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フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

ある本をまとめた記事について

2013年06月17日 08時45分38秒 | 読書・書籍

 「悩んだときは哲学者に聞け!」小川仁志著という本をまとめた記事があった。
 なるほどというところがいくつかあったのでアップしてみる。

・人生に意味を求めなければ強い心で生きられる

・身体をいたわってあげることが、心をスッキリさせる方法になる

・消費による心の満足は悪いことではない

・主体的な決断をすれば、不安は解消され、必ず絶望は乗り越えられる

・恋愛がうまくいかないのは当たり前だと思うとラクになる

・説得ではなく合意を目指すことで他者とわかり合える

・幸せになろうと願って行動をおこせば、幸福がつくられる

・与えられた状況に積極的にかかわっていくことで、人生の目標が生まれる

・人間に与えられた時間には限りがあることを意識すると頑張れる

・欲望は新しい世界を切り開くための武器になる

・何でも経験してみることが、人生に深みをもたらす

・知識はものを考えるための道具。「役立たせよう」と思うことが大事

・成長したいと強く願うことが、成長へのエネルギーとなる

・あらゆるものはシステムとして考えることでシンプルになる

 私もいくつか加えてみよう。

・心(意識、無意識)は身体の一部もしくは現象である。身体の動きや働きを観察することで心をよみとる。
・やる気の無い時は、目の前のちいさいことに集中してリズムを作る。
・人生に意味は無い。ただ、野垂れ死にがあるだけだ。それを意識したときから本当に生きはじめる。

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男性不信 池松江美著

2013年06月13日 08時59分13秒 | 読書・書籍

 池波江美とは、辛酸なめ子さんの本名である。漫画は辛酸なめ子で、小説は本名で書くらしい。
 「男性不信」
は自伝的小説である。この小説を読むと、あの辛酸なめ子さんの独特な世界観はこのように作られていったのだなぁと深く理解できる。
 
 世の中の男は女性を美醜で判断する。可愛い子は得をしブスな子は損をする社会。
 可愛くなかった辛酸なめ子さん(個人的にはそうは思わないが)は子供の頃から傷つけられ、男を憎むようになる。
このように書くとちょっときつくなるが、実はそうでもない。
 
 ちょっと小説の中の文章を引用してみよう。

 男にいやらしい気持ちを抱かせないよう、スキを見せないよう、私は常に細心の注意を払っています。私の心の中のドグマの一部をご紹介しましょう。
一、男と視線を三秒以上合わせないようにする。
一、寝顔はぜったい見せない。電車の中で眠い時は額に手を当てて隠す。
一、男の視線を感じたら、体をポリポリ掻いたり、顔をしかめたり、萎えさせる動作をする。
一、セクハラされる前に、怒涛の下ネタで相手を引かせる。
一、有名人の男に対しては警戒を200%に強める。
  
 なんて変な女なのだろうか。読みながら笑いっぱなしだった。
 そして、この笑いはなんなのかちょっと考えてみた。
 たぶん、男との距離のとり方のドタバタに思わず笑ってしまうのだろう。この微妙な距離感は、彼女が男嫌いであると同時に男好きだからである。だから、くっついたり離れたり絶妙な距離の保ち方をする。そして、男は彼女のような女性を可愛いと思ってしまう。それもある種の計算である。
 もし彼女が男にまったく興味のないレズなら、男はうっとうしいの一言で終わるだろう。

 彼女の表現の天才的なところは、男女間の微妙な性的心理をユーモアをもって描けるところである。もし性的対象とされる女性側の恨みを磨き上げ、男性の喉元にきつける表現なら、ほとんどの男性はそれに震え上がってしまうだろう。
 この小説は、男性社会のいやらしい部分とそれに翻弄される女性の不条理をズバッと突いているのである。
 最近話題になったいくつかの社会的問題は、女性の社会的立場についての問題が多い。例えば、売春、柔道のセクハラ問題、子育てと仕事の両立などである。
 このような女性を抑圧する問題は、なかなか解決しない。社会の構造自体が女性を抑圧するのか、女性の個別的な生物的・身体的特徴が要因となって抑圧的社会を作るのか、その視点の違いで問題の捉え方が変わってくる。
 社会構造は変えられるが、女性の性は変えられない。だから、女性の本質的な部分を抜きに、こうあるべきとの社会構造を考えても無意味だと個人的には考えている。
 これは非常に古くてかつ解決しなければならない新しい問題である。
 
