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にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

ニッポニアニッポン語教師日誌>2011年前期の学生たち

2010-06-19 18:51:00 | 日記
2011/08/02
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2011年前期の学生たち(1)多彩な留学生

 今期は、4月の授業が開始日延期となりました。その結果、国立のうち一校は土曜日に授業をすることになり、もう一校は一日に90分授業4コマ連続で働くことになり、私立は8月上旬まで授業継続。教師も学生もへとへとでしたが、なんとか前期終わりにこぎつきました。2日は留学生、3日は日本人学生の、「出席日数不足者、課題未提出者」への救済補講の日にあてて、そのあと成績提出。来週からようやく夏休みです。

 震災後の大混乱の中、春休みに帰国したまま日本の戻ってこなかった留学生も大勢いた中、親を説得して日本に戻った留学生、4月の来日が5月になってしまったけれど、「日本は安全だと信じて」来日してきた留学生。どの学生も超スピートでの詰め込み教育に耐え、よく勉強しました。

 ふたつの国立大学の日本語初級コース、月、木、金の出講で、今期担当した学生は両校合わせて18人。大学院学生と大学院進学予定学生です。国籍は、モンゴル、ベトナム、タイ、中国、インド、スーダン、エチオピア、南アフリカ、モザンビーク、コロンビア、ドミニカ共和国、ブラジル、ドイツ、カナダ。
 中国から来たお医者さんのシンさんは、医学部での研究が忙しくなって日本語授業にはあまり出席できず、「出席日数不足」の成績判定になったのですが、あとの学生はみな、「初級コース修了生」となって、中級クラスへ進級できることになりました。

 南アフリカの留学生、以前担当したのは白人系の学生だったので、今回はじめて黒人の南アフリカ人でした。1993年にアパルトヘイトが廃止されてから18年。ようやく黒人の大学院留学生に日本で出会うことができたと思うと感慨深いものがあります。

 また、以前担当したスーダン留学生は男性でしたから、今回はじめてスーダンの女性留学生に出会いました。イスラム教徒としてスカーフで髪を包んでいる美人の彼女、なんと父親同道で留学してきて、父親は3ヶ月間悠々の日本遊覧をして帰国。彼女は父親と一緒に土日ごとにあちこちへ観光していました。
 お父さんはビジネスをやっている人だということでしたが、この3ヶ月は、完全に観光滞在だったのか、なんらかのビジネス・ルートによるものなのかわかりませんが、家の奥深く箱の中に囲い込まれていたイスラム女性も、父親の監視付きながら留学できる時代になったのだと思いました。

 明治時代にはじめてアメリカへ留学した津田梅子が明治の女性教育を牽引したように、留学を終えたら彼女がスーダンの女性教育を切り開いていってくれるのじゃないかと期待しています。とても優秀な女性で、日本語の上達もすばらしかった。文法試験も漢字試験もほぼ満点で、10月からは薬学の研究をしていくそうです。

 ふたつの国立大学、両方にドミニカ共和国の女性がいたので、「あなたに,ドミニカの女性を紹介します。友だちになれると思うよ」と、言ったら二人はすでに友だちでした。留学前の大使館の手続きなどで、すでに知り合っていたのです。ルルさんは建築学専攻、ララさんは、10月から私立大学で社会福祉政策とくに健康保険制度を研究したいといいます。ララさんは、専門の研究は日本語で授業を受けるというので、ものすごい熱意で日本語を学んでいました。こちらも文法、漢字とも満点に近かった。一方、建築専攻のルルさんは、大学院の授業は英語ということで、日本語は生活に不自由なければよいという気楽な勉強ぶりでした。勉強の進みぐあいは、みなそれぞれです。

<つづく>
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2011年08月03日


ぽかぽか春庭「Dear Sense」
2011/08/03
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2011年前期の学生たち(2)Dear Sense

 初級クラスは、ゼロスタート組(ひらがなカタカナも知らずに来日し、完全にゼロの状態で日本語を学びはじめること)と、国で入門クラスを終えてきた学生の「既習初級クラス」があります。
 ゼロスタート組の中でも、かっての内戦がようやく落ち着いたアフリカの国から留学してきたダニーさんは、半年間は大学院で英語だけで授業を受けてきました。半年とは言え、日本での生活経験があると、同じゼロスタートでもいろんなことの吸収がスムースです。彼は、東京にある自国の大使館員になりたいそうで、平和構築学の研究だけでなく、日本語習得にも熱心です。

 「平和構築学」は、世界のさまざまな問題を抱えた地域で、紛争を解決し平和な国を築くために何をすればいいのか、ということを学ぶ大学院プログラムです。平和構築学の授業のほとんどは英語で行われており、大学院での研究だけするなら、日本語は日常生活レベルができればOKです。
 しかし、アフガニスタンやアフリカのブルキナファソなどで活動を続けてきたカナダ人パトさんは「日本人と結婚している」という理由で、日本語上達はめざましかった。グラミン銀行のような、発達途上地域での小規模銀行の活動を続けてきて、これからも奥さんと共に、途上国の人々が「援助物資」を与えられるのではなく、自力で自分たちの平和な生活を構築するためにどうしたらよいのか考えて行きたいそうです。

 初級既習組の国際比較政治学専攻のヤミさんは、1980年にポーランドからドイツに家族で移住した、という経歴を持ち、ポーランド語、ドイツ語、英語ができます。日本人のガールフレンドが今アメリカの大学の博士課程で研究しており、自分も政治学の博士号をめざす、という人です。「彼女の家が芦屋にあるので、訪問してきた」というので「芦屋に家があるガールフレンド、って聞くと、日本人がどのようなイメージを持つか、知っていますか」と質問すると「もちろん知っています。彼女はお金持ちのお嬢様だろうと、日本の人は思います。その通りです」というのです。

 ヤミさんは、4年前にも一度日本に留学して初級日本語をならったのだけれど、すっかり忘れていた、でも、4月からの日本語学習で、日本語が前よりできるようになった、とスピーチで話していましたが、ほんとうにすばらしい上達ぶりでした。スピーチも、だじゃれも交えながらの楽しいものでした。

 もうひとりの既習組のカタさんは、以前に大阪に留学した経験があります。大阪でブラジル人のご主人と出会いました。コロンビアとブラジルというラテンアメリカの出身ですが、母語はスペイン語とポルトガル語。国際結婚であることは変わりなく、双方とも国の両親の許しを得るのはたいへんだったとか。ご主人が日本の大学院の奨学金を得たのを機会に、カテさんも、いっしょに再来日することにしました。カテさんは奨学金を得る機会がなかったので、スペイン語と英語を東京の語学学校で教えながら、私費研究生として日本語の授業に出席していました。自分自身が語学の先生なのですから、学ぶ姿勢もすばらしく、優等生の鑑でした。

 ゼロスタート組、エチオピアからの留学生が、コース修了記念に撮影した写真をメール添付で送ってくれたのですが、残念ながら、メールは英文でした。大学パソコン室で3回ほど日本語ワープロの使い方教室を実施したのですが、彼の手持ちのパソコンに日本語ワープロがまだインストールされていなかったのでしょう。う~ん、夏休み中に日本語ワープロソフトを入れて、使えるようになってほしいなあ。
~~~~~~~~
Dear Sense,
How are you, my great and respected Sense. I would like to thank you and express my deepest appreciation for teaching us in a special way. I miss Nihongo classes especially your classes (Friday class).
Today I wake up early in the morning and thinking of going to school.
But when I recall (remember), I have no class, already finished last Friday.
I here attach one photo in the above attached folder.
With kind regards,
~~~~~~~
 コースが終わったあとの金曜日も、私の授業に出てこようかと早起きした気持ち、うれしいです。彼がいう「特別なやり方の教え方に感謝したい」というのは、日本語復習アクティビティとして実施した、折り紙や短冊書きの授業のことでしょう。

 私は、初級日本語授業では、毎回「日本文化にふれる」&「日本語での手順の説明」の両方を目的として、「折り紙のかぶと」作りをしています。今期もみなでワイワイとカブトを折りました。最初小さい折り紙で、次に大きな広告チラシ(今年はマンションの広告)を使って作ります。出来上がると大喜びでカブトをかぶった写真を撮りあっていました。

 また、今回だけの試みとして「今期のハードなスケジュールによくついてきた」ごほうびとしての意味合いを込めて、初級ゼロスタートクラスのみなに江戸ガラスの風鈴をプレゼントしました。風鈴の下の短冊に願い事を書いて下げることにして、みな、自分たちの希望をいっしょうけんめい書き込んでいました。毎日の授業をこなして、単語を覚え文法項目を暗記するほうが大切ではあるのですが、学生にとっては、折り紙や風鈴の授業が特に印象に残るのでしょう。

<つづく>
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2011年08月05日


ぽかぽか春庭「ミス・サイゴン同窓会」
2011/08/05
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2011年前期の学生たち(3)ミス・サイゴン同窓会

 期末試験終了後、「前期授業うちあげ留学生食事会」は、有志の講師と留学生が集まり、ベトナム料理店で行われました。ベトナムからの留学生チャンさんのがんばりに敬意を表して、という意味もあります。店の名前は「ミス・サイゴン」
 チャンさんは、幹事ではないのですが、料理を選ぶ係をお願いしました。米粉の麺であるフォーや、海老のサラダ、スパイシーなチキン、ベトナムの缶ビールや、米から作ったというお酒を選んでくれました。

 ベトナムのチャンさん、ドミニカのララさんは、7月21日に行われたスピーチ発表会では、「たった3ヶ月でよくぞここまで」と感心するすばらしいスピーチをしました。文法や漢字の試験も満点に近く、成績はむろん「A」評定です。チャンさんは、橋梁工学の専門家として働いてきました。奥さんはハノイのゲーテ学院でドイツ語を学んだ才媛ですが、夫の将来に期待をかけて、秋からは幼い息子さんと日本で暮らす決意をしているそうです。奥さんお子さんの励ましと奨学金を得て、必ず博士号を取得できることでしょう。

 集まった6人のうちふたりは、昨年度のゼロスタートクラスのメンバーです。現在は私立大学大学院で農業研究をしているヘンリーさん。「実験が忙しい。夏休みは長野で実習がある」と言っていました。後輩の初級クラスのメンバーの顔を見て、同じ祖師谷寮(国費留学生用の国際学生寮)に入居しているので、顔は互いに見知っていたと言っていました。しかし、同じ大学の同じ初級日本語コースで学んだ関係であることは知らなかったそうです。

 ヘンリーさんは、「私は寮の大統領だよ。私に挨拶しない留学生は、いないよ。寮の学生は、みんな挨拶して、大統領に1万円プレゼントするよ」と、冗談を言っていました。
 ヘンリーさんは、博士号をとったら国に帰り、農業指導者として国の経済をよくし、最終的には国の大統領になりたいそうです。彼が故国の大統領になったら、私は1万円持って、挨拶に行こうと思います。

 文法をきっちり学んでいたヘンリーさんでしたが、「今の研究室は、私のほかはみな日本人学生。最初、学生の日本語がぜんぜんわからなかった。日本語の先生の会話と日本人学生の会話は、ぜんぜんちがいます」と、言います。うん、うん、とうなずくインドネシアのディーさん。
 日本語教師は、学生が現在までに学んだ語彙と文法項目だけを使って会話するよう訓練されています。たとえば、受身形を習っていないうちに受身形を使った会話はしないし、習っていない語彙を使うときは解説します。これを、「ビギナーズ・カンバセーションコントロール」といいます。

 学生は、教師となら日本語で会話できるので、自信をもって日本人社会にデビューするのですが、さいしょは「日本人の話すことが理解できない」と、ショックを受けます。しかし、基本文型の文法をきちんと学んだ学生は、学生用語や省略のしかたを身につければ、聞き取れるようになります。

 逆に、基本文型を身につけずに耳から覚えた日本語で、器用にしゃべれるようになった人の中には、いつまでたっても公的な場で通用するきちんとした話し方が身につかない人も多いので、遠回りのようであっても、最初は「あんなに覚えたけど、漢字、わすれちゃった」ではなく、「あれほどたくさん覚えたけれど、漢字を忘れてしまいました」から覚えてほしいと思っています。正用を崩していくことはむずかしくないけれど、崩されたことばを正すのはかえって難しいからです。ヘンリーさんは、日本人大学院生とのつきあいの中で、すっかりこなれた日本語が身についていました。

 ヘンリーさんと同期のディさんはインドネシア出身。スカーフを被った姿を見たことがなかったので、イスラム教徒とではないと思っていたのですが、出てきた料理のうち、「豚肉は食べられない」というので、「えっ、あなたもモスレムだったの?」と、はじめて気づきました。外国では、「女性はスカーフ着用」のイスラムの掟も規制はゆるくなるとのことですが、「豚肉、お酒はダメ」というほうは、きっちり守るディさんでした。

 モンゴルのボーさんは、奥さんとお嬢さんふたりと暮らしています。お嬢さんは日本の小学校に通っているので、しゃべることにかけてはボーさんの上達を上回り、「娘は、私の日本語の先生です」というボーさん。
 私は単語の説明などを、ついてっとり早く英語で言ってしまっていたのですが、ボーさんは英語が苦手。ロシアに留学経験を持ち、ロシア語が堪能なのです。でも、私はモンゴル語でもロシア語でも説明できないので、ボーさんがわからないとき直接法での説明に四苦八苦したこともありました。私の説明が下手でも、きっと「お嬢さんチューター」のフォローがあってのことでしょう、ボーさんの上達もめざましかったです。
 モンゴル語は日本語と文法は似ているので、単語をきちんと覚えれば、どんどん上達します。白鵬や日馬富士の活躍にも元気づけられて、ボーさんはがんばりました。車関係のエンジニアだったボーさん、日本でも車のアルバイトをしているそうです。

 みんな、楽しく話し、食べ、クラスお別れ会もおひらきになりました。来期は他大学へ進学するチャンさんもララさんも、いつかまた会えるといいね。

<おわり>


ニッポニアニッポン語教師日誌 台風前夜同窓会

2010-06-13 09:09:00 | 日記
2011/09/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011>夏のおでかけリポート2011(8)台風前夜同窓会

 台風一過。15号は大きな被害をもたらしました。21日、東京も強い風雨、午前中の授業2コマを終えたら、「午後の授業はすべて休講」という大学からの連絡があり、午前午後、私立2校をかけめぐる後期水曜日の授業、第1回目の午後は、早々に帰宅しました。

 20日夜、ときおり強くなる風雨のなか、「2009年に中国で教えたクラスのミニ同窓会」に参加しました。関西東海地方ではそろそろ台風の影響が強くなってきたというニュースを耳にしてはいたのですが、大阪から上京するという教え子ショーさんが「東大で開催される学会に出席するので、先生に会いたい」とメールをくれたので、急遽「東京にいる学生は集合!」の連絡をまわしました。2009年に教えた学生、京都に3人、大阪に1人、岐阜1人、名古屋1人長野1人のほかは、11人が東京組です。

 急な連絡だったので、2、3人も集まれれば上出来かなと思っていたら、2009年10月に来日した学生の東京在住11人のうち8人が「赤門前6時」という待ち合わせ時間に集まりました。来られなかったうちの一人は、研究資料探しのため中国に帰国中。もうひとりはその恋人。東京在住といっても、国立に住んでいる一人は、「赤門まで90分かかった」と駆けつけてきました。

 この国立から来たリュカさんは、2007年に受け持ったチョエンさんと同じ指導教官なので、近況を伝えてくれました。チョエンさんは、、留学の奨学金支給が来年の3月で終わるので、博士号を取得できなくても「博士課程単位取得満期退学にするつもり」だそうです。日本語で論文を書かなければならない専攻の場合、よほど付きっきりで日本語の面倒を見てくれる協力者がいないと、論文提出と質疑応答が難しいのです。帰国してから中国語で論文提出という方法もありますが、「最後までがんばって」と私からの伝言をリュカさんに託しました。

 2007年に中国で受け持ち、日本の大学院博士課程に入学した学生は、理系の人は2011年3月に、文系の何人かは2011年9月に博士号を取得しています。チョエンさんのクラスの「班長(学級委員長)」だったリンさんはちょうど9月19日夜に「先生、おかげさまで博士号を取得し、明日帰国します」と、電話をくれました。国際関係論の論文、立派にまとめたのだろうと思います。

 リンさんは文系ですが、英語で論文を書いたはずですから、大丈夫でしたが、外国人が日本語で論文を提出するのはほんとうに難しい。中国滞在中に東大博士過程で学んだという村上春樹研究者が「中国の大学に博士論文を日本語で提出する」のに際し、添削を頼まれたことがありました。知り合いの先生からの依頼だし、中国人の村上春樹論がどのようなものか興味があったのでボランティアで引き受けましたが、博士論文として内容はすぐれていても、やはり日本語表現にはボコボコ変な表現があって、添削箇所はかなりの量に上りました。

