太宰30歳。この作品が発表される前月に、師、井伏鱒二の家で、石原美知子と結婚式をあげ、生活のうえでも文学の上でも、転機をはかった時期であった。

 『富嶽百景』は、私小説の少ない太宰の作品のなかでは、最も私小説的なもののひとつである。発表の前年1938年9月、井伏が滞在していた山梨県河口村御坂峠の天下茶屋に行き、二ヶ月ほど滞在。
 井伏の紹介で甲府の石原美知子と見合いし、婚約が成立するまでの出来事が『私』という一人称で語られている。

 天下茶屋へ行くまでの太宰は、昭和10年11年、東京帝大は落第、都新聞の入社試験に失敗。三度目の自殺未遂。パビナール中毒。芥川賞落選。
 昭和12年、妻・初代の不定を汁。初代と心中未遂。別居後離別というように、生活も破綻し、文学にも懐疑的になり、執筆もできなくなった状態であった。

 師・井伏に招かれて天下茶屋に滞在した太宰に、精神的な転機が起こる。四度の自殺未遂ののちの、起死回生。再生への意欲。この滞在以後、太宰はかわる。文体しかり、小説の題材しかり。なによりも生活において。

 この中期=安定期の作品と生活は、戦後の社会的寵児としての太宰、そして後期の『斜陽』や『人間失格』などの作品に比べると衝撃度は少ない。後期を最も「太宰的」とみなす人からは、「非太宰的」だとさえみなされる。
 平野謙は、この時期の太宰の生活を生活者至上主義のための演技的生活だとみている。

 『この時期の太宰治はまず実生活を下降し、それにふさわしい文学を虚構することで、芸術と実生活の架空の一致を生み出した、とも眺められる。(中略)
 異常が平常で、平常が異常、というケースが、太宰治の生涯に妥当とするとすれば、もともと常識的な生活者というようなものは最初から太宰治には存在せず、中期の一見尋常なコースこそかえってフィクショナルな生活仮構の時期ともながめられるのである。(中略)
 太宰治は明るく健全な文学のために常識的な生活者を仮装しなければならなかった。』(1954 平野謙 『太宰治論』)

 平野の見方に従えば、真の太宰に対して、中期の太宰は仮構であり、ニセモノの太宰ということになる。

 私はそうは思わない。中期の太宰もまた太宰の本質である。
 太宰が自分自身の真の姿をねじ曲げて、安定した家庭生活を無理に仮構したのだとは思わない。
 「義の為あそんでゐる。地獄の思ひで遊んでゐる。(『父』)」という戦後の放蕩無頼の太宰が一方の真実なら、「人間の生き抜く努力に対しての純粋な声援(『富嶽百景』)としての文学を心がけた太宰もまた、真の太宰治だと思う。

 コミュニズムを裏切り、妻にも友人にも裏切られたと思い、すべてに絶望した太宰は、天下茶屋での二ヶ月の滞在の間に、過去をすべて葬り、新しく行き直そうと決意したのではないか。新生しようとした太宰、美知子との結婚生活を得て、安定した生活者として過ごした太宰もすべて「太宰治」である。
 
 政治活動に従事していたときの太宰は、コミュニズムを唯一の真理と心から信じ、活動から遠ざかったのちも、その正しさだけは疑わなかった。
 太宰は真剣にコミュニズムにかかわったのであり、中期の安定した家庭生活に関しても、決して偽装や演技ではなく、真剣に真摯に生きたのだと思う。

 玉川上水での上梓の報を聞き「なに、あれはまた小説のタネにするでしょう」と発言した者がいた。
 石川淳は『太宰治昇天(1948)』の中で、この発言を聞いて激怒し、発言者をどなりつけた、と書いているが、平野が太宰の中期の生活について、明るく健全な文学のための偽装だという仮説を立てたのに対しても、石川なら反対するのではないだろうか。

 平野の私小説と作家の実生活の理論にたいして、伊藤整は「平野に近い」と述べている(『近代日本人の発想の諸形式』p10)
 『太宰にも、葛西(善蔵)にもその傾向がある。すなわち、私小説は、それが書かれるときに、作家の生活がほろび、作家の生活が調和して落ち着くときは書けなくなる、という二律背反に陥るものである』と、している。

 伊藤の太宰観を『近代日本人の発想の諸形式』の中から抜き出してみると、
「自殺的破滅者(p38)」「妻の姦通や心中して自分だけ助かった経験によって、無や死の上に立つ生命の認識を鋭くし、また危うくもした。」
などがあり、平野のいう「私小説作家」に太宰を含めているようだ。