 私も若いころは女性の社会的立場の弱さなんか考えたこともなかった。しかし、最近は多少は理解できるようになった。
 問題の解決には、まずは男女間に違いがあることを認識しなければならない。その性差がどのような問題を引き起こしているのか想像力を働かせることである。
 そもそも問題の認識がなければ、解決はありえない。
 
 女性と男性の性差を意識するためにも、この小説は読む価値のある本である。また、女性心理を深く研究することができる。そして、これが一番だが、腹を抱えて笑うこともできる。

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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 村上春樹著」 を今読み終わった

2013年04月13日 00時02分55秒 | 読書・書籍

 私にも、もちろん中学・高校時代があった。辛いこともあったが、おおむね幸せな学生時代だったと思う。バカども達と騒ぎ、笑い、ちょっと切ない恋もした。そんな純粋な友情を育むことができるのも、若いうちだけである。若さゆえの純粋さがそうさせるのだろうし、また親たちの経済的援助おかげでとりあえず生きるための戦いをしなくてもよかったからだろう。
 私にも、親しい友人が何人かいる。しかし、ほとんど会うことはない。それは、いま自分自身が生き延びていくのに必死だからである。そして、友人たちも必死に戦っている。会わなくてもわかる。それが親友というものだ。そして、今、彼らのことを考えている。それだけでもこの本を読む価値はあったと思う。

 ここに折り目のないまっさらな折り紙がある。それを間違って折ってしまった。その折り目はもう消えない。例えば、あらかじめ鶴の折り方がわかっているのなら、その通り慎重に折ればいい。しかし、誰も折り方を教えてくれない。出来上がった鶴を見ながら、なんとか真似て折るしかない。それは、間違えるに決まっている。傷は残る。
 人生も同じようなものである。手探りで進むしかない。だから、必ず間違える。自分で間違え傷つくこともあるし、他人の間違いで傷つけられることもある。
 しかし、何回間違えても、いくら傷がついても、鶴は完成できる。諦めなければ。
 
 村上春樹の今回の新作は、復活の物語である。高校時代の親友たちに、突然理由もわからず仲間はずれにされた主人公が、36歳になってその理由を探っていく話である。
 友人たちも皆、それなりの成功・挫折があり、それなりの傷を負っている。そして、生きるために必死だ。15年以上会っていないにもかかわらず、ちょっと話しただけで、お互いを理解し合う。その言葉にならない無言の連帯が主人公の心を温める。
 
 物語の登場人物だけでなく、私たちだって、人生の中で忘れることにのできない傷を負わされることもある。戦いは勝つこともあるし負けることもある。死にたくなるほどの絶望もある。
 しかし、そこに一本のすがるべき藁があったら、人間は戦えるものだ。その藁を見つけられれば。

 なんとなく中島みゆきの歌を思い出した。
 ファイト、戦う君の唄を戦わない奴が笑うだろう
 ファイト、冷たい水の中を震えながらのぼってゆけ

 人によっては恋愛小説のように読むかもしれないし、ミステリーとして読むかもしれない。どちらにしても面白かった。アマゾンのレビューで酷評している人の意味がわからない。とにかくおすすめする。

 PS 小説の中に地元の新潟の三条市が出てきてびっくりした。ちょっとだけどね。


 

 

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最近、東野圭吾の小説にハマっている

2013年03月21日 08時40分36秒 | 読書・書籍

 最近、東野圭吾にはまっていて、かなりの冊数を読んでいる。昨日は「白夜行」を読み終わった。

 以前は、さらっとして読みやすい小説だなぁくらいにしか思っていなかった。しかし、自分が文章を書き、その読みやすさを学ぼうという観点から読み始めたら、この人の文章はちょっとすごいなぁと思うようになった。ワンパラグラフのみならずワンセンテンスの中にも、人の興味を引くような工夫がされている。
 さらっと読めるというのは、「読める」のではなく、作家の技術によって読まされているのだ。

 ただ、作品が全体的に暗い感じもする。それはミステリーの特徴なのだろう。というのも、人物の謎は、善よりも悪に起因する場合が多いからだ。
 私たちは、自分をできるだけ良い人間に見せたいと思っている。だから、良い部分は全面に出てくる。
 しかし、悪い部分は隠される。隠された部分は謎になる。その謎を追うのがミステリーの本質だからだ。