 大学院で交通学の研究を続けているショーさん、大学によって規定は違いますが、博士号取得のためには、ジャーナルと呼ばれる学会雑誌に何本かの論文掲載や学会での発表などが義務づけられていることが多く、ショーさんの今回の発表も、博士号への大事な布石です。

 交通エネルギー論を専攻しているというので、「発表は、日本語で?英語で?」と尋ねると、「どちらのことばで発表してもOKなのだけれど、学会に集まるのは日本人なので、日本語で発表するといろいろ難しい質問を日本語で質疑応答しなければならないから、英語で発表して英語で質疑応答したほうがいいって、アドバイスを受けました。英語での質問だと、日本人はあまり突っ込んだ質問をしないからって」

 「東大の学食で食べて見たい」というショーさんの希望だったので、最初は安田講堂地下の中央食堂に行ってみたのですが、東大在学中の学生たちは、いつもの定食ではせっかくの同窓会が盛り上がらないと思ったようで、赤門前の「美味しい屋」という中華屋に行くことになりました。「先生、美味しい屋は、名前はおいしいですが、実はあまり美味しくありません。でも、近いから学生はよく行きます」という店。

 海老マヨいため、酸辣湯など、ひとり一品好きな中華料理を注文して、ビールで乾杯。美味しい屋は、中国人の口には「日本の中華料理は、どっか気が抜けている」という味のようですが、私にはフツウの中華です。美味しい屋の料理を美味しくいただきながら、それぞれの近況報告を聞きました。

 一番のビッグニュースは、ルールーの「私、この夏結婚しました」という報告。みなでキャーキャーいいながら、ケータイの画面のハンサムなフランス人青年の顔を見ました。東大の日本語クラスのクラスメート。この夏にフランスにいっしょに行って家族に会い、結婚の届けを出したとか。「フランスではごく簡単な式だったので、中国の故郷と日本でも披露宴をしたいのだけれど、今思案中」と嬉しい悩みを語っていました。

 逆に「中国からいっしょだった恋人と別れた」というコーキさんや「中国の故郷に帰省したとき友人に紹介された人と恋人になった」というリーさん。カショさんは、「日本にいっしょに来たがっていた私の恋人は、今アメリカに留学しています」と、超長距離恋愛中。今回来られなかった人のうち、京都のキョーさんは「初めての恋人ができた」そうだし、同じく京都のヨーさんは婚約者と結婚。ソさんは「前の恋人とは別れて、新しい恋人といっしょに住んでいる」そうだし、ヨーショーさんは「ただ今、学会発表のためにスペイン、イタリアを旅行中」など、それぞれの活躍や恋愛模様も知ることができました。

 みな、私生活でも研究でも充実した日本留学生活を送っているようなので、春庭老師としては嬉しいミニ同窓会でした。
 21日に大阪に帰ると言っていたショーさん、交通状況が心配でしたが、「クラスパーティ、楽しかったです。ありがとうございます」というメールが来ました。無事帰阪し、これからも頑張っていくことでしょう。注油!

 教え子のこれからの活躍を期待しつつ、台風の通過をじっと待っていました。被害が大きかったところ、たいへんだろうと案じられますが、東京は22日は、台風一過の秋晴れが広がりました。夜にはまた雨でしたけれど。晴れもあれば雨もある。台風と地震が同時に来た21日夜はこわかったけれど、なんとか無事に過ごしていきたい。老師はまだまだ老け込むわけにはいきません。

<つづく>

2.2 授動詞文の動作主体

2010-04-05 11:06:00 | 日記
2.2 授動詞文の動作主体
 日本語動詞文の<主体>と<客体>がどのように表示されているか確認し、<主体>と<客体>の関係を見ていく。本項においては、授動詞文の動作主体から動作が向けられる受益者の表示マーカーがどのように使い分けられているか、考察する。
 日本語初級の学習者に、次のような例文が「やる・くれる」文として与えられる。
『日本語初歩29課』より

   チンさんは わたしたちのために 記念写真をとって くれました。
   田中さんは わたしに 英語を 教えて くれました。
   わたしは こどもたちを しょうたいして あげました。
   わたしは 山田さんのくつを みがいて あげました。
                                   
 これらの文において、動詞で表わされた動作・行為の受益者(利益・恩恵を受ける人)は、わたしたち、わたし、こどもたち、山田さん、であるが、名詞についている助詞(または複合助詞)は「のために」「に」「を」「の」などさまざまである。授受文において日本語学習者がとまどうことの一つは、誰が誰にしてやっているのかという関係がよくわからないことである。確かに上の例文を見る限りでは、受益者はさまざまな格で示され、何を用いたらよいのか、わかりにくい。「先生が私達に日本語を教えてあげました。」など、話者の視点とやりもらいの方向を間違うもの、「夫は私に結婚してくれました」など、受益者の格を間違えるものなど、誤用の性質はいろいろあるが、授受文が学習者にとって、習得しにくいものの一つであることはいえるだろう。
 しかし、これまで、学習者に対し、わかりやすい教示は少なかったように思う。
 例えば、 McGloin (1989)は動詞テ形に「やる」「あげる」がついたときの格マークについて、次のように説明している。
 (1)授受動詞(あげる・やる・くれる)の間接目的語(恩恵の受益者)は「に格」で    マークされる。例文「道子に英語を教えてあげた。」
 (2)直接目的語が人に所属している場合には「に格」は適切でなく「の格」が用いら    れる例文「道子の部屋を掃除してあげた。」
 (1)(2)の説明は不十分である。恩恵の受益者は「に格」で示すという説明を、学習者が応用すれば「私は 太郎に 駅へ 案内してやった」などの誤用がでてくるのは当然だろう。また、「太郎」の幼い娘「花子」が、彼女の所有物である絵本を持ってきて、読んでほしいと「太郎」に頼んだとしよう。絵本は明らかに花子の所属物だから「太郎は花子の絵本を読んでやった。」とするのが適切で、「太郎は花子に絵本を読んでやった。」といったら不適切なのだろうか、という疑問も、学習者は感じるだろう。
 授受文の受益者を適切に示すために、もう少し詳しい説明を試みたい。
 授動詞(やる・あげる)は、他者のために何らかの行為を行なうことを示す補助動詞として用いられる。この項の目的は、だれのために行為が行なわれているのかを示す受益者のマーカーを明かにすることである。
(1)元の文の補語(客体)と受益者が同一の場合は、受益者を新たに示す必要はない。補語が受益者を兼ねる。補語の所有者が受益者である場合も同様。
(2)受益者を新たに付け加える場合、受益者にものの移動があるときは、受益者は「ニ格」で示す。ものの移動がないときは、「のために」で示す。

2.2.1 授動詞文の<主体>と<受益者>
 日本語には、誰に向けて動作が行なわれたかを明示する形式がある。動詞(~て形)に
補助動詞としての「やる」「くれる」「もらう」がついた、いわゆる「授受文(やりもらい文)」である。授受文は、動作主体・話者の視点・待遇の面から体系をなしているが「やる・くれる」と「もらう」は構文的に異なっている。「やる・くれる」文は、元になる文の構造をかえずに、動詞に補助動詞をプラスした形を基本とするが、「もらう」文は、元になる文と主語・補語の位置が異なる。「もらう」文は、構造の面からは、受け身文につながるといえる。
  (元の文)先生が 太郎を ほめた。(動作主体-対象-述語)
  (受け身)太郎が 先生に ほめられた。(対象-動作主体-述語)
  (もらう)太郎が 先生に ほめてもらった。(対象-動作主体-述語)
 本項では、元の文と格の構造が変わらない「やる」「くれる」文を中心に、誰に向けて動作が行なわれたのかを明示する格マークが何になるのかを見ていくことにする。「やる・くれる・もらう」は動詞で表わされる内容について、話し手の視点によって、話者が主観的に表現したものである。実際の受給関係のあるなしに関わらず、話者の視点からの受給関係を表わす。

 (1)お兼さんは自分の声を聞くや否や、上り口まで駆け出してきて、「このお暑いの    によくまあ」と驚いてくれた。(『行人』)

 この「驚いてくれる」の行為主体(お兼さん)は、相手の利益を考えて「驚く」という行為を行なったわけではない。しかし、「自分」は主観的に、お兼さんの「驚く」という行為が自分に向けて行なわれたと受け止め、自分にとってプラスの利益を感じさせるものとして「くれる」を用いている。授受文は、話し手の視点からみて主観的に「行為が行なわれる方向」「誰の為に行為が行なわれたか」を示すのである。
 授受文の補助動詞「~てやる」「~てもらう」「~てくれる」は、本動詞の動作行為がだれに向かって行なわれるかを示すのであって、利益の受給そのものを示すのではない。行為を向けられた相手にとって、その行為が受け入れられるものであれば、プラスの利益になるし、受け入れられないものならばマイナスの利益と受け止められる。「やりもらい」が文法的に表わすのは行為を向ける方向であって、話し手や聞き手の主観によって、その行為がプラスにもマイナスにも受け止められる。本稿でいう「受益者」とは、あくまでも話し手の主観の中での利益・恩恵の受け手であって、現実に行為の受け手が利益を得るとは限らない。「軽蔑する」「ぶつ」「いやがらせをする」など、語彙的にマイナスの利益と受け取られることが多い語もあるが、文脈によっては、プラスの利益にもなり、話し手の表現意図によって変わってくる。
 マイナスの利益を表している文。(例)花子をいじめたくなって、太郎は花子に石をぶつけてやった。

 (2)あとにも先にも一度の小言をあんなにくやしがって泣いてくれなくともよさそう    なものを。(『野菊の墓』)(マイナスの利益)
 (3)私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。(『放浪記』)
 (4)彼と一度仕合いして化けの皮をひんむいてやりたいと思った。(『風林火山』)

 プラスの利益を表している文(例)境内の石を病気の部分にぶつけると治るという話を聞き、太郎は花子に石をぶつけてやった。

 (5)外の場合なら彼女の手をとって、ともに泣いてやりたかった。(『行人』)

 「のために」は、授受文でない場合も、動作・行為の恩恵・利益を受ける存在を表わすことができる。「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作った。」という文は、動作主体(おかあさん)がヒサの利益を目的として動作を行なったことをあらわす客観的な描写である。「ヒサのために」は客観的に受益者がヒサであることを示している 一方「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作ってくれた。」という文は、視点がヒサの側にあり、ヒサの側からおかあさんの行為を主観的に述べたことになる。話し手(文の作者・語り手)の意識がヒサの立場に置かれておりヒサの側から表現されているのである。このように、授受文は、ある立場からの視点による動作・行為の方向の表現であり、一つの視点からみて主観的に恩恵を受ける存在を示す文である。

2.2.2 意志を表わす「~てやる」
 「~てやる」文の動詞は本来、意志動詞である。「~てやる」文に、非意志動詞が用いられる場合、「わざと驚いてやった」「家族のために死んでやろう」などのように意志的な意味が加わる。意志を加えられない動詞を「~てやる」文にすることはできない。
 「*はっきりと見えてやった」「*うっかり落してやった」
 本動詞としての「やる」には「一方から他方へ移らせる」という行為の方向を示す用法のほかに、「積極的にみずから行なう、する」という意味もある。

 (6)若し、そなたが、このわたしの命令をきかぬならば、わたしは、それを自分で     やります。(『風林火山』)

 「~てやる」という補助動詞としての用法にも、動作・行為の方向を示すのではなく、「積極的に行なう」という意味を表わす場合がある。この場合は、動作・行為主体の意志や希望を表わしている。

(7)ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。(『走れメロス』)
 (8)畜生、この仇はきっととってやる。(『邪宗門』)

2.2.3 受益者の格マーク
 「~てもらう」は、動作・行為を向けられる側を<主語>とし、動作主体を補語として、表現した文であるが、「~てやる」「~てくれる」は、動作・行為を他者に向かって行なう側を<主語>とし、動作・行為を向けられる側を補語とする表現である。
 「~てやる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」を行為の受け手にすることはできない。「~てくれる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」が行為の受け手になる。逆にすると非文になる。

*太郎は私をかわいがってやった。(*は、日本語表現として適切でない文・非文を表す)
*私は太郎をほめてくれた。

 「~てやる」「~てくれる」文は元の文と格の構造を変えず、動詞に補助動詞「やる」「くれる」を付け加えて、動作を向ける相手、利益・恩恵を受ける相手(受益者)を示す。受益者はもとの文の補語と別の存在として付け加えられることもあるし、もとの文の補語(動作客体など)が受益者を兼ねる場合もある。
 もとの文に新たに受益者格を付け加える場合、「のために」という複合助詞で受益者を明示することもあり、「に格」で受益者を示すときもある。一般的な会話や小説などの文章中では、行為者や、行為を向けられる人は自明のこととして省略される場合が多い。文脈によって、誰がその動作・行為を行なうのか、誰に向かって行為が向けられているのか、推察できるからである。しかし日本語学習者にとって、これを推察するのは上級者になってもなかなか難しい。
 <主語(行為者)>については、なんとか推察できる学習者でも、誰に向けた行為なのか、という点はなかなか理解できない。新聞・小説などの読解に進んだとき混乱する原因のひとつとして、初級段階で、受益者がどのように示されているのかを確実に把握していないこともあげることができるだろう。何によって受益者の格マークが決定されるのであろうか。
 「やり・もらい」によって、動作・行為の方向を表わした結果、その動作によって、相手との関わりが直接的なものとなるかどうか(相手へ移動するものがあるかないか)ということが、関係してくる。動作の結果、相手へ移動するものには、具体的なものもあるし、抽象的な物の場合もある。動作・行為の結果、相手への授受・移動があるかないかが、格マークにかかわってくるのである。
 大曽美恵子(1983)は、国立国語研究所『動詞の意味・用法の記述的研究』をもとに、「~てやる」の受益者格について、次の法則をまとめている。

具体的な物、または抽象的な物(情報・知識など)あるいは五感に訴える何か(声・音・香りなど)が、好意とともに受け手にむかって移動すると考えられるときにのみ、ニ名詞句を使って行為、およびに上記の物の受け手をしめすことができる。

 本項はこの指摘をもとに、さらに検討を加え、受益者を「のために」で示す場合、「に格名詞句」で示す場合、受益者が元の文の補語(動作客体)と同一の場合、異なる場合、あらたに受益者を付け加える場合などの条件を考えていきたい。

2.2.4 受益者格を新たに付け加える場合
 授受文の受益者が動作の直接の客体ではなく、利益・恩恵の受け手としてのみ存在している場合がある。すなわち授受文にした結果、利益の受け手としての補語を付け加える場合である。物の授受・移動がない場合とある場合によって、受益者の示し方が異なる

物の授受、移動がないとき
 動作・行為が相手や対象(アニメイト・組織・機関)を必要とせず、動作の結果、受益者へ向かって、物の授受、移動が行なわれない場合、受益者を明示するときには「のために」を用いる。物の移動がないのに「に格」を用いると、不適切になる。行為者は、受益者の利益を目的として動作・行為を行なうが、その動作・行為は、相手が存在しなくとも完結する。

(9)太郎は家族のために、一日中 働いてやった。(家族=受益者)
    *太郎は家族に、一日中 働いてやった。
    (太郎は、一日中働いた。)
 (10)万更の他人が受賞したではなし、さだめし瀬川君だって私の為に喜んでいてく     れるだろう、とこう貴方なぞは御考えでしょう。(『破戒』)(私=受益者)
    *瀬川君だって私に喜んでいてくれるだろう。
 (11)津田はこの二人づれのために早く出て遣りたくなった。(『明暗』)(二人づれ=受益者)

 小説などでは文脈上、受益者が省略されていることが多いが、学習者に受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動がないときは、受益者を「~のために」で示す。
( )は省略されている語を筆者が補ったもの。

 (12)つうがもどってきて、汁が冷えとってはかわいそうだけに、(おらが、つうの     ために)火に掛けといてやった。『夕鶴』
 (13)やっぱりあんた、(おれのために)これを警察にもっていってくれないか。(『空     洞星雲』)

 機械的に『受益者は「に格」』と覚え込んでしまった学習者は、「あたしが代りに行って、断わってきてあげましょうか『明暗』」の受益者を明示しようとすると、『*あたしが代りに行って、あなたに断わってきてあげましょうか』というような誤用をしてしまうことになる。(あたし=お延  あなた=津田)

物の授受・移動がある場合
 本動詞が「に格の相手対象」の補語をとらないときでも、授受文にすると、動作・行為の結果、相手に物を授受することになったり、ものが移動する場合がある。
 動作・行為を向ける相手(受益者)は移動するものの着点であるので、このときは受益者を「に格」で示す。移動するものは、具体的な物の場合もあるし、抽象的なもの(情報・知識など)や、感覚的なもの(声・匂い)などの場合もある。
 学習者に、省略された受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動があるときは、受益者を「に格」で示す。