 これまで、太宰は無頼破滅型の作家として、ひと括りにされてきたのだが、平野や伊藤の太宰観を全面的に受け入れてしまう気になれないのは、中期の生活と作品の受け取り方が異なるせいだと思う。
 後期の破滅的な太宰のみを太宰の本質と見て、中期は虚構、偽装された太宰と見なすか、書記・中期・後期、すべて、まるごと全部が太宰だとみなすかによって異なってくるのだ。
 
 私は『富嶽百景』を、真摯に再生しようと思った太宰による「再生への決意表明とこれからの自己の芸術のあり方の模索」の報告として読んでみようと思う。


(2)父~師・井伏鱒二「富士には放屁がよく似合う」

 富士の天下茶屋に太宰を招いた井伏鱒二は、『思ひ出』『東京八景』などの自伝的私小説的作品について「私の知る限りでは、小細工を抜きにして在りのままに書かれてゐる」と述べており、『富嶽百景』についても「可成り在りのままに書いてある作品」と言っている。(『太宰治のこと』(1955)
 
 ただし、井伏は『富嶽百景』に描かれた自分の姿について「一カ所だけ訂正しておきたい」とこだわっている。

 『私が三ツ峠の頂上の霧のなかで、浮かぬ顔をして放屁したといふ描写である。私は太宰君と一緒に三ツ峠に登ったが放屁した覚えはない。』
 太宰に抗議を申し込むと、「二つ放屁なさいました。」と言い、さらに「三つ放屁なさいました」と言った、という。

 井伏が「実際の出来事をほとんど在りのままに書いている」と評しているなかで、「井伏の放屁」だけが太宰の創作だったという点について、井伏のことばを信じることにすると、太宰のそのときの心理が、あぶり出されてくる。
 太宰にとって「放屁する井伏」の姿が必要だったのだ、と思える。

 せっかく峠に登ってきたのに、霧で見えない富士。
 見えない富士に向かって放屁する井伏の姿は、この作品のなかで、どことなくユーモラスであり、悠々としてこだわりなく、大人の風格を持つ。ひょうひょうとして、すべてをおおらかに受け止め、受け入れてくれる人物のイメージを感じさせる。

 貴族院議員をしていた父を失ったとき、太宰は十四歳だった。母親の影響下にいる子供時代を終えた男の子は、思春期に入ると父親へのモデリングを始める。見習うにせよ、反発するにせよ、父親の姿から受ける影響は、この年ごろの男の子にとって、大きいものである。
 しかし、太宰=津島修治の子供時代、父は不在がちであり、父の姿が必要なときには死んでしまった。太宰には、父の姿をモデリングすることができず、子ども心に、ただ大きな障壁と感じられたまま、父親像は閉じてしまった。

 そんな太宰にとって、思春期のモデリング対象は、三兄・圭治であったろう。長兄・文治が父に代わって津島家にとって父緒役割を果たすことになったが、修治にとって、見習うべき存在は、上野の美術学校彫刻科に在学していた三兄であったと思う。
 太宰が二十一歳のとき、兄の圭治ははじめて井伏に会い師事することになった。しかし、圭治は、井伏を師とあおいだその翌月に病没する。

 以後、井伏は太宰にとって三兄に変わるような存在になった。十一歳年上の師匠であり、兄である。
 他人に対してはいつも明るく気をつかって応対していたという太宰も、井伏にあてたてがみなどを見るかぎりでは、かなり自分をさらけ出してむしろ甘えているかのように感じられる。

 しかし、天下茶屋へ行くまえの太宰と井伏の関係は、ちょっと屈折したものがあったようだ。
 パピナール中毒を治すため精神病院へ入れられたことは、太宰にとってたいへんなショックであり、人間不信に陥った、ということだが、この入院手続きをし、身元引受人になったのが井伏であった。

 むろん井伏が太宰を気遣い、弟子の身体を思ってしたことである。しかし、太宰からすると、信じていた師匠にまで狂人扱いされた、と感じられた入院であった。井伏もこのころの太宰の感情について「おそらく入院中は私を恨んだことだろう」と述べている。
 太宰にとって、三ツ峠における井伏は、まだ入院中の屈折が消えきっていない。
 自分を「狂人」として扱い、強権を発動して入院させた保護者としての師匠。しかし誰よりも兄として慕わしい、二律背反的な複雑な存在であった。