 私は、昔から人の謎の部分をあまり知りたいと思わないタイプだった。それは人の悪い部分を知るのが怖いのだろう。それは自分の心の弱さだと思っている。
 本当の愛とは、善悪を超えてその人を愛せるかという問題である。
 正しいこと悪いことをついついジャッジしてしまう人間には、なかなか難しい道である。
 たとえ、そいつが反吐が出るような人間だとしても、それでもその人を深く愛してしまった、そのことを皆に共感できるように描き切れたら、その小説は大成功だろう。愛を描くとは、肥溜めの中から綺麗な真水を取り出すような作業なのだ。
 そして、現実に人を愛することは、もっと難しい。
 

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グロテスク 桐野夏生

2012年11月02日 18時15分40秒 | 読書・書籍

 最近、ブログの更新が少なくなった。書くより読むほうが忙しいからだ。だいたい一日一冊くらいのペースで本を読んでいる。冬ごもりの熊のように文字をむしゃむしゃ食べている。
 
 ところで、小説にはいろいろなジャンルがある。
 くだらない小説を読むと時間がもったいないので読む小説を選ぶときは、一応、ジャンルを意識して選ぶ。だいたい好きなジャンルが決まっているからである。
 しかし、ジャンルに関係なく、私は読み終わった小説を大きく3つに振り分ける。
 
 「面白い小説」、「いい小説」、「それ以外」
 
 面白い小説は、夢中になって読み始め一気に読み終わるような娯楽性の高い小説である。面白い小説に出会うと嬉しくなる。
 
 いい小説については、少し説明が必要だろう。端的に言えば、自分の固定観念をぶち壊し、今までの物の見方をガラリと変えてしまうような小説である。それが面白い場合もあるし、面白く無い場合もある。
 物の見方を変えられてしまうのだから、必ずしも気分がいいものではない。ぼやっと読んでいたら著者のもつ圧倒的な世界観に飲み込まれそうになる。
 しかし、著者に負けないだけの強い世界観をしっかり持っていれば、それを読むことで複合的な視点を手に入れることができるだろう。
 ただ、このような小説に出会うことはめったにない。

 「グロテスク」は、私にとって、いい小説だった。つまり、読前読後で、物の考え方がガラリと変わってしまったということだ。特に、女性に対する見方が。

 「グロテスク」は東電OL事件を下敷きにしている。ただ、主要な登場人物は4人いて、東電OL事件の女性はその中のひとりである。だから、その事件が主要なストーリーではない。この小説のすごさはもっと別のところにある。
 
 この小説を読んで衝撃を受けたのは、女性同士の激しい闘争である。男の私には想像もできない世界がそこにはあった。よくわからないのだが、女性同士にとっては、これ程度のバトルは日常的なことなのかもしれない。
 著者は、この世の差別のすべてを書いてやろうと思ったそうだ。
 そんな事を深く考えていなかった私が女の内面をえぐっていくような描写に触れて、少し精神がやられてしまった。
 読後、二、三日間ぼんやりとこの小説について考えることになる。

 正直に言えば、男にとってのセックスは至って単純である。
 腹が減ったら食べるということと基本的に同じであり、単なる欲望である。誤解を恐れずに言えば、女は食べ物と同じ欲望の対象物で、それを得るために狩りをする。
 男の行動はそれが基本となる。もちろん、細かく言えば、それだけでないという人もいるだろうが。
 女性の場合、セックスにはいろんな意味が含まれるようだ。 美しくなることによって、男に愛されること。そこにはただのセックス以上の意味がある。愛情であったり、経済的なことであったり。ただ、女性が男から一番欲しいものは、自己承認なのではないかと思っている。
 
 男は所有することに意識があるから、所有をめぐる権力闘争になる。女は求められることが価値となるから、他者からの承認をめぐる闘争になる。
 他者からの承認を求めすぎると、餓鬼になる。それを得るためになんでもするようになる。体でもお金でもなんでも与えて、自己承認を得ようとする。女は自己承認が得られないと、狂った餓鬼になる。もしくは、承認をえることをあきらめ怪物になる。
 男には男の地獄があり、女には女の地獄がある。

 私は、この地獄を肯定して生きていこうと思う。
 自分を守るために相手を蹴落とすことは、たとえそれが邪悪なことだとしても、否定することはできない。それが人間だからである。
 善と悪、白と黒、そういうものがグジャグジャになっているから面白いのである。