 (14)いいもの、八津にこしらえてやろう。(『二十四の瞳』)(八津=「いいもの」の着点・動作を向ける相手・受益者)

 動作主体が「こしらえる」動作を、八津の利益を目的として八津に向かって行なう、ということを動作主体(話者)の立場から述べている。「こしらえる」動作の結果、「いいもの」は八津に移動することをふくみ(implicature) として表現している。

 (15)さっそく、富岡はゆき子の枕元に座り込んで、ナイフで(ゆき子に)林檎をむ     いてやった。(『浮雲』)(ゆき子=林檎の着点・動作を向ける相手・受益者)

 動詞によっては、補助動詞「~てやる・くれる」を加えた結果、物の移動が生じるときと移動がないときの、二つの条件に別れる場合がある。
 「読む」は「を格」の補語(非アニメイト)を必要とし、本動詞は「に格」を必要としない。しかし「~てやる・くれる」を加えて、受益者を示す必要ができたとき、受益者への声の移動のあるなしによって受益者格が異なる。省略された受益者を明示するときも、注意が必要である。
 「太郎が本を読んだ。」という文の「読む」は、黙読したのか朗読したのかは、前後の文脈がなければ、この一文だけでは決定できない。しかし「~てやる」文にすると、動作を向ける相手や、受益者を示す必要がでてくる。朗読して相手に聞かせたときは、「声」が相手に移動すると考えられ、受益者は「に格」で示される。(動作を向ける相手=声の着点)

 (16)太郎は花子に絵本を読んでやった。(花子=受益者・動作を向ける相手・声の着     点)

 「に格名詞句」は、動作を向ける相手になり、「読んでやる」は「朗読する」に限られる。「に格名詞句」は、動作主体が動作を向ける相手・声の着点であり、受益者となる。朗読したときは、声の着点の「に格」がなければならないので、たとえ「絵本」が「花子」の所有物であっても、「太郎は花子に(花子の)絵本を読んでやった」という文にすべきである。

(17)童話指導上の大切な点は、子どもに読んでやったにしても、また自分で読ませ     るにしても、あとで子どもと話し合うということです。(坪田譲治)
     (子ども=受益者・動作を向ける相手・声の着点)

 黙読したときには動作・行為を向ける相手は必要ない。着点名詞句がないので、受益者を「に格」で表わすことはできない。

(18)卒論の添削を頼まれたので、太郎は花子のために論文を読んでやった。
     (花子=受益者)
(19)「(夏崎は)上京すると、必ず私の所に寄りまして、読んでくれと大量の原稿     をおいていきます」(『空洞星雲』)
 (20)私は夏崎のために原稿を読んでやった。(夏崎=受益者)

 (19)を「私は夏崎に原稿を読んでやった。」とすると、夏崎に向かって朗読を聞かせていることになってしまう。
 「歌う」も、声の着点が受益者を兼ねていれば、「に格」で、そうでなければ「のために」で受益者を示す。(省略された受益者を明示するときも同様。)

 (21)太郎は花子に子守歌を歌ってやった。(花子=受益者・声の着点)
 (22)太郎はいまは亡き作曲者のために彼の遺作曲を歌ってやった。
     (作曲者=受益者)

 動作の結果、物の授受・移動がないときは「のために」を「に格」に変えて受益者を示すことはできないが、移動がある場合には、受益者を強調して表現したいとき「に格」を「のために」に変えて受益者を示すことができる。このときは「のために名詞句」がふくみとして着点を表わす。(23)は、受益者「彼(晴信)」は「のために」で示されているが授受の後、「城」の着点であることをふくんでいる。

(23)そして晴信という若い武将と一緒に合戦に出掛け、彼のために次々に城をとっ     てやることが、ひどく楽しいことのように思われた。(『風林火山』)(彼=受益者・城の着点)
(24)太郎は花子のために絵本を読んでやった。(花子=受益者・声の着点)

(24)は、朗読、黙読の両方の可能性がある文になるが、この場合は、前後の文脈で判断するしかない。

 元の文の補語が受益者を兼ねる場合もある。動作・行為を向ける相手が、元の文の動作客体と同じ場合、元の補語が受益者を兼ねるため、特別な場合以外、受益者をあらためて示す必要はない。(受益者を特に強調する場合、元の補語に重ねて受益者をあらためて示すことがある。)

「に格」の補語が存在する動詞文
 元の文に「動作の相手」が存在している場合、「動作の相手」が「授受の相手」と同一なら、「に格の相手対象」がそのまま受益者になる。使役文のうち、「に格の相手対象」をとる文も同様である。

 省略された受益者を明示する場合も、元の文の「動作の相手」が受益者のときは「に格」によって表わす。

(25) ほんにおとっつぁまも貧乏人で、その頭巾のほかにゃ、何をひとつおめえに残     してやることもできなんだわけだ。『聴耳頭巾』(おめえ=相手対象・受益者  
(26)でも、あのときのきみは、たしかに何か貴重なものをぼくに与えてくれた。
     (『夜の仮面』)(ぼく=相手対象・受益者)
(27)あたいの会長を(あんたに)紹介してやろうか。(『空洞星雲』)
(28)お医者さんは、とても治らぬというし、それなら好きな雑誌を好きなだけ(お     まえに)読ませてやろうと思ったのが、親の慈悲というものだよ。(『雑誌記者』)
(29)東洋新聞記者の名刺の威力で、係員はすぐに登記の写しを(矢部に)見せてく     れた。(『夜の仮面』)
(30)それを中座して真佐子に会い、(真佐子に)靴を買ってやってからホテルへ。(『彼方へ』)

 受益者が元の文の「に格の相手対象」と同一でなく、別に存在するときは、受益者は「のために」で示される。ただし、「に格の相手対象」も、行為を向けられる結果、恩恵・利益を受けることができる。省略を補うときも同様。

(31)津田から愛されているあなたもまた、津田のためによろずをあたしに打ち明け     てくださるでしょう。(『明暗』)(津田=受益者)(あたし=相手対象)
(32)だが、なにか知っているならば、教えてくれないか」(『夜の仮面』)
     だが、なにか知っているならば、(君の妹さんのために、ぼくに)教えてくれな     いか(君の妹さん=受益者)(ぼく=相手対象)

 受益者と「に格の相手対象」が同一の場合、受益者であることを強調して示したいときは、受益者を「に格」でなく、「のために」で示すことができる。「のために名詞句」はふくみとして「相手」を兼ねて表わす。(35)は、受益者を「のために」で示しているが、受益者(あなた)が「贈る」動作の相手対象でもあることをふくんでいる。

(33) あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ。『明暗』(あなた=相手対象(ふくみ) ・受益者)
(34) 真佐子に靴を買ってやった。(真佐子=相手対象・受益者)
 (35) 真佐子のために靴を買ってやった。(真佐子=相手対象(ふくみ) ・受益者)
 (36) 真佐子のために靴を買った。(真佐子=受益者)

 (34)と(35)は、「買う」という動作が真佐子に向かってなされている。真佐子は靴の着点であり、靴が真佐子に与えられることをふくんでいるが、(36)は、靴が真佐子の手に届いたかどうかは表現していない。文脈の断続の適不適からいうと、「真佐子のために靴を買った。だが、真佐子にやらなかった。」とはいえるが、「真佐子に靴を買ってやった。だが真佐子にやらなかった。」というのは不自然である。

「に格」以外のとき 
 「に格の相手対象」をとる動詞でないときも、「を格の直接対象」「と格の相手対象」「から格の相手対象」などに動作・行為を向けているとき、受益者と動作を向ける相手が同一なら、受益者をあらためて示す必要はない。受益者と対象が異なる場合は、受益者は「のために」で表わす。省略されている受益者を明示するときも、同様である。

(37)矢部さんは心のやさしい方なのね。そういって、わたしを慰めてくださるのね。     (『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
 (38)あのとき、力ずくでもいいから、この人はわたしを奪ってくれればよかったの     だ、と寿美子は思った。(『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
 (39)三尾は、瑛子の父が自分を思い出してくれたのが、嬉しかった。(『空洞星雲』)     (自分=直接対象・受益者)
 (40)勘助は、二年前自分を召し抱えてくれた若い武将が好きだった。(『風林火山』)     (自分=直接対象・受益者)
 (41)何もお前が岡田なんぞからそれを借りてあげるだけの義理はなかろうじゃない     か。(『行人』)(岡田=相手対象・受益者)
 (42)だが、ゆき子だけは、病気と闘いながらも、ここまで、自分と行をともにして     きてくれたのだ。(『浮雲』)(自分=相手対象・受益者)
 (43)太郎は花子と結婚してやった。(花子=相手対象・受益者)
 (44)太郎は花子といっしょに図書館へ行ってやった。(花子=共同者・受益者)
 受益者と対象・相手が同一でないときは、「のために」を用いて受益者を示す。
 (45)母が「早く結婚して親を安心させろ」というので、太郎は母のために花子と結     婚してやった。(母=受益者)(花子=相手対象)

 「に格名詞句」が受益者を兼ねているときは、受益者を「のために名詞句」で示し、ふくみとして、物の着点を表わすことができた。これに対し、「を格」「から格」「と格」など、「に格」以外の格の場合は、「のために名詞句」が、ふくみとして他の意味を表わすことはない。
 「太郎は 花子のために 図書館へ 行ってやった。」という文は、太郎が花子といっしょに行ったことをふくみとして表わさないし、「母のために結婚してやった。」という文は、結婚相手が誰であるか表わしていない。
 「おれは真佐子のために靴を買ってやった。」という文が、受益者格の「のために」によって、靴を受け取る相手をふくみとして表わすことができるのは、物の移動があるからである。「に格の相手対象」がものの移動の着点になっているときに、「のために」を「に格相手対象」をふくんで用いることができる。

受益者が「の格」で表わされるとき
 人の体の部分、心情、所有物、所属物などが補語になっている場合、補語の所有者が受益者と同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。「の格名詞句」が、受益者を表わす。補語の所有者と受益者が異なるときは受益者を「のために」で示す。

(46)寿美子は、すぐには答えず、ハンカチーフを出すと、希代子の汗を拭ってやっ     た。(『夜の仮面』)(希代子=汗の所有者・受益者)
 (47)大友はカチリとライターを鳴らして、矢部のくわえたままのたばこに火をつけ     てくれた。(『夜の仮面』)(矢部=タバコの所有者・受益者)
 (48)太郎は花子の部屋を掃除してやった。(花子=部屋の所有者・受益者)
 (49)母は上京するといつも花子の部屋に泊まるので、太郎は母のために花子の部屋を掃除してやった。(母=受益者)(花子=部屋の所有者)

 物の授受(移動)がある場合、「の格」で示される受益者は、ふくみとして物の着点を表わす。逆に、「に格」で受益者を示したとき、移動する物は授受の後に受益者の所有物になることをふくんでいる。(50)は授受の相手を示す「に格名詞句」がない文だが、「の格所有者」である花子が授受の相手であることをふくんでいる。(51)は服の所有者を示す「の格名詞句」がない文だが、授受の相手である花子が、授受行為の後、服の所有者になることをふくんでいる。

(50)太郎は花子の服を縫ってやった。(花子=授受後の所有者・ 受益者(ふくみ))
 (51)太郎は花子に服を縫ってやった。(花子=相手・受益者・授受後の所有者(ふくみ))

2.2.5 授動詞文のまとめ
 授動詞文の受益者は、次のように示すことができる。

(1)元の文の補語と受益者が同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。元の文の「に格相手対象」「を格直接対象」「と格相手対象」などの補語が受益者を兼ねる。
補語の所有者と受益者が同一のときも同様で「の格所有者」が受益者を表わす。
補語と受益者が同一で無いときは受益者を「のために」で示す。
(2)授受文にしたため、元の文にはなかった受益者を付け加える場合、具体的・抽象的な物の移動(授受)がある場合、物の着点と受益者が同一のときは、受益者を「に格」で示すことができる。物の授受・移動がないときは、受益者を「のために」で示す。動作・行為を向ける相手(授受後の物の着点)と受益者が異なるときは、受益者を「のために」によって示す。
(3)物の移動があるとき、「のために」で受益者をしめし、ふくみとして動作・行為を向ける相手・物の着点を表わすことができる。物の授受・移動がない場合は、できない。


2.3 直接受身文の動作主体
 動作主体Xによる行為・動作は、客体と次のような関係を持つ。
(a)動作主体Xの直接の働きかけが客体Yに及ぶ。
・XはYをV(動詞)  太郎は花子を殴る  太郎は花子を救う
(b)動作主体Xの動作・行為の相手がY。
・XはYにV     太郎は花子に惚れる   太郎は花子に会う
(c)動作主体XとYの共同行為。
・XはYとV     太郎は花子と結婚する  太郎は花子と衝突する

2.3.1 受身文の動作主体のマーカー「ニ」「カラ」「ニヨッテ」
(a)の直接の働きかけの行為内容は、さらに分析すると、(a1)(a2)(a3)に分けられる。動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文の場合、生産物を主題、主語にすると、動作主体のマーカーは「ニ」ではなく、「ニヨッテ」となる。動作主体を「カラ」出表す場合もあり、この、「ニ」と「ニヨッテ」「カラ」の使い分けを日本語学習者に示すのが本項の目的である。「ニ格」は、行為の与え手、被作用者にとって、行為の相手を示す。「カラ格」は行為の出どころ、行為の起点を示す。「ニヨッテ」は行為の原因根拠となるものを示す。
(a1)「行為の受け手」「行為の目当て」が受身文の<主語>になる場合
(a2)「行為の目当て」が<主語>になる場合 
(a3)動作主体の行為動作の結果「生産物」が生じる場合

2.3.2 「行為の受け手」「行為の目当て」が受け身文の<主語>になる場合
 (a1)動作主体Xが、客体Yに対して、物理的・心理的に働きかけ、それによってYが直接何らかの影響を受ける。(殺ス、壊ス、割る、捕マエル、助ケル、苦シメルなど)
 Yの役割は「行為の受け手」。Yを主語として受け身文にすると、動作主体は「二格」で示される。 ・Yは Xに Vラレル 

 (1)先生が私を叱った。 
→ ・私は先生に叱られた。(「私」は私にとって既知の存在なので、ガ格は他との対比の場合にのみ用いられる。「(他の人ではなく)私が先生に叱られた」)
  ・私は先生から叱られた。 (親から叱られたのではなく、先生から叱られたのだ、ということを強調したいときは可。一般的には「二格」の方が動作主性を表せる)
  ?私は先生によって叱られた。
 この文では動作主体「先生」に対する被作用主体「私」のほうが、名詞階層1が高い。したがって被作用主体の側から主観的に事象を描くことが自然である。「カラ」を用いることも可能であるが、「ニ格」によって動作主性を表すほうが自然な表現である。

(2)先生が私の作文を誉めた。(持ち主の受け身) 
→ ・私は先生に作文を誉められた
  ・私は先生から作文を誉められた。
  ・?私は先生によって作文を誉められた。

(3)太郎が花子を救った。
→ ・花子が太郎に救われた。 
  *花子が太郎から救われた。 
  ・花子が太郎によって救われた。
 花子と太郎の名詞階層は同等。そのため、カラ格は、行為の起点という意味よりも、花子が何からすくい上げられたのか、という救難の場所を示す。「花子は泥沼から救われた」と同じように、花子が救い出された元の場所を示す場合に「太郎から救われた」と表現できるが、救助行為の起点としては用いることができない。

(4)先生が答案用紙を配った。
→ *答案用紙が先生に配られた。(答案用紙は、先生より名詞階層が低いので、「ニ+先生」は、答案用紙の帰着点が先生であると受け取られる)
  ?答案用紙が先生から配られた(答案用紙が誰のもとに帰着したのか、文脈からわかる場合のみ可)
  ・答案用紙が先生によって配られた

(5)先生が生徒に答案用紙を配った
→ ・答案用紙が先生から生徒に/へ 配られた
  ・生徒は先生から答案用紙を配られた
  ?生徒は先生によって答案用紙を配られた

「行為の目当て」が主語になる場合 
 (a2)動作主体Xが、客体Yに対して、感覚的感情的に働きかける。
 (Xの感情が向かう先がY)愛スル、憎ム、好ム、嫌ウ、尊敬スル、軽蔑スルなど。
 (Xの感覚が出現する先がY)見ル、聞ク 嗅グなど
 Yの役割は、「行為の目当て」。Yを主語として受け身文にすると、
・YはXに Vラレル  

(6)太郎は花子を愛する
→ ・花子は太郎に愛される
  ・花子は太郎から愛される  
  ・花子は太郎によって愛される

(7)太郎は花子の手紙を見る 間接受け身文(持ち主の受け身)にした場合
→ ・花子は太郎に手紙を見られた 
  *花子は太郎から手紙を見られた 
  ?花子は太郎によって手紙を見られた