 「放屁する井伏」は、こだわりなく自分を受け止め、受け入れてほしいと深層で望んでいる太宰の目に映る、兄=井伏の投影であると思うのだ。

 『富嶽百景』の中の井伏は、太宰に見合いをさせ、私生活の転機を作る。

 井伏は『山に来てもしょんぼりしてゐたのは無理もない。それがうってかわって「強く孤高でありたい」と手紙に書くやうになったのは、ときどき甲府の町へ降りて当時の婚約の相手から力づけられてゐた故だらうそれ以外の理由は私には思ひ当たらない』と、書いている。

 今回、三度目に読み返して、私はおもしろいことに気がついた。
 井伏も言っていないし、これまでの様々な『富嶽百景論』にも指摘されていないことなのだが、太宰は甲府で見合いをはかってくれた人として、師を、「井伏氏」と実名をあげて書いている。
 一方、婚約に至るまでの世話をし、結婚式をとり行ってくれた人物については「或る先輩」とのみ書いて、名前を故意に書いていない。
 実は、井伏が婚約まで世話をし、井伏の家で結婚式を行っているのである。
 なぜ見合いを世話してくれた井伏だけ実名を記し、結婚式のほうの井伏は、名を伏せるのか。ずいぶん奇妙な感じがする。

 年譜を見ないで、この作品の中だけで井伏の行動を判断すると、井伏は見合いに立ち会っただけで、その後は太宰の結婚に関わっていないように読みとれる。
 これだけ親しい井伏なのだから、見合いに立ち会ったことを実名で書くなら、婚約の世話や結婚式の世話をしたことを実名で書いても失礼には当たらないだろう。いやむしろ話の流れからいえば、わざわざ「或る先輩」などと、そこだけ匿名めいて書いているほうがよほど不自然である。

 なぜ太宰は見合いの場合だけ「井伏氏」と書き、結婚式の世話に関しては「或る先輩」などと持って回った言い方をしたのだろうか。
 井伏に対する太宰のかなり屈折した重いが現れているように思うのは、裏読みのしすぎだろうか。

 太宰にとって結婚式はかなり重要なものであったようで、実家の援助を得て「ささやかでも、厳粛な式をあげる」つもりでいた。
 しかし、実家からは援助を断ってきた。
 代わって結婚式の世話をしたのが井伏である。太宰にとって、結婚式は父→長兄に関わるもの、という意識があったのではないか。
 結婚式は「家」に属する儀式であると。

 初代との最初の結婚のときも、分家除籍という条件ながら、津島家は太宰の結婚に金を出し、一ヶ月百二十円の仕送りをしてきたのだ。
 二度目の結婚にたいして、実家はすべての助力を断ってきた。太宰ははじめて自分ひとりの才覚で経済的に自立しなければならなくなったのだ。
 二十九歳にして本当の自立である。

父は家に属するものとして太宰には意識される。
 結婚式を執り行ってくれた人は、「家に関わる父」である。儀礼を重んじ、いつも少年津島修治の前に山のように立ちはだかっていた父であるべき人だ。
 家の儀式に関わる「代理父」とも言うべき井伏のほうは、太宰にとって受け入れるスタンスができていない。
 子としての立場からどのように「代理父」に対したらよいのか、己の足下が定まっていない。
 それで、「或る先輩」と書いたのではないだろうか。

 太宰の井伏に対する感情は複雑だ。 
太宰にとって慕わしいのは、富士に向かって放屁する「兄=井伏」である。結婚式を取り仕切る「父=井伏」のほうは、感謝する気持ちの一方で、ちょっと煙たい、複雑な思いを含んでいたと思われる。自分を「狂人」とみなす保護者としての父。

 太宰にとって、「家」もまた、複雑な感情を有する記号である。
 自分の所属すべき所。しかし自分の居場所としては否定されて排除された場所。
 結婚式を取り仕切った井伏は、「家」に関わる場所に踏み込んできた「代理の父」井伏であった。

 井伏が放屁について「訂正しておきたい」と、こだわったのも、太宰が一方的な面だけの井伏を求め必要としていたことに気づいていたからではないだろうか。
 『富嶽百景』における太宰の気持ちとしては、あくまでも井伏は「放屁する兄」である。
 「富士には放屁がよく似合う」

(3)母~妻・石原美知子「まっしろい水蓮の花の富士、月見草が似合う富士」

 人間の子が生まれ、安定した人間関係を営んでいけるよう成長するためには「母子相互交渉」が重要な役割を果たす。
 たとえ生みの親でなくとも、幼児期を通して子供を全面的に受け入れ、子供が「この膝に乗ってさえいれば、何事が起ころうとも安心していられる」と、思える保育者が子供にとって絶対に必要である。