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姑獲鳥の夏 京極夏彦

2012年08月17日 08時55分04秒 | 読書・書籍

 南アルプス縦走のブログは、写真やらなんやらで時間がかかるので、もう少しお待ちを。
 
 今日は、読んだ本について。
 南アルプス縦走に、京極夏彦のデビュー作、「姑獲鳥の夏」を持っていった。

 縦走登山の場合、夕方の2時か3時にはテントに入って休んでいるので、何か読む本を持っていく。
 ただ、疲れているので面白い本じゃないと読む気がしない。そこで、面白いという評判のこの本をわざわざ読まずに取っておいた。
 結論を言うと、すごーく面白かった。
 面白すぎて寝れなくなり、睡眠時間が削られるのが怖くて、読むのを強制的に中断したくらいだ。


 簡単なあらすじを言うと、主人公の陰陽師である京極堂が、妖怪、幽霊、化物のお祓いをして、事件を解決していく物語である。
 このように書くと、オカルト小説と思われるかもしれないが、微妙に違う。

 京極堂は、人間が妖怪や幽霊などの幻覚を見て、民話などにまで高められていく様を、脳科学、物理学などを駆使して説明する。それが、人々の生活にまで入り込んでいくさまを冷徹に分析している。
 しかし、彼はそのようなオカルト的なものが「ある」とも「ない」とも言わない。
 そういうものが、「あるかないか」はそれほど重要ではなく、重要なのは幽霊が人間に与える影響なのである。
 つまり、その幽霊が人間に悪影響を与えている場合に、それを取り除くことが重要なのである。

 例えば、お釈迦様が、矢の刺さった人に「人生に生きる意味があるのか」を問うよりも、さっさと矢を抜いてあげなさいと言ったことと共通するのかもしれない。
 苦痛を取り除くための手段は何でもいい。オカルトが効くのであれば、オカルトを使えばいい。


 京極堂は、人々が主観的に囚われている「呪い」を、軽快に解いていく。
 従来、ミステリーの謎は科学的、客観的な証拠で解いていくのが、普通であった。
 しかし、この小説の面白さは、人間の主観的な囚われ、つまり、「呪い」を解いていくことによって事件を解決していくことだ。
 
 呪いは、言葉によって作られる。言葉に実体はない。犬という言葉は犬そのものではない。
 しかし、実体は無いが、人間は言葉にとらわれる。
 
 言葉は、過去の記憶によって紡ぎ出される。
 だから、呪いを解くということは、過去の記憶の呪縛から開放することなのである。それには、呪いとしての言葉を溶かして壊していかなくてはならない。そのために、オカルトが必要ならオカルトを使う。 


 
 私もオカルト的なものについて、あれこれ考えてブログにもずいぶんアップしてきた。

 その結果、思ったことは、本人が主観的に見た幽霊は、本人にとっては存在するということである。客観的は存在しないが。
 
 作者はそのようなことを啓蒙するべく、小説の形にしたのだと思う。10年以上前にこんなすごい小説を出していたとは。もっと早く読めばよかった。

 ただ、このようなことに全く興味がない人は、前半の京極堂と関口先生の議論は、小難しくて読みづらいかもしれない。しかし、登場人物の魅力にぐいぐい引っ張られるから心配はない。


 そうだ、言い忘れたことがあった。
 物語りは関口先生の視点で進んでいく。関口先生は、京極堂の友人で、ちょうどシャーロック・ホームズのワトソン君に当たる。

 関口先生を含めその他の人物のキャラ設定が卓越しているのもこの小説の特徴だ。キャラの魅力が、小説を読み進める上での推進力の役割をしている。 
 
 今、京極堂の第二弾、「魍魎の匣」を読んでいるところだ。 良い小説を見つけた。

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山と渓谷 日本の名急登100を読んで

2012年07月27日 08時30分36秒 | 読書・書籍

 今月の「山と渓谷」の特集が、日本の名急登100だったので、人から借りて読んでみた。
 ランキング形式になっていて、なかなかおもしろい。
 標高差と平均斜度を偏差値化して、順位を決めている。