2.3.3 動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文
 (a3)動作主体Xの動作・行為の結果、Yが生じる。 作ル、掘ル、描クなど。
 Yの役割は「生産物」。Yを主語として受け身文にすると、YはXによって Vラレル  
→ (8)料理が花子によって作られる 絵は太郎によって描かれる
 寺村(1981)は(a3)の「新たにモノを作り出す」類の動詞は、その作業の結果何ものかが出現することを表すものであることから、「到達点」を要求する移動の動詞、「変化の結果の状態」を要求する変化の動詞と共通する性質をもっている。」と述べている。生産物の最終的な出現を動作の完結点として要求する。
 日本語受け身文では、動作主体agentを「ニ格」で表す。複合助詞「ニヨッテ」も<動作主>のマーカーとして用いられる。「によって」は、格助詞「ニ」、動詞「因る、拠る(よる)」の連用形+接続助詞「テ」が複合して助詞相当句となったものである。「よる」が実質的な意味を有する動詞として用いられ、体言をうけて、「波による浸食」「女性による犯罪」「運慶による仏像」「アンケートによる調査」などで原因や根拠を表すが、近世以後、「よる」の連用形+「テ」で用いられてきた。(a3)のモノの生産を受け身文で表すとなぜ「ニ」ではなく、「ニヨッテ」が動作主マーカーを表すのか。
 答案用紙は無生物のモノ名詞であるので、ヒトである先生より名詞階層が低い。そのため、答案用紙を被作用主体として主語にするとき、動作主体の意味で「ニ」を先生につけることができない。「先生」に「ニ」をつけると、「二」は名詞階層の高い「先生」を「帰着点」と認定するからである。答案用紙が配布されて、先生の元へ帰着するという意味を優先するため、動作主体を表さず、答案用紙が先生のもとへ移動したことを表す。
(9)先生は私たちに答案用紙を配った。(「ニ格」は、答案用紙の帰着点)。
 この場合、「私たち」を被作用主体とし、「先生」に「ニ」をつけて作用主体(動作主体)を示すことができる。
→ ・私たちは先生に答案用紙を配られた。(「二格」は作用主体)。 
・私たちは先生から答案用紙を配られた。
・私たちは先生によって答案用紙を配られた。
 (a3)作ル、掘ル、架ケル、描クなどの動作主体Xの動作の結果生じたYを<主語>として事象を描くとき、名詞階層の低い生産物が名詞階層の高いヒトを押しのけて、そちらに視点を集めるようにするのであるから、動作主体は背景化されて「答案用紙が配られた」と、動作主体は言及しないでおくか、根拠原因のよってきたるところをしめす「によって」を用いて動作主体を表すか、どちらかになる。「答案用紙が先生によって配られた」。創作品が生じる動詞の作品・出現物を主題するとき、動作主体は「によって」で示すことになる。
(10)ゲルニカはピカソによって描かれた。 *ゲルニカはピカソに描かれた。
生産出現動詞であっても、被作用者がヒトであれば、「ニ格」で作用主体を示すことができる。しかし、有生主語より名詞階層が低い生産物を主語にすると、生産者をニ格で示せない。
(11)犬のポチが私の大切な花壇に大きな穴を掘った。
→ *私の大切な花壇に、大きな穴がポチに掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せない)
→ ・私は、ポチに大切な花壇に穴を掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せる)
 これに関して、三原健一(1994)は、以下の例文をあげて、次のようにと述べている。

(12)私はそのことで親に叱られた。
(13)答案用紙が配られた。(試験官によって / *試験官に)
  動作主をニで標示することが自然である文では、主体者(通常は有生主語)の側から事象を描くという意味において主観的表現であり、直接的に能動文に対応する客観的な表現である「に」のほうがより視点が近く、身近な表現としてとらえられ、主観的な表現であると言えるのに対して、「によって」は客観的で、能動と受動の関係が対応するというようなときに使用される(295)。

 しかし、「二格動作主」は主観的な表現、「ニヨッテ」は客観的、という説明では、日本語学習者に具体的な使い分けの基準がわからない。
 日本語学習者に対して、教授者は「主語の名詞が、動作主体の名詞よりも名詞階層8が低いとき、動作主体は「によって」で表される」という点をよく理解していることが肝要である。それをふまえて説明をしておけば、日本語学習者が迷うことはない。

第2節においては、再帰性他動詞文、授受動詞文、受け身文などの<主体>がどのように表現されているか、精査した。

第2節 日本語と<主体性>

2010-03-20 07:11:00 | 日記
第2節 日本語と<主体性>

2.1 日本語言語文化における<主体性>
 戦後日本社会の中に、<主体性>と言う言葉は沸き立つように使用されてきた。特に「日本人は主体性がない」という文脈において頻出し、「主体性を持って行動する」という言辞は、あらゆる分野で提唱されてきた。
 例えば、第二次大戦直後の日本で、関連論文が200本にも及んで出されたという「主体性論争」がある。敗戦直後、文学・哲学の分野を中心に<主体性>の意義をめぐって起こった論争で、近代的自我の確立を主張する人々と客観的・歴史的法則性を重視する人々とに分かれ、論争が行われた。侵略戦争をひきおこした天皇制国家に従順であった自己、国家体制に批判抵抗できなかった自己への自責から生じ、近代的自我=主体の確立を望むマルクス主義知識人の間で「主体性」が論議されたのである。2
 そのほかの例でも、戦後まもない1949年、日本農民組合が左派と右派に分裂した際、左派が「統一派」を名乗ったのに対して、右派は「主体性派」と名乗り、1957年に両派が合同するまで主流派として15万人の組合員を擁していた。この事実も<主体性>という語が要求されたひとつの例である。3
 また、最近では、文部科学省が指導要領の中に<主体性>を謳っている。「新学習指導要領・生きる力」の総則や小学校学習指導要領第1章総則の道徳の項では、繰り返して「主体性のある日本人」の育成をすると述べている。

主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かす教育の充実に努めなければならない。公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓(ひら)く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。

国をあげて「主体性の涵養」が目指されているのである。
 以上見てきた一般的な日本語言説の中では、<主体性>は、辞書的な語義である「活動の中心となるさま。自主的。また主体に関するさま。自分独自の意志・主義を堅持して行動する態度。主体となって働くこと。対象に対して働きを及ぼすこと。自発的能動性。実践的であること」という意味で用いられている。人から命令されて行動するのではなく、かつ集団的な全体行動に引きずられて行動するのではなく、自ら進んで積極的自主的な行動が「主体的行動」「主体性のある行動」とみなされ、文科省の道徳徳目の目標となっている。つまり、道徳教育によって小学生中学生を涵養しなければならないほど、日本人は消極的で自主的な行動がとれない人々であると、国家も思っているということになる。
 次に、一般的言説の中の<主体性>の用いられ方を確認しよう。一般的な日本語文章の中では、<主体性>は、自立性、独立性と同様の意味で用いられている。

諏訪敦彦の談話(映画『ユキとニナ』監督のインタビュー)
 2人の子供が主人公の今回も、俳優の主体性を重んじる手法を通した。(朝日新聞 2010/01/15夕刊東京3版3面)

佐伯順子(「女装・男装と現代文化」)
  高度成長期の日本男子たちは、一家の大黒柱として家計を支え、妻子を養うことで一人前の「男らしさ」が獲得できると信じていたが、昨今の社会、経済状況では、その種の「男らしさ」は簡単に手に入らなくなっている。「草食系男子」という言葉が象徴するような、積極性や強い主体性をアピールしない男子の対等とあいまって、スカートという‘女性並’のファッションで方の力をぬいて生きる権利を求める男子が登場しているようだ。(『本』11月講談社2009所収)

四方田犬彦「大島渚と日本」
  大島渚における初期は、『日本の夜と霧』においてこうして終焉を迎える。抑圧する者、抑圧されて挫折し転向する者、彼らを拒絶して主体的に行為する者。(『ちくま10月号』2008No.451所収)

 これらの一般的な用例においては、<主体性>は、哲学用語などでいう<主体性><主観性>(subjectivity)というよりも、「自主性」と同義の語として使用されている。先に辞書での意味として確認した「自主性」という意味が用法の中心であることが確認できた。
 心理学、教育学などでも、それぞれに<主体性>について述べているが、上に挙げた一般的な用法と同じく、「自主性」という意味合いでの使用が多い。
 「子ども政策にみる「主体性」:教育原理の位相」(桜井智恵子・堀 智晴 大阪市立大学生活科学部紀要 44:203-10)「主体性を育む情報教育の研究」(杉本修一2002大阪経済大学提出学部卒業論文のタイトル)など、主体性=自主性の用法である。
 法律用語としての<主体性>とは、「主体が持つ性質」を言い、法的な<主体性>とは「主体となれるどうか」という点にある。

  人権を享有できる主体となりうる資格のことを「人権享有主体性」という。人権とは、対国家との関係で人たるがゆえに有する権利のことを指す。たとえば、表現の自由、信教の自由、財産権、職業選択の自由、教育を受ける権利、生存権など。日本国憲法上は、憲法の第3章に「国民の」とあるので,日本国民であれば,人権享有主体性があるとみなす。法人、外国人、未成年、天皇、公務員、在監者については、性質上可能な限り、人権享有主体性があると解される。たとえば、法人の法的主体性とは、法人が人権、権利能力、行為能力、不法行為能力などにおいて、主体となれるかどうかを考え、法人の人権享有主体性、法人の権利能力などを考慮した場合、認められる部分と、自然人とは異なる扱いが必要になる部分が生じる。

 この「法的主体性」は、言語におけるsubjectivityの<主体性>に近い用法である。すなわち「<主体>となっているかどうか、<主体>としてその状況に存在しているかどうか」が問題になる。<主体性>を英語に再翻訳してみると、identity、independentlyなどの語にも変換される。英語の‘subjectivity’の一般的な用法では「客観性を欠く主観的なものの見方」という意味合いで用いられることがあり、実証主義的に解釈された‘objectivity’<客観性>と対比して使用される場合、‘subjectivity’に対し一段と低い価値を負わせる場合もあったことに留意しなければならない。日本語においても、「客観的思考」が「公平で広いものの見方」を意味するのに対し、「それは主観的な見方にすぎない」などという文脈では、「客観的な思考」よりもレベルの低い一方的な考え方を非難する意味合いが含まれる。


2.2 哲学における<主体性>
 デカルト以後の、近代の<主体>について、「アイデンティティは、自己の技術によって獲得されるものではなく、他者との関係性により、外部から授けられたものである」ということが認識されるようになった。個人=自己が、自由に決断し自己決定を行い得る<主体>であると考える「近代的主体」とは違った<主体>を考えることが「近代以後」の課題になっている
 フーコーは監獄や性意識の歴史を考察することによって、近代的知と<主体>と権力の意味について、自分たちが<主体的>に考えていると思うその<主体性>自体が、実は自由な志向によって生まれるものなどではなく、既成の言説=ディスクールによって作られるものなのだという観点を打ち出した。人が<主体>として言説を生み出すということと同じく、言説が人の<主体>を作り出すとフーコーは考えた。近代社会は「狂気」を精神病院に隔離することによって「主体=健全なる精神」を成立させ、犯罪者を監獄へ閉じ込めることによって「主体=社会を支える自立した精神」を認めた。subjectが<主体>でもあり、臣民とも訳せることは、世界を表徴する人間が世界を支えるということであり、王の権力を支えるのが臣民であるということで、近代的主体を形成するとは、制度や規則に合わせて自分をコントロールできる、すなわち従属する臣民としての自己を形成することでもあったと、フーコーは精神病院や監獄を「近代社会の装置」の例として示した。『性の歴史』では、キリスト教の教会での告白(懺悔)を原型として、「近代国家」において権力は、上から個人を抑圧するのではなく、むしろ下から、すなわち個人に内面を語らせて、それを教え導くことで、個人を<主体(subject/臣民)>として確立=服従させて、支配の関係のなかへ自発的に巻き込ませると論じた。デカルト以降の<主体>が権力に抵抗する意志を持つ者と見なされたのに対し、フーコーはそうして形成された<主体>とは近代の権力関係を下支えする存在なのだと分析してみせたのである。フーコーは、<主体>というものが、何かにsubject=臣下・臣従しようとする、すなわち何かに隷属的になりたがる<主体性>を持つものであることを明らかにし、知=エピステーメーを、「類似」(適合の類似、模倣の類似、対比の類似、共感の類似)、「タブロー」(表の空間性)、「標識」(外徴・概念・関係であらわさるもの)といった特質に分類した。フーコー(2004)はこの「<主体>を確立する自己の技術」について、

「すべての文明に存在する技術だが、自己による自己の統御、自己による自己の知識に基づいて、主体が特定の目的に従って、自己のアイデンティティを確定し、維持し、変形するために提案し、あるいは定められた手続き」(4:213)である。

と述べている。
 フーコーはキリスト教以前の古代ギリシャの言説を分析することにより、<近代主体>を「外」から眺めようとした。「自己の技術」のひとつとして、セクシュアリティの決定があるが、近代的主体にとっては、抑圧されたセクシュアリティに従属することが<主体>の確立となっていたことをフーコーは論じている。フーコーは、人間というものはおおむね次のような<主体化>を経ると論じた。
(1)医学や人文科学のなかでの人間の主体化、「真理との関係」で主体化を強化
(2)狂気や病気や犯罪を排除しようとしておこなわれる主体化、「権力との関係」における<主体化>
(3)性的な欲望を通して試みられる<主体化>、人の内面すなわち「道徳との関係」における<主体化>
 フーコーは、近代以降の社会を呪縛しているのは<主体>の過剰な根拠化にほかならないと考え、<主体>を捉え直すことを論じてきた。フーコーの課題は、隷属的になりたがる主体性を「生の様式」に戻すことにあった。フーコーは、キリスト教的な道徳の発生する以前ギリシア・ラテン文化、特に古代ギリシアの道徳に焦点を当てることによって、「自己」からの離脱や「自己」の放棄の様態を探った。フーコーは、「自己」を客体化させることによって<主体性=主観性>を確保する近代の思考とは全く異なる<主体性>を探求したのである。
 フーコー以後、哲学で語られる<主体性>が近代社会を形作ってきた<主体性>とは異なる意味合いで用いられるようになった。しかし、以下の藤野の論に見られるように、主体客体の関係から<主体性>を「他者によって動かされるということはないような仕方で主導権を確保したいという欲求に発する理念」と、従来の<主体性>と重なる見方も当然残っている。
 藤野(2006)は、「哲学とは、主体でありたいという人間の根源的な欲求を表現するもの」と規定し、<主体性>について述べている。

  主体性とは、主導権を握ってコントロールする立場、動かす立場に立っている、とい うあり方を意味する。だから、動かされるもの―― 客体、と呼ばれる ―― との関係の内にあることになる。客体に対して主体であるという関係。つまり、主体性の理念とは、人生において、自らはもっぱらものや人を動かす側に立ち、何かによって動かされるということはないような仕方で主導権を確保したいという欲求に発する理念だ、と言うことができるだろう。自分以外のものは客体の位置に追いやってしまおうとする欲求だ、と言い換えてもよい。(203-11)


2.3 文学理論における<主体性>
 文学理論家D. E. ホール、ジョナサン・カラーらの<主体性>についての論を確認する。
 D.E.ホール(2004)は、ガニエによる<主体性>の概念を次のように紹介している。

(1) ある主体とはそれ自体の主体であり、「私」である。他者がその視点から、また、自身の経験において、これを理解するのは困難であり、不可能でさえある。
(2) 第1と同時に、ある主体は他者に対しての、そして他者の主体でもある。事実、それはしばしば他者にとっての「他者」であり、このことは他者自身の主体性の感覚にも影響を及ぼすものである。  
(3) 主体は認識の主体でもある。おそらく最も解かりやすく言えば、主体の存在を取り囲む社会制度の言説の主体ということだ。
(4)ある主体とは、―妊婦と胎児の場合をのぞいて―、他の人体と区別される肉体である。そして、その肉体とは―それゆえに主体であるが―物理的環境に密接に依存する。

 ジョナサン・カラー(2003)は、<主体>が「与えられたものか」、「作られたものか」、また、「個人的なものか」、「社会的なものか」という要素を組み合わせで、次のような4種類の<主体>が論議されてきたという。

(1) 所与の個人、内的な核。
(2) 所与の社会的属性によって決定されたもの。
(3)「個人的な作られたもの」すなわち「具体的な行為を通して自己になる」もの。
(4)「私が占める主体的な」社会的な属性によるもの。(161)

 カラーは、社会の中に存在する個人をとらえ、アイデンティティから見た<主体>の成立を中心に考察している。


2.4 言語学における<主体性>
 言語学においても、<主体性>の概念がさまざまに論じられてきた。バンヴェニスト、ライオンズ、ラネカーの<主体性>に関する言説を確認する。
 バンヴェニスト(2007)は、「言語が<我>の概念を基礎づけ、言語によって思考し伝達することによって他者と向き合う」と、述べている。