 しかし、太宰は安定した母子関係の中で成長することができなかった。
 生母が病弱だったので、乳母の乳で育ち、その乳母も一年たらずで幼い修治のもとを去ってしまった。
 小学校入学までは叔母きゑに養育され、叔母を実母と思いこんでいた。
 ところが、小学校入学に際し、生母のもとへ返される。
 実家に帰ったものの、生母には心から甘えたりなじんだりできなかった。
 この幼年期の太宰は『思ひ出』などからもうかがえる。

 心から甘えることのできる母を持たなかった故に、かえって太宰には母に対し、一種の距離を置いた憧憬とでも言えるものが残った。
 
 『富嶽百景』の中に、「母」の姿が二度出てくる。
 ひとつは見合いの相手・石原美知子の母である。実家からの金銭的な援助が得られないことを素直に述べた太宰に対して、美知子の母は、「あなたおひとり、愛情と職業に対する熱意さえお持ちならば、それで私たち、けっこうでございます」と答えて、太宰を感激させた。
「この母に孝行しようと思った」と、太宰は書いている。

太宰にとって、実家が金持ちの地主であることは、自分を縛る枷のようなものであり、しかも、それを利用せずには生活してこられなかった、二律背反の存在だった。
 コミュニストシンパ活動をしているときでも、まわりの活動家にとって、必要なのは太宰の政治力ではなく、実家から引き出してくる資金であった。
 実家から送られてくる仕送り金が、取り巻きたちの飲食に費やされることがままあったという。

 太宰のまわりには、太宰の実家の金目当ての人間も多かったのである。太宰は実家が地主であることを引け目に感じつつ、実家からの金なしには生活できない、というジレンマに常に悩まされていたはずである。
 そんな太宰にとて、「金のない自分」「職業への熱意だけ持っていればよい自分」を認めてくれる女性に出会ったことは、大きな驚きであり、自信になったことだろう。
 石原家の母娘との出会いが、太宰の再生の力になったのだと、私は思う。

 石原美知子は、東京女子高等師範学校を卒業し、県立都留高等女学校の教師をしていた才媛である。
 前妻初代は、経済的にも精神的にも太宰にたよりきっていた。
 美知子は、前の妻初代とまったく異なるタイプの女性である。太宰を受け入れ、精神的に支えになるタイプ、いわば「憧憬の母」のような女性として、美知子が現れた。

 自分自身は他の女と心中事件を起こしたりして勝手な行動をとっていながら、太宰は初代が他の男と過ちを犯したことにひどく傷つき、初代を許さなかった。
 女性の貞淑さに関しては、太宰もやはり古い観念しかもっていない。
 『富嶽百景』の中でも、花嫁があくびをしたのを見て「慣れてゐやがる。あいつは、きっと二度目、いや三度目くらゐだよ」と、悪口を言わずにはいられない。何度嫁に行こうと大きなお世話というものだが、太宰のイメージにとっては、女性は純白、貞淑な存在でなければならなかったのだ。

 美知子との見合いの席で、石原家に掛けられていた写真の富士山を見て、太宰は「まっしろい水蓮の花のようだ」と思う。これはそのまま美知子のイメージであったろう。蓮はまた、救済の象徴でもある。
 美知子は太宰にとって、水蓮の花のような富士山であり、ありのままの自分を受け入れ認めてくれる母のような存在であったろう。

 水蓮のような美知子に比べ、他の女性への太宰の点は辛い。
 ケシの花のようなタイピスト風のふたりの娘に対して、太宰は厳しい描写をしている。
 「富士にはけしの花は似合わない」

 孝行しようと決意させた石原の母のほかに、『富嶽百景』には、もうひとり母の面影をしのばせる人物が出てくる。
 太宰がバスの中で出会った老婆である。「濃い茶色の被布を着た青白い端正の顔の、六十歳くらゐ、アタシの母とよく似た老婆」「胸に深い憂悶」を持つように見え、太宰をして「あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに共鳴のそぶり」をみせて「老婆にあまえかかるやうに」という態度を取らせた老婆。太宰の「母への希求」が、ここにも出ているように思う。

 太宰は、「生母や祖母からはあまりかわいがってはもらえなかった」と、自分では思っていた。
 兄弟の中で一番器量も悪く、母からの関心も薄いと思いこんでいた。しかし、それだからこそ、母に認めてもらいたい、母に共感してもらいたいという希求の思いも強かったのではないかと思う。母に似た老婆が眺めている月見草。
 「富士には月見草がよく似合う」という有名なエピグラムが生まれる。