 ちなみにトップ3は
 
 1、富士山 御殿場コース
 2、剣岳 早月尾根
 3、甲斐駒ケ岳 黒戸尾根 である。


 
 私がよく行く奥多摩でランキングされているのは


 59、鷹の巣山 稲村尾根
 66、本仁田山 大休場尾根
 95、雲取山 富田新道
 98、三頭山 ヌカザス尾根 である。


 
 この中の本仁田山は、平均斜度が24,2°あって、平均斜度だけで比較すると、ランキングされているすべての山の中で一番である。
 本仁田山は、奥多摩の高水三山の次に登った山である。展望もなくきついだけの山だが、なんとなく思い入れが強い。
 10時半くらいに奥多摩のビジターセンターに行って、「本仁田山の地図をください」といったら、「ヘッドライト持ってますか。もう遅い時間だから、止めたほうがいいですよ」と言われてムッとしたことを覚えている。
 もし、その時の私を今の私が見たら、同じ事をいうだろう。ジーパンに綿のTシャツ、普通のシューズの格好だったからだ。
 登ってみて、地獄を見たのは言うまでもない。山ってこんなにきついものなのかと思った。あの時、無事に帰れたのは運が良かっただけかもしれない。
 だから、本仁田山には特別な思いがある。苦くていい思い出である。


 お盆は、友人と八ヶ岳に行くつもりだったが、友人に用ができて行けなくなり、どうしようか迷っていたが、この特集を見て、お盆は甲斐駒ケ岳の黒戸尾根に行くことに決めた。
 この難しいことに挑戦したくなる性格は、長所ととらえたらいいのだろうか、短所ととらえたらいいのだろうか。目標がきつければきついほど燃えてきて、トレーニングが楽しくなる。
 
 お盆休みをいっぱい使えば、4泊5日の縦走ができるので、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳から農鳥岳を通って、奈良田温泉に下山しようと思っている。
 もう少し、検討するつもりだが。 


   


  

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時の渚 笹本稜平

2012年06月14日 08時20分24秒 | 読書・書籍

 「時の渚」を読了。

 

 この作品は、サントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞したものである。

 

 最近、笹本稜平氏の小説を貪るように読んでいる。面白い。こんな面白い小説家を知らなかったとは、といった感じである。

 

 この作品は、ハードボイルドタッチのミステリーである。ゆえに、あんまり内容を突っ込んで紹介すると、ネタバレしてしまうから、ちょっとだけにする。

 

 元刑事の探偵が、自分の妻と息子を殺した犯人を探す物語である。話は二転三転して、あっと驚く結末になる。
 人生には運命的な出来事がたくさんあると考える人と、ほどんどないと考える人がいる。
 前者の人生観をもっているなら、楽しく小説が読めるだろう。
 
 ただ、小説の中だけでなく、実際の人生も予想もしない出来事が人生を動かしたり狂わせたりする。
 そのような運命的な出来事を馬鹿馬鹿しいと考えることも
理解できるが、そのような人は安定しているものの、多少、つまらない人生を送ることになるのではないだろうか。

 

 個人的な意見だが、誰もが日常的に運命的な出来事に遭遇している。しかし、それに気づいていない。
 それに気づく能力を有している人間が、運命的な出来事や出会いを通して、人生を大きく動かしていく。 

 

 
 ところで、いろいろとブログに本を紹介しているが、読んだ本すべてではない。面白かった本だけである。面白くない本を紹介してもしようがないからである。
 ただ、人によって面白いものと面白くないものの基準は違うと思う。だから、私が面白くなかったからといって、別にその本に価値がないというわけではない。当たり前のことだが。
 しかし、たくさん読んで思ったことがある。それは、よく売れる本は「読みやすい」ということである。
 読みやすい本とは、文章が簡潔であり、すじがしっかりしているものである。
 多分、みんな時間がないのだろう。細部をじっくり味わうような読み方はしない。書いてあっても読み飛ばしてしまう。
 
 しかし、一方で、読みやすい本はスカスカな感じもする。一部のコアなファンにとっては物足りない結果になる。だから、一部のコアなファンのために、詳しく細部に凝る作家もいる。それはそれで一つのやり方である。
 
 この笹本稜平氏は、その中間に位置していると思う。ちょうどいいくらいに細部が書かれている。物語のリズムを崩さないくらいに抑えられている。
 ただ、細部の書き込みのちょうど良さの程度は、その人の読力と専門的知識の有無によって変わってくるのでなんとも言えないが。 

 

時の渚 (文春文庫)時の渚 (文春文庫)
笹本 稜平
文藝春秋

 


  

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還るべき場所 笹本稜平

2012年06月11日 08時37分45秒 | 読書・書籍

 「還るべき場所」を読了。

 世界第2位の山、K2(8611m)をめぐる物語である。K2はエベレスト(8838m)より登頂が難しいといわれている。
 主人公の青年は、このk2登頂の一歩手前で、最愛の恋人を失ってしまう。
 あらすじをざっと要約すれば、その恋人を失った心の空虚感を、再度k2に挑戦することで、取り戻していく物語である。
 個人的な趣味だが、このような絶望の淵から這い上がっていく人間の復活の物語に魂が揺さぶられてしまう。