  まさしく言語において,そして言語によって,ひとりの人間は主体として立ち上げられる;なぜなら,ただ言語のみが,現実の中に──実在するその現実の中に──「我」の概念を基礎づけるがゆえにである。
  現象学的に考えるか心理学的に考えるかはお好きなようにしていただくとして,この《主体性》は言語の根本的な特質のひとつが実在化したものにほかならない。《我》とは《我》と言う者のことだ.ここに私たちは《主体性》の基盤をみる.《主体性》は《人称》という言語的な地位によって定まるのだ。(259-60)
 
 バンヴェニストにとって、主体とは言語において「人称」で表されているものを指している。
 ライアンズのいう<主体性>は、「自然言語がその構造と通常の作用の仕方において発語の行為者による彼自身と彼の態度と信念の表明=表出のために提供する、その仕組み」をさしている。「非命題的・非確言的な要素」をライアンズは<主観的>ととらえ、「言語の構造・使用で表明される内容のうち,話し手の自己を表現する非命題的・非確言的な要素」=<主観性=主体性>であるとしている。
 ラネカーは (a) 客体的な事象に対する話し手の捉え方が (b) 非明示的なものとなっていることを「主体的」と呼ぶ。また、ラネカーは、多くの文法表現および言語変化における文法化のプロセスには主体化が関わっている、と主張している。
 ラネカー(1987)のいう主体性/客体性の概念を例文で表すと以下のようである。
[母親が子供に]
(57a) Don't lie to me!(私に嘘をつかないで!) 
(57b) Don't lie to your mother!(お母さんに嘘をつかないで!) (132)

例57aの方は直示的人称代名詞を使って話し手を主体的に捉えているふつうの表現で,彼女のアイデンティティを言語行為状況に相対的に定義している。一方の例 57bには客体化が関わっている。話し手は言語行為状況から独立的な観点でみずからを記述している。
 ラネカーは、「ある実体の指示を主体化することも可能だ」と述べ、例文をあげている。

(58) [写真を解説しながら]That's me in the top row.(上段にいるのがぼくだよ)(132)

(58) では、写真に写された物理的イメージ(写真映像)が、meという直示表現で記述されている。話し手を示すのではなく、映像実体すなわち写真に写った物理的なイメージを直示表現 (me) で記述している。ラネカー(1991b)は空間表現での主体化の例として次の文を上げている。

(59a)Vanessa is sitting across the table from Veronica.(ヴァネッサはテーブルをはさんでヴェロニカの向かい側に座っている)
(59b) Vanessa is sitting across the table from me.(ヴァネッサはテーブルをはさんで私の向かい側に座っている)
(59c) Vanessa is sitting across the table.(ヴァネッサはテーブルをはさんで向かい側に座っている)(326-28)

(59c)は、 acrossの前置詞句を主体化している例である。(59c) はヴァネッサがテーブルをはさんで話し手の向かい側に座っている状況を指している場合のみ使える。(59a)は、話し手がヴァネッサとヴェロニカがいる部屋のどの位置にいても、あるいは部屋の外にいても言うことができる。(59b)は、言語行為状況の参与者(話し手)を明示的に言及しており、(59c)は、話し手を明示していない。話し手(I)は、59cにおいて背景化している。このような、「主体の背景化」は、表現主体、認識主体が英語でも表現されていることを示しており、日本語の自動詞文、再帰的他動詞文において表現主体が背景化されて文の表面には明示されない文でも、主体として存在していることを説明する場合に有効である。 
 以上、近代以降の<主体性>について、各分野での用法を俯瞰してきたが、日本語の<主体性>とは何か、について、さらに確認を続けたい。一般的辞書的な意味合いの自立性、独立性と<主体性><主観性>がどのように異なっているのか、という点も、それぞれの論者が独自の論の中で解釈している。


2.5 日本語学における<主体性>
 subjectivityは、<主体性>と<主観性>という両義に翻訳され、さらに主観性は哲学用語心理学用語としての<主観性>と、言語学での「モダリティ表現としての主観性」にそれぞれ翻訳されている。
時枝(1941)は、「すべての言語は主体的立場の所産である」と述べ、発話主体は、対象を自己の感覚によって認知し把握する、と見なし、行為的主体としての人が言語を発し、発話主体は対象を自己の感覚によって認知し把握すると捉えている。

  「<我>の主体的活動をよそにして、言語の存在を考えることはできないのである」「言語はいついかなる場合においても、これを産出する主体を考えずしては、これを考えることはできない」(2007:28)
  「我々は言語に対して行為的主体として望んでいるのであって、この様な立場を言語に対する主体的立場ということができると思う。」(2007:39)

時枝は、言語には、(1)主体(話し手)、(2)場面(聞き手及びその他を含む)、(3)素材、の三者が必要であり、<主体>は、場面(他者)に、何らかの事態(素材)について述べることによって言語表現が成立し、三者の相互関係によって言語自体を種々に変形させる力を持っている、と言う。ここで時枝が言う<主体>とは、「言語的表現行為の主体」すなわち話し手・語り手のことである。「表現された素材」の主人公は<主格>として表現されるが、これは<文>の主格であって、表現の主体ではない。「猫が鼠を喰う」という文において「猫」が主格を備えて表現されているのは、「言語的表現行為の主体」である話し手にとって、素材(表現された現実)の主人公が「猫」であると認識されたことを表しており、表現主体は表現の素材と同格ではない。表現主体が表現しようとする素材(客観的現象)に対して、場面(他者)とは事物情景に志向する<主体>の態度や気分感情を受容して、話し手の存在する場に共にある。<現実の描写/現象>と<話者の判断や心的内容の表現>が重層して発せられたものが「言語表現」である。あらゆる言語的表現は、この「<詞>=<客観的表現>の表出」と「辞=<主体的表現>の表出」が融合して表出される。時枝のいう「文の<主体性>」とは、表現された文の中の<表現主体の判断や心的内容>が示された部分を含んだ「言語表現全体」にある。
 森山卓郎(1988)は、動詞述語文における<主体性>を次のように規定している(「第Ⅲ部第5章主体性の類型」)

「主体性:動詞がその表す動きを発生・成立させるための、主語名詞あるいは動作主。 名詞の動きに対する自立的な関与の度合い。「主体性」の下位概念として意志性、「主体的」の下位概念として「意志的」がある。 主体性の段階性: 人間動作主>有情物動作主>経敦者>自然的発生(201)。

 動詞述語文の動詞行為に意志性があるかないか、動作主名詞に対する自立的な関与がどの程度関与しているのかどうか、統語の面から判断することはできる。しかし、形容詞述語文、名詞述語文については言及されていないので、日本語文全体を統一して、<主体性>を考察するとき、動詞の意志性だけでは判断できない。家の中から外に出て「寒い!」と表出したとき、この表出における<主体性>とは何か、という日本語学習者の問いに答えることができない。
 中右実は、現代言語学における主観性(subjectivity)を二つに分けている。ひとつは認知言語学の主観論であり、Langacker(1985他)らが論じてきた。認知的主観論は、実体や事象の把握の仕方を問題にし、概念主体や概念化過程の主観性を力説する。もうひとつはLyons(1977他)らに代表される通時的観点からモダリティ主観論、言語的主観論である。言語的主観論は言語表現の意味を問題にし、その意味や機能の主観的側面を強調する。中右は主観的モダリティ二層構造論(中右1984他)を唱えている。階層的モダリティ論は、モダリティ(主観的な要素)が命題内容(客観的な要素)を重層的に包むと主張する。中右(1979)、寺村(1982)仁田(1991)益岡(1991)なども同様の二層構造を述べている。しかし、実際の発話では、常に命題とモダリティが二層に明確に分離されるわけではない。本論でも、文のモダリティ(主観性)を命題と截然と分離できないものとし、ヴォイスやアスペクト表現にも拡大されて<主観性>が表現されていると考える。
 廣瀬・長谷川(2010)は、<主体性>を「ことばで自己を表現すること」「言語主体が個の主体性を発揮して、他者に関わる社会的な伝達の主体となったり、他者への関わりを意識しない、思考・意識の主体となること」(v-vi)と規定している。廣瀬・長谷川(2010)は、「日本語における自己」を「公的自己」と「私的自己」に分け、公的自己は他者に向かう伝達を目的とした自己であり、聞き手との関係をもとに発話される。私的自己とは伝達を目的としない思考・意識の表出に用いられ、聞き手の存在を想定しない、と述べる。「ぼく・わたし」は伝達を目的とする公的自己であり、「自分」は、私的自己を表現できる、と廣瀬はいう。(18-19)
 廣瀬の説をまとめると、次のように解釈できる。太郎が次郎に向かって発話する。「花子は、私は泳げない、と思っている」では、「私」は発話主体の太郎を表すか、述語「思っている」の主語である「花子」を表すか、判断できない。「花子は、自分は泳げない、と思っている」では、「自分」は発話主体の太郎ではなく、「述語の主体である花子」を示す。「自分」は、私的自己を意味するので、発話主体(太郎)を表現できない。
 廣瀬の言う「自分」は私的自己を表す、という規定が理解できない。「自分」を一人称に用いる地域なら、「花子は、自分は泳げない、と思っている」の「自分」が発話者太郎を表すと解釈できるからだ。思考・意識のための言語に用いる「わたし=自分(私的自己)」と、他者へ向かって伝達する「私(公的自己)」は、それぞれ別の文法的意識から発信されている、という廣瀬・長谷川(2010)の主張を全面的に受け入れることができない。


2.6 本研究における<主体>と<主体性>の概念規定
以上の議論を踏まえて、本論では<主体>とは、第一に<発話主体>、<表現主体>であると規定し、<主体性>とは、<主体>としての性質特徴が表れていること、として以下論を進める。「行為主体がどのように行為作用を対象へ加えるのか」として主体の行動を叙述するよりも、「表現主体(話し手・語り手)と受容者(聞き手・読み手)のいる言語空間で、どのように事象が推移したのか」ということが、日本語表現の中心であるという観点で、日本語叙述を見ていく。日本語文は、「述語表現のなかに、述語の主体となるものは包摂されている」と考えられる。また、言語タイポロジーでいうSOV型の範疇に入ると見なされる日本語他動詞文について、「事態推移表現中心の述語」と考え、学習者にも「述語に注目すること」を伝えていかなければならない。
 本論では日本語学・言語学の<主体性>確認を経て、「<主体性>とは、表現主体が、自分自身の表現意志を持ち、述語内容を文の<主体>の上に実現させること」と規定し、「表現主体の主観によって選択された叙述形式に<主体性>が表れる」とする。
日本語は、「コト」の叙述を中心とする言語である。出来事の叙述に重点が置かれる日本語において、<主体>が背景化されていたとしても、表現の中に<主体>は在り、<主体性>も存在している。表現主体(語り手・書き手)また、文の行為主体がどのように表現されているのかという語り方の中に見えているのである。読み手は語り手の語り方、表現主体の主観を通して物語世界を見る。
日本語の文脈の中で<主体性><主観性>という用語を再確認した。以上の確認をふまえて日本言語文化にあって、<主体性>がいかに言説化されているかを考察していく。
文は、表現主体(話し手・書き手)が個としての主観によって受け止めた事象知覚し認知したことがらを言語化して発せられる。主観を持つ個としての人が、発話、文章表現などの表現主体となるとき、行為主体・動作主体の行動の描写であれ、その行為に関わる人の意識の描写であれ、表現主体の<主観性>は、<主体性>に支えられており、<主体性>は主観の反映である。<主体性>と<主観性>が別個の意味合いで用いられる場合があるとしても、主体のない主観はありえず、主観を持たない主体もない。「客観的な風景描写」と言われる叙述であっても、表現主体が個人感覚として捉えたものであるなら、なんらかの主体的な意識・主観が反映される。主観による描出は、表現主体の意識の発現であり、自己表出である。
本論での<主観性>は、モダリティ(陳述)の範囲を最も広くとり、日本語のテンス(タ形とル形)、待遇表現に表れる<主体>から<客体>への意識まで含んで考察する。
作品分析にあたっては、作者の視点の分析として、作品中の述語から「タ形・ル形」の表現を確認し、次に視点の現れ方をダイクシスの表現から確認する。また、授受動詞文、待遇表現などについて考察する。表現主体の主観は、これらの叙述に表される。表現主体がその主観によってどのような視点をとり、それをどのような文法形式で表現しているか、という点を観察することは、日本語文における<主体性>の在り方を示すひとつの方法となる。テンス、授受表現、待遇表現などに表れ、表現主体の主観の表現が、主体が現実世界を見る視点として表れるのである。

第2節 自動詞文・他動詞文の誤用と対策

2010-03-01 11:18:00 | 日記
第2節 自動詞文・他動詞文の誤用と対策

2.1 これまでの研究の流れ
 明治以来、日本語文法研究は、西洋語文法との対比対照を主流として進められてきた。そのため、自動詞他動詞という概念においても、西洋語の「自他」の区別を日本語にそのまま適用したところから、混乱を招く結果も引き起こされてきた。英語などで、他動詞は直接目的語(対象格)を取る動詞をさす。英語の場合、多くの動詞が自動詞と他動詞との間に形態的な違いがない。“open”を例にとるなら、“I open the window.”と“The window opens."の動詞の形は、自動詞他動詞でかわりがない。日本語の自他の場合、「ヲ格(対象格)」を取る動詞が他動詞、ということになるが、日本語では他動詞「私は窓を開ける」と自動詞「窓が開く」は、動詞の形が異なり、「あける」は一段活用動詞、「あく」は五段活用動詞と、活用形も違っている。多くの他動詞は、ペアになる自動詞を持っていて、この自動詞他動詞のペアを早津(1987, 1989a, 1989b)は、有対自他動詞と呼んでいる。日本語の自動詞他動詞は、構文上の「対象格を有するか否か」ということよりも、「人的意図的な行為が発現しているのか」、「人為によらない、自然的状態や事態の表れ」なのか、という意味的な違いの研究がなされてきた。
明治時代に西洋文法が日本語研究の主流になる以前、江戸時代の国学者本居春庭(1763-1828)はこの自動詞の意味を「自ずから然る」と言い表した。本居春庭の自他の学説『詞八衢(ことばのやちまた)』(1829(文化5)年刊行)は、現代における認知科学に立脚した文法研究から見ても、日本語の自動詞文他動詞文についてのすぐれた知見を示している。近年では、池上嘉彦、森田良行らの日本語論が、自動詞文他動詞文、文の主体、文の視点などにおいて、有意義な論を示している。また、三上章も、『日本語語法序説』などに「日本語の主語は、西洋文法でいうところの主語とは異なる」という説を展開している。行為者を明示しない日本語の特質は、特に英語との比較においてさまざまな論が提出されてきた。いわゆる「日本語の主語無し文」論争である。三上章の一連の論述と、近年、三上の論を取り上げている金谷武洋(2002, 2003)の論など、論争は途絶えることなく続いてきた。
 金谷武洋(2002)は、三上説を援用して次のように述べている。

  日本語に自動詞文があふれている最大の理由は、存在文として表現することで行為者を消すことが出来るからなのです。こうした言語を母語とする我々は、積極的行為をとろうとしません。何か問題が起きたとき、英語話者ならなんとか手を打って対処してしまう状況下で、日本語話者は多くの場合諦めてしまいます。(161)

これは、日本語が持つ特質に日本人の性質を見る「日本語母語話者は、積極的人為的行動より、自然の流れにのることをよしとする→集団主義・ことなかれ主義」といった従来の「日本人論」と軌を一にしている。しかし、『「する」と「なる」の言語学』以来、池上嘉彦は、言語的特質と言語外の文化特質との関わりを安易に結びつけようとする「日本人論」には慎重な論を提出している。筆者も「する」型の西洋語に対して日本語が「なる」型を多用するのは文法的な事実であったとしても、「主語を明示しない日本語」から直接に「消極的行動」、「集団主義」、「非分析的思考」、「自然中心の哲学」などを結びつけることはできないと、考える。
 日本語学習者が読み取りに困難を覚える「日本語文の主体」について、誤用分析の報告などからの言及はさまざまにあるが、言語学・日本語学研究と、日本語教育実践の中で得られた知見とを重ね合わせるなかで、統一的に日本語の主体を考察していくという研究は多くはなかった。本節では、中国の赴日本国留学生予備学校での学生の日本語誤用を分析しながら、日本語主体の何がわかりにくく、何が読みとりを困難にしているのか、どのように指導していけば<背景化されている日本語の主体>を読み取っていけるのか、という点を中心に明らかにしたい。