 「生まれてすみません」や「家庭の幸福は諸悪の根元」など、太宰はエピグラムつくりの名人だが、エピグラムだけが人口に膾炙した結果、勝手な思いこみもでてくる。
 この「富士には月見草がよく似合う」にしても、今夏読み直すまで、富士山の前に月見草が咲いている、という絵葉書的な図柄を思い浮かべていた。

 三度目に読んで、やっと富士と月見草の位置の違いに気づいた。
 老婆と太宰が見ている月見草は、バスの進行方向に対し、富士の反対側の山道の断崖に咲いていたのだ。
 絵葉書的に、富士の前で可憐に揺れていたのではなく、「富士の山と立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにいすつくりと立ってゐたあの月見草」だったのである。

 あとで太宰が茶店に月見草の種をまいたときも、茶店の表に蒔いたのではなく、わざわざ背戸に蒔いている。
 月見草と富士と同時に眺めるのではなく、富士と反対側にあって、振り向いたときに見えるのでなければならないのだ。
 月見草は富士の添え物として富士の前に咲いているのではなく、富士と対峙して強くけなげに咲いているのであった。

 天下茶屋へ出かける前の意気消沈ぶりとはうって変わって、「強く、孤高でありたい」と、井伏にあてて手紙を書いた太宰。
 実家の援助や取り巻きたちから手を切り、この月見草のように、「みじんもゆるがず、けなげにすっくと立とう」と決意をしたからこそ太宰は月見草に共感を寄せ、「富士には月見草がよく似合う」と思ったのだ。月見草は、「大きくしかし俗な富士」に引けを取らず、強く孤高に咲く「かくありたい」太宰の姿の象徴である。そしてこの月見草は母にじっと見つめられる存在としてすっくと立っているのである。

 傑作を書き人から認められたいという意識、他の人からいい人だと思われたいという意識を、太宰はずっと持ち続けていた。
 『人間失格』の最後でも、バーのマダムに「葉ちゃんは神様みたいないい子でした」といわせ、『富嶽百景』のなかでもファンの青年の口をして「まさか、こんなまじめな、ちゃんとしたお方だとは、思いませんでした」と、語らせている。
 富士に対峙する月見草を見て、太宰は「人知れずひっそりと咲いていても、母はじっと見つめていてくれるのだ、俗な富士を望まなくても、強く孤高の月見草であればよいのだ」と、納得できたに違いない。

(4)富士~単一の美めざして

 梅原猛は『地獄の思想』の中で、
『富士は戦前の日本における価値のシンボルであると思う。天皇制のイメージ、あるいは地主性のイメージではないかと思う』
と、述べているが、私は違うと思う。
 もし、そのようなイメージを富士が持つとしたら、それは太宰の言う「ペンキ絵の富士」であって、『富岳百景』のなかで太宰が共感を寄せている方の富士ではないと思う。

 富士と月見草の対比についても梅原は
『巨大な富士に向かいあう小さい月見草の存在、そこに彼はおのれの存在を感じていた。巨大な地主的社会、そしてその地主的社会に相対する月見草のことく生きる、それが太宰のささやかな生の方向であった。』
と、述べている。ちがう。
 このとき太宰があえて見ようとせず、反対側を向いたときの富士は、「変哲もない三角の山」「あんな俗な山」と感じて言う富士であったことを考えなければならない。

 『富嶽百景』には、太宰が「ひとめみて狼狽し、顔を赤らめたくなる」というような俗な富士と、太宰が共感し評価する富士の両方が登場する。
 梅原の解釈は一方的にすぎる。

 太宰が富士に託したイメージは、すべてを含み込んだ社会の総体、人間生活人生の総体、芸術の総体、さらにいえば、宇宙や神をも含んだ、大きな存在だったのではないだろうか。
 社会にはさまざまな面がある。俗世間で通用している天皇制や地主制の価値観も含まれるし、コミュニズムもある。人間の生活、人生にしても、通俗的な出世や金儲けに狂奔する者もあるし、純粋に他のために生きる生き方もある。芸術もまたしかり。
 富士も、一つの山でありながら、見る場所、時、見る人の心情の違いによってさまざまな姿に映る。

