芸人の河本準一の母親の生活保護受給に関することが話題になっている。
たくさん稼いでいるのに、親の扶養をしないというズルさが、国民の感情を逆なでする。
日本の財政に与える影響はどの程度かは別として、ムカつく問題であることにはかわりはない。
この生保の問題はちょっと複雑で、生活保護を受けたほうがいい人が受けていないケースと、受ける必要がないのに受けているケースを分けて考えなければならない。
しかし、河本氏が叩かれるのを見て、本当は受けたほうがいい人が受給をやめるかもしれない。逆に、あんな裕福な状態で受けているのだから、私もと考える人もいるかもしれない。
だから、生保受給の審査という点では、両者は分けて考えられない問題なのである。
行政側からすれば、審査を厳しくすればかわいそうだと叩かれ、審査を緩めれば不正受給の問題で叩かれることになる。厄介な問題である。
私は、すぐには無理かもしれないが、いずれ年金、失業保険、生活保護などすべて一元化して、ベーシックインカムを導入したらどうかと思っている。
これから製造業のみならずサービス業の分野でも、どんどん機械化が進んでいく。そうすれば人手が要らなくなり、雇用が減ることは目に見えている。
それを悪いことと考える向きがあるが、よく考えればいいことなのである。
なぜなら、働かなくても機械がなんでもやってくれるわけだから。
しかし、そうすると働かない人は収入を得る方法がなくなってくる。
今、生活保護が増えていることも、不景気なのか科学の発達ゆえの現象なのかよく見極めなければならない。
もし、機械化の影響なら、仕事が無く収入の道が絶たれたのは、その人たちの能力のせいではない。
そうであれば何らかの手当をすること自体、別に問題ないだろう。
そこに審査という手続きがあるから、変な問題になるのだ。すべての国民に一律いくらかの金額を払い、最低限の生活を保障しようというのが、ベーシックインカムの発想である。
働きたい人はどんどん稼いでもらって金持ちになればいい。働きたく人は、死なない程度の保障をして、貧乏に生活すればいい。
「貧乏な貴族、金持ちの奴隷」とは、このことである。
技術の進歩が進めば進むほど、雇用の問題が顕在化してくる。
資本はやすい労働力を求めて世界中を駆け巡る。しかし、それが機械より安い場合である。機械でやるコストが安くなれば、必ず機械化される。そうすれば人間の労働力は不要となるのである。
そうなってから、世界中がベーシックインカムに注目ことになるだろう。
真保裕一氏の山岳短編小説である。この小説を読むのは二回目。
3話ある。「黒部の羆」 「灰色の北壁」 「雪の慰霊碑」 である。
それぞれに味わいのある内容で、レベルが高い。
個人的には「黒部の羆」が好きである。
「黒部の羆」はプロットが巧妙に作られていて、えっ、と思わず声を出してしまうような構成がなされている。そのようなあっと驚く内容が好きな人は、特に面白く感じるだろう。
ただ、私が好きなのはその部分ではない。私が好きなのは、男っぽく熱い部分だ。
まったく内容は違うが、この小説は真保氏のホワイトアウトに通じるものがある。人間の強さと弱さの陰影がうまく表現されている。
弱さとは自己愛を満たそうとする人間のずるい部分であり、強さとは自分の命すら顧みない勇気と自己犠牲の精神である。
私たちの遺伝子には、その両方がインプットされている。人間の弱さを描くことで物語のリアリティを、強さを描くことで人間の素晴らしさを表現する。
「黒部の羆」を読むと、いつも胸が熱くなってほろっとしてしまう。
「灰色の北壁」は、ヒマラヤ山脈のスール・ベーラの北壁に挑む登山家を描いている。
命をかけて危険に挑む人間の勇気とそれに伴う名声、そしてその名声に対するあこがれと嫉妬。そのような自然と人間、また人間同士の葛藤がうまく描かれている。
しかし、最後は、熱い友情に満たされる。
「雪の慰霊碑」は、雪山で息子をなくした父の追悼の物語である。
息子を山でなくし、妻も病気で先立たれ、孤独な男が息子が遭難した山に登る。
生きること、愛する人を失った喪失感について、考えさせられてしまう。
真保氏は、人間の強さ弱さをよく知っている。そして、その上で人間を肯定する熱い小説家である。いずれ他の小説も読んでみたい。