2.2 中国人学生の誤用分析
中国人学生の他動詞文誤解を観察し、他動詞文の主語をどのように理解させたらよいのか、対策を探る。
 筆者は 2009 年3 月から7 月の間、中国に滞在し、日本文科省国費留学生に選ばれた中国人大学院修士課程修了者への日本語教育を担当した。赴任校は、中国吉林省長春市にある東北師範大学留学生教育部内に設置されている「赴日本国留学生予備学校」(以下、「予備学校」と呼ぶ)である。日本文科省と中国教育部の合同プロジェクトによって運営されている学校で、学生は中国全土の修士号取得者のなかから選ばれており、日本の大学院の医学、工学分野などでの博士号取得を目指している。
中国語との対照から日本語の<主体>を見る日本語学習者にとって、何がむずかしいのか、どのような項目の習得が困難なのか、考察する。特に、自動詞と他動詞の形態的な区別がない中国語母語話者にとって、また、語の文法上の意味・立場(主格属格与格などの格関係)が、英語と同じく語順によって示される中国語では、「我ウォー(私)」「他ター(彼)」を文中に明示するため、「私」「彼」などの文の主体を明示することがない日本語の読みとりが困難になっている、という点に焦点をあてて、考察を進めたい。
 本節で言及する中国人学生は、文法的には、動詞の自他の区別は習っているが、自動詞文は人・主語文がほとんどで、物・主語の自動詞文を使いこなすには至っていない。自動詞他動詞に形態的な区別がない中国語話者にとって、自他の区別は、発音の有声音(濁音)無声音(清音)の区別以上に難関である。また、授受動詞も、誰が誰に何をしてやっているのかという主体の省略がある場合に、誤用が多く見られる文法項目である。これまでの宿題として課した文法問題のなかから、誤用例を提出する。( )内の語は教授者の添削である。

(1)地震が(で)大勢で(の)人を(が)下敷きになってしまいました。
 自動詞「なる」他動詞「する」の区別がついていないために、「下敷きになる」を他動詞と混同したため、「地震」を主語ととらえ、助詞を間違えた例。

(2)あと5分ぐらいすると、お湯を(が)沸きます。
 どうしても、動詞の主体を「人」として考えるために、「湯が沸く」という自動詞表現でなく、「人が湯を沸かす」という他動詞表現を使おうとする傾向があり、しかも「沸く・沸かす」の自他区別がついていないため、助詞を誤用している。

(3)この薬を皮膚に塗っておくと、虫を(が)来ません。
 これは、条件文の前件の主語が「人」であるため、後件の主語も人であると考えたための間違い。助詞を「を」にするなら、「虫を来させません」という表現が成立するが、使役文はこの時点では未習である。

(4)家族のためにも、早く家をたてる(たてよう)と努力していますが、なかなか建て(たてられ)ません。
 「建つ・建てる」の意志形可能形の混同による誤用である。

(5)早く適当の(な)仕事を(が)みつかるといいですね。
 物主語「仕事」を受ける動詞述語は「みつかる」であり、人主語になると「人が仕事をみつける」となるのだが、自他動詞が区別できていないために誤用している。「人」を主語として立てたい中国語話者は「仕事がみつかる」という表現でなく「私(あなた)が仕事をみつける」という文のほうを好む。

(6)母は、洗濯物が干したままにしておいた(なっていた)ので、取り込みなさいと、私に言いました。
  後件の述語動詞「言いました」の主語は「母」である。洗濯をしたのは母である。条件文が入れ込まれており、洗濯物を主語とする「洗濯物が干したままになっていた」と日本語母語話者は解釈するが、非日本語母語話者は、文のすべての行為者が「母」であると考え、条件文入れこみの部分が「洗濯物が」と、物主語になっていることに気づかない。そのため、「洗濯物が干したままにしておいた」という誤文になっている。

(7)ごみや油をそのまま流れれば(流せば)管が詰まってしまいます。
 条件文の後件が「管が詰まる」という自動詞文であるため、前件が「ごみや油を」と、「を格」助詞が使われていることに気づかず、「人がごみや油を流す」という主体を見落としてしまう。そのため、「ゴミや油をそのまま流れる」と、自動詞を用いてしまう。「だれが」という主語を省略してある場合、省略されている主語を見つけだして的確に判断することは難しいと思われる。

(8)A:古い家具はどうしますか。
B:古い家具はリサイクルの店が(に)全部売ってしまった(しまおう)と思っています。
 Aのことばから、古い家具の処分をしようとしているのはBであることがわかる。学習者はそれに気づかず、家具を売るのは「リサイクル店」であると考えたための誤用。

(9)魚の新鮮な味が(を)とどめました。
 「(私たちが海鮮レストランで食べた魚は)新鮮な味をとどめていました」と、書きたかったのでしょうが、「とどめる」「とどまる」の混同によって、非文になっている。

(10)別便でCDを送りましたが、もうそちらにとどけた(とどいた)でしょうか。
 この複文前件の行為主体は<私>なので、後件の主体も<人>である、と学習者は考える。「前件 CDを送った 後件 CDを届けた」複文の前件後件の主体は同一の場合もあるが、異なる場合もあるということに留意せず、どちらの主体も「私」と見なしてしまう。前件でスポットライトがあたっているのは、「CD」であり、行為者の「私」は背景化している。後件ではCDが主題化された上に、背景化され、文の表面には現れない、という学習者にとっては、たいへんわかりにくい文である。
 上述の誤用例に加え、自動詞他動詞の選択において、筆者が担当日本語クラスで行った調査を報告しておきたい。筆者が教室内で利用しているステンレス製お茶ボトルを開けようと、フタを回す動作をする。「う~ん、開きませんねえ、困りました。もっと力を入れてみましょう。」力をこめてフタを回す動作。フタが開いたとき、「先生は、次にどう言うと思いますか。あっ、やっとボトルのフタ~、、、、、次に言うのは、どちらでしょうか。」
(A)あっ、やっとボトルのふたが開いた。
(B)あっ、やっとボトルのフタを開けた。
 18 人のクラスのうち、Aを選んだ学生はひとりだけであった。あとの17 人は、(B)「あ、ボトルのフタを開けた。」を選んだ。「開いた」を選んだ学生に、なぜ「開いた」を選んだのかたずねると、「先生が、自分で力を入れたから」つまり、他動詞「開けた」と自動詞「開いた」を逆に覚えていたのであって、結局全員が他動詞の「あ、開けた」を選んだことになる。かほどに、中国語母語話者にとって、「行為者の動作であることがはっきりわかっている事柄について、自動詞で表現する」ということが考えにくいことなのだということがよくわかる調査事例となった。

 日本語学習者にとって理解しにくい「行為主体の人称と述語」の例をもう一件提出する。

(11)1時間も待たせてしまったので、先輩は(を)怒らせてしまった。

 誰が怒っているのか。誰が怒り、誰が怒らせたのか。誤用した学生がどう解釈したのか、聞き取り調査をしたところ、以下の解釈がわかった。
 後件に「先輩」という人を表す語が有るので、主語はこれだと判断し、前件も「先輩」が主語であると考える。先輩が私を待たせた。私は待った。そして、私は怒った。学生の解釈では「(先輩が私を)1時間も待たせてしまったので、先輩は(私を)怒らせてしまった。」となったのである。
 授受動詞の間違いは非常に多く、「やりもらい」は日本語教育の最難関であるということを実感している。授受動詞文も日本語の主体と客体の捉え方と表し方に関わる。特に誤用が多い「くれる」、「くださる」は、他者を文の主格に据えて、自分への方向、自分の身内の方向へ行為が向けられた場合の表現である。「王さんは、私の妹に花を買ってくれました」において、中国語は英語のgive に当たる「給」を用いて「王給我的妹妹買了花」となるので、どうしても「王さんは私の妹に花を買ってあげました」となってしまう。「私は王さんに花を買ってもらいました(我王贈買花了)。」は間違いが少ないが。日本語では<話し手=発話主体>と<恩恵の受け手>の間の関係が重視され、身内であるなら、「自分と同一化している自己の延長」のなかにいる者として扱う。日本語の<発話主体>、<文の主体>、<延長された自己>などがどのように重層的に日本語らしさを成立させており、どのような表現が日本語学習者にとって理解の躓きとなるのかを、これから探っていかなければならない。続けて、授受表現の誤用例をあげる。

(12)姉が病気になったとき、近所の親切な方が姉を車で病院へ運んでいただき(ください)ました。その方にはほんとうに親切にしてくれ(いただき)ました。今、姉は元気になって退院しました。一度その方に元気な姉を見に来てください(いただきたい)と思っております。
(13)陳さんが申し出てやった(くれた)ので、この仕事は陳さんに手伝ってあげる(もらう)ことになりました。この仕事は大変なので、だれかもう一人手伝ってやり (くれ)ませんか。
(14)先生、このレポートを見てさしあげ(いただき)たいのですが。
(15)友達はナイフとフォークの使い方を教えてあげ(くれ)ました
第3者の感情表現に用いる「~がる」の場合はどうであろうか。
初級後半の日本語文型として、「~がる」を導入した。感情・感覚・心的状態を表す形容詞、たとえば、「うらやましい」は、「私は日本のゴールデンウィークがうらやましい」と言えるが、「彼は日本のゴールデンウィークがうらやましい」と言うことができない。(これは、オーソドックス日本語の場合であって、日本人でも若者世代においては「した
い」、「したがる」の区別が厳密ではない)。教科書の文法解説には、「私」以外の第三者を主語とする場合「彼はうらやましがる」と言わなければならない、と書いてある。「Aさんは、日本のゴールデンウィークをうらやましがっている」と表現するのが、オーソドックス日本語である。日本語は、発話主体自身の感情・感覚・心的状態を示す「私はうれしい」、「私は悲しい」に対して、感情の主体が発話主体ではない場合を峻別している
ことになる。
 森田(1998)は、この「~がる」について、以下のように述べている。

  場面依存的で自己視点中心に事物を捕らえていくという発想は、言い換えれば、話者が話題とする場面へ目を向けて、自身の目に映った姿として対象をとらえ、自己の主観として事柄を表す表現態度でもある。客観世界における第三者同士の事象を傍観的に記述すると言った態度とはほど遠い。動詞と形容詞とを比較したとき、形容詞、特に感情や感覚を表す形容詞は、主観的で自己の立場で事態を捕らえようとする傾向があります。それゆえ話者自身のことなら「(私は)うれしい」「(私は)寂しい」「(私は)痛い」と形容詞の文で表すが、これが三人称を主体とした表現だったらどうなるか。恐らく「彼はうれしがっている」とか「喜んでいる」「彼は寂しがっている」とか「寂しそうだ」そして「痛い」なら「あの患者はとても痛がっている」のように動詞で言い換えたり、「そうだ」をつけて事態を客体化しなければならない。形容詞に「がる」をつけると動詞に変わり、それが結果として心理状態や感覚を表に現す第三者の行為を傍観者として叙する発想となるのである。(19-21)

 担当した中国人学生は、「うれしい」感情形容詞を自己の感情の発露として述べるときでも、「私はうれしいです」「私はおもしろいです」など、「私」をつける表現が多かった。プレゼントをもらったとき、形容詞のみで「わぁ、うれしい。」というより「私はうれしいです」。ビデオ番組を見たあと、「私はヤンさんのビデオを見ました。私はおもしろいです」など。日本語の感情形容詞が、表現主体の感情をそのまま表現するモダリティを含むことを理解させる工夫が必要であった。一方、「~がる」は第3者の感情表現に用いることを指導した場合、次のような誤用も見られた。
 短文作りの練習文「母の話では、幼稚園の時、私は犬を―――そうです」について。後半に「こわい」の形を変えて記入し、文を完成させるという問題である。ほとんどの学生が「母の話では、幼稚園の時、私は犬をこわかったそうです」とまちがえて書いていた。「彼」、「彼女」など三人称のときは「~がる」を使い、「私」のときは形容詞をそのまま使う、と文法解説に書いてあり、そう教わったからというのが理由。この文で「怖い」という感情の持ち主は「私」。そして、「幼稚園のとき」は過去形になるから「こわかった」と、学生は考えた。教師から学生への解説。「こわい」など、心的状態の形容詞は、自分自身の現在の感情感覚について言う。その場合の助詞は「が」になる。「犬がこわい」。過去のときは「犬がこわかった」。「私は犬がこわかった」が、正しい文。しかし問題文は「犬を~」だから、「犬をこわかった」は、非文となる。問題文で「犬」を怖いと思っている<主体>は「母の話の中に登場した幼稚園のときの私」だから、この「思い出の中の過去の私」は、三人称として扱う。「現在の私が感じている感情」ではない。「こわがる」の助詞は「を」になるから、「幼稚園の頃の私は、犬を怖がった」になる。濁点の有無で、「こわかった」「こわがった」の主格が決まり、助詞が変わる。学生達は、主格対格を明示しない日本語文がわかりにくく、「幼稚園のときの私」のように、「私」が書いてあっても、「発話主体としての私」とは異なる「私」にとまどう。
次に、授受動詞文の読解事例を示しておく。次に、授受動詞文の読解事例を示しておく。『実力日本語』のロールプレイに、以下のような会話例が提示されている (85)。

 (女性客の訪問)
 客: ごめんください。
 佐藤:あ、よくいらっしゃいました。どうぞお上がり下さい。
 客: お邪魔します。あのう、これ、この間、国から送って来たものなんですけど、子供さんにお一つどうぞ。
 佐藤:まあ、どうもすみません。今度からこんな心配しないでくださいね。
 客: いえいえ、つまらないもので失礼なんですけど、、、、
 佐藤:どうぞ、こちらにお入りください。畳ですから、足をくずして、どうぞお楽に。さあ、何もありませんが、召し上がってください。
 客: まあ、すばらしいごちそう!
 佐藤:ご遠慮なくどうぞ。
 客: じゃ、遠慮なくいただきます。 
 (数日後)
 佐藤:先日はけっこうなものをわざわざ持ってきてくださって、ありがとうございました。
 客: いいえ、ほんの少しで。
 佐藤:いえいえ、本当においしかったです。家族みんなで喜んで、いただきました。東京じゃちょっと見たことがありませんけど、、、、
 客: ええ、季節になると、郷里からいつも送ってもらうんですよ。
 佐藤:やっぱり産地直送だから、新鮮でおいしいんですね。

 教科書執筆者の年代からみると、ごく平均的な贈答のあいさつを提示しているのだが、中国語母語話者にわかりにくい表現が連なっている。スライドで日本の家庭の玄関、居間などを見せたのち、ロールプレイを行ったのだが、「だれが、だれに,何を」しようとしているのか、理解するには、動作主体の理解も含めて注意が必要であった。「これ、この間、国から送って来たものなんですけど」という文は、「これ」がトピックとして提示され、贈り物についての説明がなされているのであるが、授受構文の「国から送って来た」の動作主体は明示されていない。客の故郷の家族親戚友人などが、客へ故郷の特産物を送り、客が受け取った品を訪問先の佐藤に提供している、という意味である。「送って来た」の動作の方向性がわかっていれば、贈答品の送り主は故郷に在住する客の知り合いであり、客はそれを受け取って佐藤の家に持ってきたことがわかるのであるが、初級後半の学生にとって、「国」というのは故郷のことを指すという語彙的な説明は理解できても、やりもらいの方向によって動作主がだれであり、だれが品物を受け取ったのか、という理解は高度な内容であった。「畳ですから、足をくずして、どうぞお楽に」というあいさつは、日本間のスライドや座布団に座っているようすのスライドを見せて解説したが、「何もありませんが、召し上がってください」と、日本的な謙遜のあいさつについては、「没什么招待的,别客气请慢用吧」という直訳ではやはりわかりにくいようであった。「けっこうなものをわざわざ持ってきてくださって、ありがとうございました」についても、「わざわざ」という語のニュアンスは微妙であるが、「特意」という中国語で理解できる。しかし、「もってきてくださる」という方向表現と授受表現が重なると、「もってくる」という行為が佐藤に向けられ、それに対して恩恵を感じたから「くださる」が続くのだということがすんなりとは理解できない。
(1) プレゼントに見立てた箱を持って学生Aが学生Bのところへ行く。「AはわざわざBのところへ行った」
(2) 学生Bは「Aが来てくれた」といって感謝する。という行動提示をクラスの前で実演して動作主の動作方向と恩恵授受の<主体>を確認した。
 初級日本語学習を終了し、中級日本語へと学習を進めると、「日本語らしい表現」が多くなっている。 一文一文を母語に置き換えるのではなく、日本語らしさを理解し日本語をそのまま日本語として理解するためには、「日本語母語話者がいかに<事象>を認知把握し、言語表出に際しては、どのように表現していくのか」という点を明らかにしなければならない。中国語と日本語の自動詞文・他動詞文の対照を行う必要もあるし、中国語で出てくる主語を日本語では言わないのだ、ということを初級よりもっとはっきり伝える必要もある。たとえば、「遅れてしまってすみません」という簡単な挨拶文。遅れて教室に入ってきた学生が教師に遅刻をわびるにも、「すみません、私は遅く来ました」と、学生は「私」を言いたがる。話者が、聞き手との間に了解ずみだと感じていることがらは、出来る限り背景化して表面には出さないのが日本語であり、その際もっとも省略されやすい語が話者自身である「私」であるから、「我」をひとつひとつの文につけているのを直訳したのでは、日本語表現としては「私」という語がわずらわしく感じられる。誤用例と対照させることで、日本語文を具体的に検証し、日本語が主語を背景化し、状態の変化、事態の推移として自己の周囲の事象を表現しようとする言語であることを伝える日本語教育を実践していきたい。森田(1995)は、前書きで次のように述べている。