 もし、富士が、梅原の言うような天皇制・地主生のシンボルなら、茶屋の二階から遊女たちのわびしい姿を眺めて、社会の矛盾に対してなんの力もな自分を苦しく思いながら「富士にたのまう。こいつらを、よろしく頼むぜ」と、富士に祈らずにいられない太宰はまったく奇妙な人物に思えてしまう。富士が太宰にとってあう一つの価値のシンボルとして見えていることは確かであるが、もし天皇制や地主制のシンボルなら、薄幸の遊女たちをみて、「富士に頼もう」と言うだろうか。太宰が天皇制地主制を肯定したとは思えない。
 戦争中、ついに戦争協力的な行動をとらなかった太宰ではないか。自分が地主の息子であるという宿命へのこだわりを終生捨てられなかった太宰ではあるが、決して地主制度を肯定したことはなかったはずである。

 梅原の言うイメージが富士にあるとしたら、それは太宰が嫌悪する「俗な富士」の方であろう。「俗な富士」は「戦前社会の通俗的価値観」の象徴であったり、あるいは「通俗的権威的文学」の象徴であったりする。
 太宰は「俗な富士」を嫌悪し、否定する。
 太宰が好意を寄せるのは、純粋な人の情けと友にある「単一の美」を見せる富士である。

 太宰は常に「自分を偉人として認めてもらいたい」「自分は尊敬される存在でなければならない」という強迫観念をもっていた。
 再婚するまでの太宰にとって、「賞の権威」が、唯一自分の存在価値を確認するよすがだったのかもしれない。だからこそ太宰は芥川賞を欲しがったのだ。

 美知子に出会った太宰は、そのような通俗的権威によって自分を飾る必要はなくなったことを知る。太宰はただありのままの太宰であり、芸術に向かって真摯でありさえすればそれでよかった。ペンキ絵の富士とは決別してよいのである。

 三ッ峠の茶屋の老婆が、霧で見えない富士のかわりに出してくれた写真の富士。石原家で見た写真の富士。雪をかぶった御阪峠の富士。

 太宰は人のなさけの美しさと共に見た富士を素直に美しいと感じる。太宰は「人間の生き抜く努力に対しての純粋な声援」としての芸術をめざそうと思い始める。
 「素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙出揃へて、そのままに神にうつしとること、それより他に無いと思ひ、さう思ふときには眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。」と、太宰は自分の文学を考える。

 「単一の美」と「通俗」の違いに苦しみながら、自己の文学の可能性を探っていく。
 ここで、太宰のいう「単一の美」が、どういうものを目指しているのか、私にはよく分からないのだが、天下茶屋へ行く前の『二十世紀旗手』『創世記』『HUMAN LOST』の緊張し作り上げた文体から一変し、平明でのびやかな文体になっていることは読みとれる。

 梅原も、平野と同じように
『人を愛することより、まずおのれ自身を愛すること、キリストの苦悩をまねることをやめて、昇進的な仮面をかぶって、絶望の心のなかに小市民的な仮面を定着させること、仮面が単なる仮面にとどまらず、ひとつの実体的な子こりになるほど巧みな仮面使いになるkと、それが太宰の絶望を終わらす生活の知恵であった。』
と、中期の太宰をとらえ、この時期の太宰を仮面をかぶった状態としている。

 奥野健男『太宰治論(1955)』
 人と異なっているという、ドラマティックな自己意識を一歳捨て、平凡なる小市民に、凡俗に下降しようといた。つまり彼はようやく「現世には、現世の限度といふものがある。
とあきらめ、一種の妥協を試みる三十歳の大人になったのだ。既に中日戦争が始まった社会に生きていくためのやむを得ない適応でもあったのだ。そして自己意識を捨て、「他の為」の芸術をつくる機会として生きようとする。自己の芸術を守るため、生活をフィクション化し、平凡な日常の中にかくれようとしたのだ。これが戦争へ突っ走るその当時の社会への一つの反逆でもあったのだ』
と、述べている。

 なぜ、中期の太宰を仮構・仮面の存在と言い立てるのか。おそらく、戦後再びデカダン、放蕩、無頼の生活に戻った太宰の印象が強烈であるからだろう。確かに戦後の、なにもかも一切の価値が崩壊し、すべてが空しく虚無的になった社会に太宰の無頼ぶりはピッタリ合一し、この太宰が本質的な太宰であるかのように見える。
 だがだからといって、中期の太宰が仮構・仮面の太宰であるということは、私にはできない。 
 『富嶽百景』に表れた再生の意志、井伏にあてた手紙に見える「新しい生活」への決意、これらがむりやりの、嘘で固めた仮構だとは思えない。

