外に出ると、やさしく夜風が頬をなでるように吹きつけた。
もう凍えるような寒さではない。
冬は少しずつ終わりに近づいている。
僕は足首を回し、軽く準備運動をして、走り出した。
顔を上げて、夜空を眺める。曇っていて、月は見えない。ほんのり赤のまじった黒い空が広がっていた。
しばらくゆっくりとしたペースで走った。体がほぐれてきた頃、闇の中から、ふわっと甘い香りが漂ってきた。
僕は立ち止まり、まわりを見渡す。
そこに白い梅の花を見つけた。
梅の木に近寄り、梅の花をながめた。僕は春のはじまりを知らせる梅の花に、いつも心を奪われてしまう。
梅の花は、桜にくらべ派手さはない。しかし、寒さの中で可憐で健気に咲いている。
そして、なにより可愛らしい。
僕は、桜より梅の花が好きだ。女性の好みもそれに似ているかもしれない。
春の夜の闇は あやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは 隠るる
古今和歌集の梅の花の和歌だ。
現代語訳すると、「春の夜の闇は、わけがわからない。梅の花の色は見えないが、その香りは隠すことができない」
和歌において、桜と梅の扱いは、かなり違う。
桜は花を見て、その散る姿を読む。しかし、梅の花は香りを味わい、その嗅覚をたどり、歌を読む。
僕は太い枝に指を添えて、梅の花に鼻先をつけてみる。
やわらかく甘い香りが、風とともに流れてくる。
甘い香りの余韻に浸りながら、何故かわからないが、胸が締め付けられるような気持ちになる。
僕はその気持ちを振り切るように、また走り出した。