受身文なら受身文、使役表現なら使役表現という具合に、それぞれ別個の言語事項として課が立てられ、教育が行われる。それでは言語現象が細切れになり有機的な結びつきはおろか、同心円上に日本語能力を拡大していく視点も、日本語の底を支える共通の思考様式もつかめないまま、ただ個別に言葉の形式的なルールを記憶していくだけの無味乾燥な言語学習となってしまうであろう。(x)

 筆者が日本語教育を実践するにあたって、まず心がけていきたいと思っていることのひとつが、ここで森田が言っている、別個の言語事項としての文型教育においても、授業者は常に日本語の底を支える共通の思考様式を意識しつつ、学習項目の定着をはかるということである。


第3節 翻訳と日本語文読解指導

3.1 翻訳の問題点
翻訳しにくいと言われている日本語文が、どのように翻訳しにくいのか、ということを考察していくことは、すなわち、非日本語母語話者が、日本語学習の過程で「生教材」と呼ばれる日本語文章を読解していくときの、内容読み取りの困難な部分の考察と重なる。
 統語が問題になっている翻訳の例として、繰り返し言及されている川端康成の『雪国』と大江健三郎の『万延元年のフットボール』をあげておく。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。」は『雪国』の冒頭であるが、サイデンステッカー(Edward G. Seidensticker)は以下のように訳出している。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

 英語訳では、「汽車」が主語・表現主体になっている。主述によって文が成立する英語では、主体の「汽車」が「came out」という「行為」を行うと表現せざるをえない。
 サイデンステッカーの英語訳を日本語に再翻訳してみると、「その汽車は長いトンネルから出て雪国に入った。大地は、夜空の下に白く横たわっていた。その汽車は信号所で止まった。」となる。サイデンステッカー訳は、英語母語話者に、情景を感知せしめるためには、わかりやすい訳だと言える。しかし、原文の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という日本語文が表出する、汽車と、汽車の座席に座っている主人公島村のイメージと、島村を描写する作者の視線が渾然一体となる描写は、訳出困難である。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という描写において、母語話者の読者は、描かれざる主人公をイメージしている。それでは、なぜ、このような描写が可能になりこのような表現が好まれるのか、ということが問題になる。動作主を「ガ格」で示してある現象文「太郎が卵を食べた」も、「雪が降っている」も、「誰が食べたのか」「何が降っているのか」という質問に日本語学習者は答えられる。日本語能動文上に<動作主>が<ガ格>で示されていれば、日本語学習者にとって動作主を見つけることはそれほど難しいことではない。しかし、主題文になると、「大根は千切りにします」「餅はこんがりと焼きます」「傘は小さく折りたたむ」の類を誤解する場合もある。中間言語として「調理者が餅を焼く/大根を切る」「使用者が傘を折りたたむ」と、行為者明示と対象の取り立てを解説しないと誤解してしまう学習者もいる。<経験主><状態主>はどうか。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の「抜ける」の<主体>について、サイデンステッカーが「蒸気機関車」を<主語>として翻訳したことは、日本語母語話者の感覚によると、この文を読むと読者は視点人物と共に「汽車に乗ってトンネルを抜ける」という、トンネルの一方から一方へ移動する経験をしている。文の主人公は<経験主>として存在しているのだ。「抜ける」という動詞は、行為動作を表現しているのではなく、視点人物の「経験」を表し、トンネルの一方から一方へ移動するという経験のありかたを述べているのである。しかし、英語母語話者にとって、このような<経験主>を<主語>とするよりも、<動作主><行為者>を主語とした能動文が一般的な表現となるため、「I」を<主語>としてしまうと、「I」が実際の動作行為をしているように感じられてしまう。主人公の行動は、汽車に乗って外の景色を見るともなく見ながら座ってだけなので、<動作主>としての行動は「トンネルを抜けると雪国だった」中にはあらわれていない。そのためサイデンステッカーは蒸気機関車を主語とした能動文に訳したのである。
 大江健三郎の文体は、デビュー当時「翻訳文のような文体」と評されていた。フランス文学専攻の大江が、カミュ、サルトルらの文体から直接得たものを日本語文体にしていると。大江の代表作である『万延元年のフットボール』冒頭文では、「おちつかぬ気持ちで望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。」に見られるように「手さぐりは」という「ヒト以外のモノ」を題述文のトピックとしているが、こうした「モノ」を主語とする文は、本来の日本語的表現からはずれた表現だからである。「自覚が鋭い痛みに変わっていくのを(中略)意識が認める」なども同様である。また、関係代名詞節のような長い修飾語の多用などによっても、「翻訳調」とされてきた。しかし、翻訳と対照してみると、「翻訳調」と言われる文体もまた、日本語の特徴を如実に示していると思われる。

『万延元年のフットボール』[The Silent Cry]
<死者にみちびかれて>
夜明けまえの暗闇に目ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内蔵を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持ちで望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ。力をうしなった指を閉じる。そして、躰のあらゆる場所で、肉と骨のそれぞれの重みが区別して自覚され、しかもその自覚が鋭い痛みにかわってゆくのを、明るみにむかっていやいやながらあとずさりに進んでゆく意識が認める。そのような躰の部分において鋭く痛み、連続性を感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び引きうける。
“In Wake of the Dead”
  A wakening in the predawn darkness, I grope among the anguished remnants of dreams that linger in my consciousness, in search of some ardent sense of expectation. Seeking in the tremulous hope of finding eager expectancy reviving in the innermost recesses of my being unequivocally, with the impact of whisky setting one’s guts afire as it goes down - still I find  an endless nothing. I close fingers that have lost their power. And very where, in each part of my body, the several weights of flesh and bone are experienced independently, as sensations that resolve into a dull pain in my consciousness as it backs reluctantly into the light. With a   sense of resignation, I take upon me once move the heavy flesh, fully aching in every part and disintegrated though it is. I’ve been sleeping with arms and legs askew, in the posture of a  man reluctant to be reminded either of his nature or of the situation in which he finds himself. (1)

 日本語文では、冒頭7行目に至るまで「僕」という語り手の一人称は出てこない。英文訳では、1行目からI grope~と、一人称が明示される。日本語文では、「目ざめる」のはだれか、感覚をもとめるのはだれか、意識を手さぐりするのはだれか、ということを不問にしたまま文章は進む。7行目に至ってようやく「そのような、躰の各部分において鋭く痛み、連続性の感じられない重い肉体を、僕自身があきらめの感情において再び引きうける」と、「僕」が明示される。しかし、日本語母語者である読み手は、最初の文から、動詞動作行為は、語り手(僕)の視線が文章を運ばせ、小説内事態を推移させているのだと、わかって読んでいく。「翻訳調の文体」と感じさせながら、実は、まったく「日本語文」の特徴を生かした周到な文章なのである。
 この感覚、目ざめる間際の意識と無意識を行ったり来たりしながら、自分の肉体の存在を確認し、自分が自分であることに意識を向けていく感覚は、最初から明確に「わたし」を出してしまったのでは、伝えきれないものがある。7行目まで延々と、だれがこの文の主体なのかわからないまま、明示されていない主体とともに、読者の意識が、表出された混沌とした意識を、文脈をなぞっていく。
 英文翻訳したとき、日本語表現の何がこぼれ落ち、何が見えなくなるのか、その構造上のずれを比較考察することが、日本語言語文化の分析につながっていくのではないかと思う。非日本語母語話者が、何を理解すれば、作者の意図した表出を受容できるのか、探っていく作業は膨大なものとなるが、日本語教授者は常に学習者の誤解を予測しつつ読解作業を続けなければならない。松岡直美(1989)は、以下のように提案している。

 日本文学の作品を英訳する際の困難は日本語の文章において主語の省略や語りの視点が絶えず揺れ動くことなどからきている。しかし、こうした日本語の特徴は「意識の流れ」小説の文体に非常に近いものである。この点に注目して、日本文学の英訳に「意識の流れ」小説の技法を利用する(538-45)。

 このような、英語翻訳への考察視点を、日本語教育の「日本語文章読解」の現場で生かしていくことをめざしていきたい。
日本文学読解を日本語学習者と共に進めていくとき、英語翻訳などで文章の内容を知っている学習者にとって、英訳がかえって「日本語としての文体」を理解するために障壁となる場合もある。英訳にたよらず、日本語文章を日本語として理解していく上で、何をどう指導していけばよいのか。翻訳を考えることが、ひとつのポイントになるであろう。
 表現として表れた内容を「表出の場」として、表現主体と読み手が互いに了解したとき、対話が成立し、読解が可能になる。話し手と聞き手が直接顔を合わせる会話の場では、発話者と聞き手を互いに認知し合う。しかし、表現主体の書き手と離れた場で受容作業を行う読み手にとって表現内容はワンクッションを置いた離れた場での受容となる。受容者が表出主体の表現意図を理解しなくては、表出は読み手に届かない。言語活動が成立するには、どのような共通理解が必要であるか、発話者の「場」を受容するために、聞き手として何を受容すればよいのか、読み手は何を了解して呼んでいくのか、基本的なことから探っていく。日本語は「主体と客体が、述語に表された事態の推移の中にあって事態の推移を経験(受容)している」という表現であること、客体(対象語/目的語/客語)は主体と対立するものでなく、主体と融合して事態の推移の中にある場の表現であることを日本語学習者が理解するのは、上級者になっても難しい場合もある。翻訳文との対照をしながら、川端、大江などの文の理解について日本語文読解の事例を考察する。


3.2 日本語文読解と翻訳文との比較
個々の作家の文体を分析し、日本語の特性がどのように表現されているのか見ていく。一例として、川端康成の『骨拾い』の冒頭の統語がどのように構成されているか、直訳文と対照しながら、分析する。
 日本語中級上級学習者が理解できる範囲のものを想定し、まだ日本語理解が十分でない中級学習者が英訳文だけで理解した気になってしまうことを戒めつつ、日本語理解を補いながら読解していく作業の一例である。イスラエル国籍の学生(父は、イスラエル建国後イスラエル国籍になって移住したイギリス生まれのユダヤ人、母はイギリス人。成人するまで母親とともにイギリスで育った)に対して読解授業を実施した時の教材例をあげる。 この学生は、千葉大学大学院で「写真」について学ぶために国費留学生として来日した。文章を写真のフレーム内に表現してみるつもりで、絵に描きながら読解をしていった。テキスト「上級日本語読解」のあと、生教材1として、川端康成『骨拾い』、星新一『ボッコちゃん』『おーい、出てこい』、村上春樹『図書館奇譚』などの読解を続けた。まず、日本語文をそのまま読み、情景を写真のように目に浮かべA3の紙に描きながら読み進めていったのである。どうしても絵が描けないというときは、補助として翻訳文を与えた。

・谷には池が二つあった。
 存在文の理解。谷を話題の中心にしていることを、学習者に理解させるには、映像表現を援用し、最初にカメラレンズは谷を映し出し、そののちに池へズームインする映像であることを伝える。The valley has two ponds.と、There were two ponds in the valley. どちらの訳が自分の印象に近いか、言わせる。

・下の池は銀を溶かして湛えたように光っているのに、上の池はひっそり山陰を沈めて死のような緑が深い。
The pond below shines, as if it is filled with dissolved silver, but the pond above sinks in the shadow of the mountain quietly and reflects deep green like death.
 初級で習った「対比のハ―ハ構文」を思い出させる。上空からの俯瞰カメラ映像を想定させ、ふたつの池を対比させて、日の当たっている部分と山の陰になっている部分を同時に映像化させる。

・私は顔がねばねばする。
As for me, a face is sticky. My face feesl sticky.
 表現主体の意識の中心は「私」の表出にある。話題の焦点は「私」である。私が私の一部分である「顔」を意識して自分自身の感覚を表出したのが、「私は顔がねばねばする」であって、「私の顔がねばねばする」というのは、「私」が「私の顔」を客観視し、客体を観察した結果を「私の顔」を主体として表現することになる。「私の顔は泥だらけだった」などは、自分の顔を鏡に映すとか、人から指摘されたときに客観的に顔に泥が付いていることがわかったのちの、客観的表現である。自分の感覚を述べるなら「顔に泥が付いてしまった」など、「顔」を自分の一部として主体と一体となっている存在として表現する。

・振り返ると、踏み分けてきた草むらや笹には血が落ちている。その血のしずくが動き出しそうである。
As I look back, I see blood on grass and bamboo leaves. The blood drops seem ready to move.
 ここも、「私」の意識のなかに映し出されている光景であることを考えさせる。草むらや笹にある血を意識し、「動き出しそう」と、とらえている「私」の感覚をとらえる。

・また、なまあたたかく波打って鼻血が押し出てくる。私はあわてて三尺帯を鼻につめた。仰向けに寝た。
The warm blood gushed out again from the nose. I hurriedly stuffed the nose with a waistband. I lied on my back.
 ここで、「私」の行為・動作が出てくる。「鼻に三尺帯をつめる」は、自分の動作が自分自身の身体に向けられており、他者に行為が向かう他動詞文とは異なる。「仰向けに寝る」は自動詞文。

・日光は直射しないが、日光を受けた緑の裏がまぶしい。
The sunlight does not come through directly, but even the back of green leaves are dazzlingly bright because of the sunlight.
 「まぶしい」と感じている主体は「私」であるが、この「私」は、「まぶしい」という感覚が発露する「場」である。


3.3 読解指導の要点
 文章を視覚化しつつ読解するという方法が、どの日本語学習者にもうまくいくとは限らないが、「私」という認識主体が文の表面に表れないこのような文において、絵に描いてみると、山道に「私」が存在していること、「まぶしい」と感じる認識主体が、存在していることがよくわかる。そこにいても、日本語文では「私」を言語化しないほうが自然な表現であることをわかると、この後の読解は順調にすすみ、日本語文を日本語文としてそのまま理解させることができた。
 読解の最初は翻訳や中間言語化による内容理解を行うのも、ひとつの方法である。しかし、日本語学習の上級者ともなっていれば、日本語を日本語のまま理解していくために、ひとつひとつの「わからない」点を読みとっていく作業が必要になる。日本語表現の基本をしっかり押さえておくことが、内容の読みとりにもつながるのである。



第3章まとめ
 以上、実践例に基づいて日本語教育において<主体>、<主体性>について、日本語学習者にとって躓きとなる、自動詞他動詞の<主語>の誤用、授受動詞文の<主語>と<受益者>の誤用を見た。また、表現主体の視点がどのように表示されているかを理解することにより、明示されていない<主体>をわからせるための指導法について述べた。
 日本語学習者は、日本語の表現方法を学ばせることにより、誤解しがちな自動詞文他動詞文の主語、授受表現も理解できるようになる。読解において翻訳を補助的に用いることを否定するものではないが、「場面を絵に描いてみる」などの方法を用いることによって、日本語表現をそのまま受容することも容易になる。日本語を日本語として理解し味わうことは、日本語を母語としない者にとっても可能なことであると、日本語教育を通して主張することができる。
 「はじめに」で示した日本語教育における問題点を3点指摘した。
(1) 日本語教育テキストなどへの文法記述がまだ十分とはいえない。
(2) 日本語教師による授業で、最新の文法記述を生かした指導が成功していない場合も多い。
(3)学習者の母語干渉の強弱が、母語ごとにどのように学習困難点をもたらすのか
(1)と(3)の2点について、研究はまだ不十分だと言わざるを得ない。今後の日本語教育の進展に待たねばならない。しかし、(2)の問題点においては、教師それぞれの指導力によって学習者の読解力を十分に伸ばしていくことのできる文法指導が可能であるとの確信を得た。
筆者は、2011年に中国で発行される日本語教科書『南京大学 日本語会話』、『東北師範大学 新概念日本語中級読解』の執筆者として会話スクリプトと読解本文を担当したが、今後は、1)2)の面でも日本語教育に貢献できる道をさぐることがの課題となる。これからの日本語教育に、文法研究言語文化研究の成果を反映していきたい。

参照文献一覧

2010-02-07 19:09:00 | 日記
<参照文献一覧>

青木保(1999)『日本文化論の変容』中公文庫
アーレント Arendt, Hannah(1981)『全体主義の起原』新装版(原著1951)大島通義、
 大島かおり(訳)みすず書房
赤川次郎(1998)『本は楽しい 僕の自伝的読書ノート』岩波書店
芥川龍之介(1968)『羅生門・鼻(いもがゆ)』新潮文庫
浅利誠(1981)『日本語と日本思想』藤原書店
阿部謹也(1995)『「世間」とは何か』講談社現代新書
------------(2006)『近代化と世間』朝日新書
阿部一(1995)『日本空間の誕生』せりか書房
天野みどり(1987a)「日本語文における再帰性について」『日本語と日本文学7』
--------------(1987b)「状態変化主体の他動詞文」『国語学151』
--------------(1991)「経験的間接関与表現」『日本語のヴォイスと他動性』くろしお出版
荒木博之(1973)『日本人の行動様式』講談社現代新書
------------(1985)『やまとことばの人類学-日本語から日本人を考える』朝日新書
------------(1994)『日本語が見えると英語も見える』中公新書