 通俗の富士から離れ、まっ白い水蓮のような富士を思わせる美知子と生き直そうとした太宰も、また一人の太宰なのだと、私は思う。
 
 戦後の太宰の絶望について、社会の荒廃・虚無と関わって語られることが多く、もちろんそれも無関係ではないと思うのだが、私は長男の問題がたいへん大きな原因だったのではないかと想像する。

 モデリングすべき父を失っていた太宰にとって、自身が父親として振る舞うとき、あるぎこちなさを感ぜずにはいられなかったろう。
 『おとぎ草紙』にあるように、こどもにおとぎ話を語って聞かせる太宰の姿なども「懸命によい父親として振る舞おうとしている」という印象を受ける。

 父としておのれの在り方に自信をもてないままの太宰をうちのめしたのが、知恵遅れとなった長男の問題だったのではないか。

 自分の血を分けた子供が、人並みに発育できないことがわかったとき、どのような強靱な精神の持ち主でも一度は絶望的になる。
 苦しんだ末、絶望から這い上がり、希望を見いだし、子とともに十字架を背負って生きて行こうと決意できる人もいる。大江健三郎や米谷ふみ子のように、その子と共にあることで自己の文学を新しく創造していくことのできた文学者だっている。
 しかし太宰にはその重荷を担いきれなかった。
 一度ならず絶望と戦って疲労のなかでようよう生きてきた太宰に、我が子の十字架は重すぎた。

 「子供より親が大事と、思ひたい」と、『桜桃』に繰り返し書かれているのを読むとき、私には子と共に重荷を担い切れなかった太宰のつらい悲鳴を聞く思いがする。
 太宰の実生活と引き比べて読むことをこれまでしてこなかったので、以前に『桜桃』や『ヴィヨンの妻』を読んだときは、この中にでてくる知恵遅れの子供のことは太宰の創作だと思っていた。
 太宰に本当に障害のある子がいたと知ったのは、津島佑子が兄の障害のことを何かに書いているのを読んでからだった。

 『ヴィヨンの妻』のなかで、「ああ、いかん。こはいんだ。こはいんだよ、僕は。こはい!たすけてくれ!」と言って、妻にすがりつく姿は、おそらく太宰の本当の気持ちだったろう。
 父を知らず、母の認知と愛を求めてきた太宰にとって、美知子は母のような存在だった。母の愛を得て、落ち着いた生活を営むことができたのも束の間、自分が父として振る舞わねばならなくなったとき、重荷を背負って子と共に生きるべき状態に太宰は自分自身を保つことができなかった。太宰は再びくず折れた。

 奥野健男は、太宰治の文学と生涯を「下降への指向」と規定し、
『金持ちの旧家の出身という環境から、また、自分は特別に「選ばれたもの」だというナルシズムと分裂性性格のまじりあった自己意識から下降しようとした』
 『彼は自己に潜むものへの嫌悪から、欠如感覚を心理優越ないし社会的使命感により充足して、つまりエリートになることにより、既成秩序に順応してしまう上昇感性を拒んだのだ。』
と、述べている。さらに、
『すぐに、明日の黎明などと設定しなければならない、彼の下降はすぐ未来に、上昇を予定されている、ちゃちな放物線みたいな気がするのだ。』
と、規定している。

 「下降への指向」とは太宰の文学を語るときに、もはや枕詞のようになってしまった便利な規定であるが、奥野自身「放物線」と規定し直しているように、実は決して下降指向ではない。世間的な立身出世とか、金儲けという意味での上昇志向は、確かに太宰の生涯と無縁であったといえるが、芸術・文学上の真実を目指す、という点では太宰も又、常に上昇志向を持ち続けていたのだと思う。

 まわりの人に認めてもらいたかった幼年時代や芥川賞を欲しがった初期の太宰は、明らかに上昇志向を見せている。文学は自分の存在証明であり、自分を認めてもらうための手段でもあった。
 むしろ中期の太宰は純粋に自己の芸術の可能性をさぐっていたように思うのだ。
 後期の太宰は文学上の名声も手に入れ、傑作を残したい、自己の芸術を完成させたいという上昇志向を成就したようにみえる。が、たぶん、太宰はそんな名声が空しいものであることに気づいていた。
 自分の文学は、ただ一人の自分の息子を救いはしなかったのだ。
 息子の障害に打ちのめされたとき、文学が自分の人生を救ってくれないことに、太宰は煩悶したに違いない。