池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館書店
------------(1982)「表現構造の比較-<スル>的な言語と<ナル>的な言語」
『日英語比較講座 第4巻発想と表現』 大修館書店
------------(1993)『言語・思考・現実』講談社
------------(2006)『英語の感覚・日本語の感覚』日本放送出版協会
------------(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫
池島信平(1977)『雑誌記者』中公文庫
伊藤整(1981)『近代日本人の発想の諸形式』岩波文庫
伊藤真紀子(2008)「シンガポールの英語」『東京外語会会報2008//02/01発行』
伊藤左千夫(1955)『野菊の墓』新潮文庫
井上ひさし(1974)『青葉茂れる』文春文庫
--------------(1984)『私家版日本語文法』新潮文庫
--------------(1992)『ニホン語日記』文藝春秋
--------------(1994)『ニホン語日記2』文藝春秋
--------------(2007)『夢の痂』集英社
井上靖(1975)『後白河院』新潮文庫
井上靖(1957)『風林火山』新潮文庫
井上鋭夫(1975)『信長と秀吉』日本の歴史文庫
井伏鱒二(1970)『黒い雨』新潮文庫
稲村すみ代(1995a)「再帰構文について」『東京外国語大学日本語学科年報第16 号』
---------------(1995b)「現代日本語における再帰構文」『日本語の教育と研究(窪田冨男
 教授退官記念論文集)』(専門教育出版)
イリガライIrigaray, Luce(1987)『ひとつではない女の性』棚沢直子、中嶋公子、小野ゆり子(訳)勁草書房
岩佐茂(1990)「主体性論争の批判的検討」一橋大学研究年報. 人文科学研究, 28: 177-227)
岩波講座(1995)『自我・主体・アイデンティティ』岩波書店
岩波講座(1995)『他者・関係・コミュニケーション』岩波書店

梅原猛(1988)『地獄の思想』中公文庫
ウエーバーWeber, Max (1972)『社会学の基礎概念』阿閉吉男、内藤莞爾(訳)恒星社厚生閣
ウォーフ Whorf, Benjamin Lee(1993)『言語・思考・現実』池上嘉彦(訳)講談社 
宇津木愛子(2005)『日本語の中の私』創元社

遠藤周作(1971)『海と毒薬』新潮文庫

大出晁(1965)『日本語と論理』講談社
大江健三郎(1969)『万延元年のフットボール』講談社
大澤真幸(1994)『意味と他者性』書房
大曽美恵子(1983)「授動詞文とニ名詞句」『日本語教育50』
大槻文彦(1980)『広日本文典・同別記』勉誠社(『廣日本文典』1897)
大原始子(2002)『シンガポールの言葉と社会』三元社
奥田靖雄(1984)『ことばの研究・序説』むぎ書房
奥津敬一郎(1983)「授受表現の対照研究」『日本語学2-4』
---------------(1986)「やりもらい動詞」『国文学解釈と研究51-1』
奥野健男(1967)『太宰治集』解説 集英社

片山きよみ(2003)「他動詞の再帰的用法について」『熊本大学言語学研究室紀要』
加藤周一(1976)『日本人とは何か』講談社学術文庫
金谷武洋(2002)『日本語に主語はいらない』 講談社
------------(2003)『日本文法の謎を解く』 ちくま新書
神谷忠孝・安藤宏編(1995)『太宰治全作品研究辞典』勉誠社
柄谷行人(1994)『探求Ⅱ』講談社学術文庫
カラーCuller, Jonathan D. (2003)『文学理論』荒木映子、富山太佳夫(訳)岩波書店
川端康成(1952)『骨拾い―掌編小説第一話』(新潮社)
------------(2003)『雪国』岩波文庫改版(岩波文庫1948より)

北原保雄(1981a)『日本語の世界6日本語の文法』中央公論社
------------(2005)「主観的な文章-「富嶽百景」の場合」『達人の日本語』文春文庫
木下順二(1982)『夕鶴』岩波文庫
ギデンズ Giddens, Anthony(1986)『社会理論の現代像』宮島喬ほか(訳) みすず書房)
ギデンズ、 ベックBeck, Ulrich、ラッシュ Lash, Scott(1997)『再帰的近代化―近現代における政治、伝統』松尾精文、小幡正敏、叶堂隆三(訳)而立書房 
ギブソン Gibson, James Jerome(1989)『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』古崎敬(訳) サイエンス社
ギリガン Gilligan, Carol((1986)『もうひとつの声』生田久美子、並木美智子翻(訳)
 川島書店

工藤浩 (1989)「現代日本語の文の叙法性 序章」『東京外国語大学論集39』東京外国語
大学
----------(2000)「副詞と 文の陳述的なタイプ」『日本語の文法 3 モダリティ』岩波書店161-243
-----------(2005)「文の機能と 叙法性」『国語と国文学82巻8号』
工藤真由美(1995)『アスペクト・テンス体系とテクスト』ひつじ書房
久野(1973)『日本文法研究』大修館書店
---------(1978)『談話の文法』大修館書店
紅林伸幸(1989)「<主体性>概念の検討 : 行為の「主観性」と「独立性」をめぐって」 『東京大学教育学部紀要. 28巻, 263-71』

言語学研究会(1983)『日本語文法・連語論(資料編)』むぎ書房
------------------(1984~2006)『ことばの科学1~11巻』むぎ書房

幸田文(1957)『流れる』新潮文庫
児玉美知子(1995)「状態変化主体他動詞文の成立と構造」『甲子園短大紀要9』
小林多喜二(1953)『蟹工船』新潮文庫
小林典子(1996)「相対自動詞による結果・状態の上限:日本語学習者の習得状況」
『文藝言語研究言語篇29』151-65
小柳昇(2009)「<所有>の意味概念をもつ他動詞文の分析-所有他動詞という動詞クラスの存在とその他動詞文の生成プロセス」拓殖大学大学院修士論文

酒井直樹(1996)『死産される日本語・日本人』新曜社
------------(2007)『日本思想という問題』岩波書店
佐佐木幸綱(2007)『万葉集の<われ>』角川選書
佐治圭三(1973)「題述文と存現文―主語・主格・主題・叙述(部)などに関して―」
 『大阪外国語大学学報29』
佐藤琢三(2007)『自動詞文と他動詞文の意味論』笠間書店
サピアSapir, Edward、ウォーフWhorf, Benjamin Lee(1995)『文化人類学と言語学』
 池上嘉彦(訳)弘文堂

シクスーCixous, Hélène(1993)『メデューサの笑い』松本伊瑳子、 藤倉恵子、 国領苑子
(訳)紀伊國屋書店
柴谷方良(1978)『日本語の分析』大修館書店
島崎藤村(1954)『破戒』新潮文庫
白川博之(2002)「記述的研究と日本語教育―語学的研究の必要性と可能性」
『日本語文法2巻2号』

須賀敦子(1998)『ヴェネツィアの宿』文春文庫
鈴木孝夫(1990)『日本語と外国語』岩波新書
------------(1973)『ことばと文化』岩波新書
鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』くろしお出版
------------(1992)「主語論をめぐって」『ことばの科学5』73-108むぎ書房
須田義治(2007)「言語学的なナラトロジーのために」『国文学解釈と研究72-1号』
 至文堂

高橋太郎(1994)『動詞の研究』むぎ書房
高橋和巳(1993)『邪宗門』朝日文芸文庫
高島元洋(2000)『日本人の感情』ぺりかん社
竹林一志(2004)『現代日本語における主部の本質と諸相』くろしお出版
------------(2007b)『「を」「に」の謎を解く』笠間書房
------------(2008)『日本語における文の原理』くろしお出版
太宰治(1968)『富嶽百景・走れメロス』岩波文庫
----------(1954)『走れメロス』新潮文庫  
---------(1999)『富士に就いて』(太宰治全集11)筑摩書房
丹保健一(1989)「提題論の奇蹟:松下から佐治までを中心に」『三重大学教育学部研究
 紀要第40巻人文社会科学』11-30

中右実(2007)「主観的モダリティ二層構造論」(日本言語学会第134回大会(2007)公開講演要旨)
----------(1979)「モダリティと命題」『英語と日本語と・林栄一教授還暦記念論文集』223-50,くろしお出版.
千葉敦子(1987)『乳がんなんかに負けられない』文春文庫

月本洋(2009)『日本語は論理的である』講談社
津島美知子(1998)『増補版回想の太宰治』人文書院
角田太作(1991)『世界の言語と日本語』くろしお出版
坪本篤郎編(2009)『「内」と「外」の言語学』開拓社
壺井栄(1957)『二十四の瞳』新潮文庫
鶴谷憲三(1994)『Spirit太宰治作家と作品』有精社

寺村秀夫(1982・1984)『日本語のシンタクスと意味Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』くろしお出版

時枝誠記(2007)『国語学原論上下』岩波文庫
------------(1954)『日本文法文語篇』岩波全書
------------(1959)『日本文法口語篇』岩波全書
豊田豊子(1974)「補助動詞・やる・くれる・もらうについて」『日本語学校論集1』
東京書籍(1990)『新しい国語二』東京書籍
---------『新しい国語三』東京書籍
夏樹静子(1984)『Wの悲劇』角川文庫
中島文雄(1987)『日本語の構造』岩波新書
中根千枝(1967)『タテ社会の人間関係』講談社現代新書
夏目漱石(1967)『夏目漱石集二(こころ)』集英社
------------(1990)『行人』岩波文庫
------------(1970)『明暗』新潮文庫

日本古典文学体系(1955)『古事記 祝詞』岩波書店
------------------------(1959)『万葉集』岩波書店

西田幾多郎(1950)『善の研究』岩波文庫
仁田義雄(1991)『日本語のモダリティと人称』ひつじ書房
仁田義雄編(1991)『日本語のヴォイスと他動性』くろしお出版

野上弥生子(1969)『秀吉と利休』新潮文庫
野田尚史(2004)「見えない主語を捉える」『言語33-2』24-31,大修館書店2004年2月

芳賀綏(2004)『日本人らしさの構造』大修館書店
橋本進吉(1946)『国語学概論』岩波書店
------------(1948)『改制新文典別記 口語篇』「修飾語」冨山房
林芙美子(1979)『放浪記』新潮文庫
------------(1953)『浮雲』新潮文庫
早津恵美子(1987)「対応する他動詞のある自動詞の意味的・統語的特徴」『言語学研究6号』京都大学言語学研究会
バンヴェニストBenveniste, Émile(2007)『一般言語学の諸問題』(1966原著)岸本通夫、
 河村正夫、木下光一、高塚洋太郎(訳)みずず書房

廣瀬幸生・長谷川葉子(2010)『日本語から見た日本人・主体性の言語学』開拓社

フーコーFoucault, Michel(2004)『主体の解釈学』フーコー講義修正11コレージュ・ド・フランス講義1981-1982 廣瀬浩司、原和之(訳)筑摩書房
富士谷成章全集上(1961)竹岡正夫(校注)風間書房718-20
藤野寛(2006)「主体性という理念とその限界」『高崎経済大学論集第48巻台3号』203-11

ベイトソンBateson, Gregory (2000)『精神の生態学』佐藤良明(訳)新思索社

堀口純子(1983)「授受表現にかかわる誤りの分析」『日本語教育52』
本多啓(2003c)「認知意味論における概念化の主体の位置づけについて」日本認知学会
 第4回大会発表レジュメConference Handbook 75-78
---------(2005)『アフォーダンスの認知意味論―生態心理学から見た文法現象』東京大学出版会
----------(2009)「他者理解における「内」と「外」」『「内」と「外」の言語学』開拓社

前田尚作(2006)『日本文学英訳分析セミナー』昭和堂
益岡隆志(1987)『命題の文法』くろしお出版
-----------(1991)『モダリティの文法』くろしお出版
真木悠介(1993)『自我の起源』岩波書店
松岡直美(1989)Japanese-English Translations and the Stream of Consciousness ReviewVol.19, No.1-4 538-45
松下大三郎(1996)『改撰標準日本文法』勉誠社(原著1928)
松本克己(2006)『世界言語への視座』三省堂
------------(2007)『世界言語のなかの日本語』三省堂
松本伊瑳(2003)「主体、性(ジェンダー)、文化」名古屋大学大学院国際言語文化研究科
『言語文化論集』第XXV
丸谷才一(1977)『彼方へ』集英社文庫

三浦つとむ(1976)『日本語はどういう言語か』講談社学術文庫
三尾砂(2003)『三尾砂著作集Ⅱ』ひつじ書房(『話しことばの文法』法政大学出版局1958より)
三上章(1963)『日本語の論理 ハとガ』くろしお出版
---------(1960)『象は鼻が長い』くろしお出版
---------(1972)『続現代語法序説』くろしお出版 
---------(1975)『三上章論文集』くろしお出版
---------(1999)『現代語法序説―シンタクスの試み』くろしお出版(刀江書院1953より)
南不二男(1974)『現代日本語の構造』大修館書店
------------(1993)『現代日本語文法の輪郭』大修館書店
三原健一(1994)『日本語の統語構造 成文法理論とその応用』松柏社)
宮地裕(1965)「やる・くれる・もらうを述語とする文の構造について」『国語学63』
三好徹(1984)『夜の仮面』徳間文庫
宮島達夫(1972)『動詞の意味・用法の記述的研究』秀英出版

向田邦子(1988)『向田邦子TV作品集』大和書房
村上三寿(1986)「やりもらい構造の文」『教育国語84』
村木新次郎(1991)『日本語動詞の諸相』ひつじ書房

森鴎外(1948)『雁』新潮文庫
森川寛(2009-09-25)http://sckobe.exblog.jp/12002144/
本居春庭(1996)『詞八衢』勉誠社文庫(原著1822文化5)
------------(1977)『詞通路』勉誠社文庫(原著1829文政12)
森田良行(1990)『日本語学と日本語教育』凡人社
------------(1998)『日本人の発想、日本語の表現』中公新書
------------(2006)『話者の視点が作る日本語』ひつじ書房
森山卓郎(1988)『日本語動詞述語文の研究』明示書院
------------(2002)『表現を味わうための日本語文法』
森村誠一(1991)『空洞星雲』講談社文庫

山口明穂(1989)『国語の論理』東京大学出版会
山路平四郎(1977)『記紀歌謡評釈』東京堂出版
山本七平(1983)『「空気」の研究』文春文庫 
------------(1992)『幸福と科学の間(『文芸春秋』1992年1月号)』文藝春秋社

吉行淳之介(1978)『美少女』新潮文庫
吉田一彦(2000)「日本語の非明示的主語に関する一考察」東京外国語大学修士論文
URL: http://www.geocities.com/kunetti

ライアンズLyons, John(1987)『言語と言語学』近藤達夫(訳)岩波書店
ラガナ Lagana, Domenico(1975)『日本語とわたし』文藝春秋
ラネカーLangacker, Ronald W. (1994)『言語と構造』牧野成一(訳)大修館書店
---------------------------------------(1994)『はじめての言語学』井上信行(訳)泰文堂

ロドリゲスRodrigues, João Tçuzu(1993)『日本小文典 上下』池上岑夫(訳)岩波文庫
----------------(1995)『日本大文典』土井忠生(訳)三省堂

渡辺実(1971)『国語構文論』塙書房
---------(1996)『日本語概説』岩波書店

Oe, Kenzaburo.(1974)The Silent Cry. Translator: O. Bester. Kodansha International Ltd.
Kawabata,Yasunari.(1957)Snow Country. Translator: Edward Seidensticker.(Unesco Translatins of Contemporary Works)Charles E. Tuttle Company.
------------------------(2006)“Picking up the Bone.” Palm of the Hand Stories. Translator: L.
Dunlop and J.M. Holman.
Hall, Donald E. (2004)Subjectivity. New York: Routledge.
Lyons, John(1982)“Deixis and Subjectivity: ‘Loquor, ergo sum?’”, in R. J. Jarvella & W. Klein
(eds.) Speech, Place, and Action. John Wiley & Sons.
Langacker, Ronald W. (1987)Foundations of Cognitive Grammar: Theoretical Prerequisites.
Stanford: Stanford UP.
------------------------(1991)Foundations of Cognitive Grammar: Theoretical Prerequisites. Vol. II.
Stanford: Stanford UP.
McGloin, Naomi Hanaoka.(1989) A Student's Guide to Japanese Grammar. Tokyo: Taishukan Publishing Company