 地主の子に生まれたという罪の意識と同時の誇り。
 心中相手の女だけ死なせてしまったという罪の意識と、同時に選ばれてあることの不安と誇り。
 過去のさまざまな煩悶からは抜け出することができた太宰も、障害を持つ我が子に何もしてやれぬという絶望からは逃れられなかった。
 戦後の虚無的な社会、自己の文学や名声のむなしさ、そして息子に何もしてやれぬ自分への絶望。疲労が極度に達したとき、ついに太宰は自殺に成功する。

 部屋には、美知子あての遺書と、子供たちへの玩具が残されていたという。
 「家庭の幸福は諸悪の根源」などと言ってはいるが、それは一緒の照れであって、決して太宰が家族を愛さなかったのではない。家庭を大事に思いながら、家庭の幸福におさまってしまえない自分がもどかしいのだ。

 子としてのアイデンティティをようよう確立できたものの、父としてのアイデンティティを確立しきれずに、太宰は玉川のふちに立った。

 玉川のほとりから富士は見えただろうか。小さな三角のかたちして、沈没しかけてゆく船のような富士だったろうか。
 太宰はまぶたを閉じて心のシャッターを切る。
 「さやうなら、お世話になりました。パチリ」

 ドボン、、、、、玉川や太宰飛び込む水の音。合掌。

テキスト『太宰治全集2』1975 筑摩書房  
参考  『太宰治集』 1967 集英社
    『地獄の思想』梅原猛 1967 中公新書
    『評釈 太宰治』塚越和夫  1982 葦真文社
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(あとがき)乳やりながら読む太宰(1990年1月23日)

 1989年の年末。掃除もせず、おせちも作らず、1歳を過ぎたのに、まだ乳離れできない息子に乳をやりながら『富嶽百景』を読み返した。三度目の『富嶽百景』になる。

 一度目は高校生の頃、現代国語の教科書だったか、副教材だったか、たいして面白くもなく、「なにもそんなイジワルをしなくたって、ちゃんと二人の娘を画面に入れてシャッターを押してやりゃあいいじゃないか」と思ったくらいで、特になんということもなかった。

 二度目は、国語の教員をしているとき、『走れメロス』の授業に際し「太宰を教材にするからには、一応主要作品を読み返しておこう」と思って読んだ。
 『人間失格』や『斜陽』に比べれば平板な気がして、作品それ自体のみで読むべきだと信じていたから、年譜と引き比べて読むということもしなかったので、『思い出』などに比べても、いいとは感じられなかった。

 三度目の今回は、前の二回とはまったく読み方がが変わった。
 まず、読もうとする自分自身の年齢が四十歳である。
 太宰が死んだ年を越してしまっている。(惑いっぱなしでも、人は生まれて四十年たつとちゃんと不惑の年になってしまうのだ。)

 二十代で読むのと、四十で読むのでは、他のどのジャンルの本でもいくらかは印象が変わるものだ。まして今回は何事かは言わねばならぬ、という気迫に満ちている。いわば、書いた三十歳の太宰に対して、四十歳のおばさん読者が対決するのである。
 (富士をバックに、着流し浪人風の太宰と、子連れ狼よろしく乳母車に二人の子を乗せて、けなげにも立ち向かわんとする中年女、というったシーンを思い浮かべてください。)

 これまで『近代日本人の発想の諸形式』を読んできて、ひとつ思ったことは、私小説の読み方が、今まで間違っていたのではないか、ということだった。
 いままで、小説は、作品自体を自立したものとして読むべきだ、と、思いこんでいたのだが、特に戦前の私小説というのは、読者と作者はもっと密着した狭い世界で作品を書き、読んでいたとわかった。

 純文学の読者は今よりずっと層が薄く、限られた人々であった。そのなかでも、特定の作家に特定の読者がつき、たぶん読者は、作家の実人生と世界をまったく同一視していただろう。
 読者や、作品を評価する文壇のお歴々は、その作家の私生活について隅々まで知ったうえでよんでいたはずである。

 伊藤整によれば、「真実と正義のための生活であるにしろ、調和のある理屈の通る生活であるにしろ、作家はその報告を書く」という通念を作家も読者も持っていたのが「正しい私小説の読み方」というものだった、と、やっと思い至ったわけである。

 そこで今回は、まず太宰の年譜を読み返し、年譜と小説が一体であるように読んでみた。その上で、深層心理カウンセラー的に読んでみることにした。
 (アメリカ映画などによく出てくる心理分析医にかかっているシーンを思い浮かべてください。カウンセラーの前に、横になって目をつぶっている患者=太宰。カウンセラーは、優しく、おもむろに「さあ、ラクにして、子供の頃のことを思い出してみましょう」なんていっている)


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