 この作家は、人を愛する熱のようなものをうまく表現するなぁと思う。心の内側からジワーっとくる熱い思いを、読者の私たちにも与えてくれる。
 人を愛することは、矛盾を孕んでいる。
 愛は私たちに生きる意味を与えてくれる。しかし、それを失ったとき、生きている意味が無くなってしまう。愛が深ければ深いほど喪失感は大きい。それを失ってしまったときにどう振る舞うかが問題となる。
 物語には、もう一人の重要な人物が登場する。60代の大企業の会長である。彼は、戦う男である。正確に言うと、戦うことを決意した人間である。
 この会長のエネルギーが、物語に強いパワーを与えている。このエネルギーに若者たちが、共鳴していく。
 
 この会長の言葉を幾つかピックしておく。 

 「どんな目標への挑戦でも、いや人生そのものに対しても、絶望というピリオドを打つのは簡単なことだ。しかしそれは闘い抜いての敗北とは意味が違う。絶望は闘いからの逃避だよ。あるいは魂の自殺行為だ」

「絶望によって前に進もうという意志にピリオドを打つたびに、人は自らの生の品位を貶める。それを繰り返すたびに人生は腐っていく」

「人は夢を食って生きる動物だ。夢を見る力を失った人生は地獄だ。夢は世界の不条理を忘れさせてくれる。夢はこの世界が生きるに値するものだと信じさせてくれる。そうやって自分を騙しおおせて死んでいけたら、それで本望だと私は思っている」 

 

還るべき場所 (文春文庫)
笹本 稜平
文藝春秋

 

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メキシコ人 ジャック・ロンドン 

2012年05月29日 23時34分46秒 | 読書・書籍

 ジャック・ロンドンの「火を熾す」を読んだ。この短編集が好きで、何回も読んでいる。
 今日は、その中の「メキシコ人」という短編について、書いてみようと思う。

 ボクシング小説だ。読むと体温が1℃上昇するような熱い小説である。弱ったときに読んでみるといい。魂が揺さぶられ勇気が出てくる。
 内容と主人公のキャラはまったく違うが、基本的な構成はロッキーと同じである。圧倒的人気を誇るボクサーに挑み、執念でそのボクサーに打ち勝つ。
 
 時代は、1910年頃のメキシコである。
 当時のメキシコでは革命が進行していた。
 メキシコ革命は、ポルフィリオ・ディアス政権を倒すことを目的としていた。ディアスは先住民から農地を力ずくで奪った。それ故、先住民は貧しい農業労働者の地位に甘んじなければならなかった。
 そこで先住民たちは、奪われた土地を取り戻そうとする。しかし、政府、大農園主、資本家たちによって弾圧される。 

 主人公は、18歳の若者、フェリべ・リベラ。貧しくて厳しい生活だったが、優しい両親の下で、幸せにくらしていた。
 リベラがまだ小さかった頃、工場勤務をしていた両親は、政府・資本家に虐殺される。それ以来、彼はディアス政権を倒すことに、命をかけることになる。
 彼は、ボクシングを好んでやっているわけではない。むしろ憎んでいる。しかし、彼には他に資金を稼ぐ方法がない。だから、革命組織の資金を調達するために、ボクシングやる。

 物語はこのように始まる。
 
 フェリペ・リベラと名乗り、革命のために働きたいと言った。ただそれだけだった。無駄な言葉はひとつもなく、それ以上の説明も無し。ただそこに立って待っていた。唇に笑みはなく、目には少しの愛想もなかった。威勢のいい大男パウリーノ・ベラでさえ、内心寒気を感じた。若者には何か近寄りがたい、恐ろしい、不可解なところがあった。黒い目には毒々しい、蛇を思わせるものがあった。目は冷たい炎のように燃え、とてつもない、凝縮された憎悪をたたえているように見えた。


 革命組織は、もう一歩のところで、武器購入の資金が尽きてしまう。武器が購入できなければ、革命を達成できない。
 そこで、リベラは武器購入の資金を調達するため、明らかに格上のボクサーと、命をかけて戦うことを決意する。

 彼の原動力は、圧倒的な怒りである。それは愛するものを理不尽に奪われたことによる怒りである。
 革命は、明らかに力の弱いものが力の強い支配者に対して、挑んでいくものである。まともな神経では達成できない。狂っていなければならない。
 有り余るエネルギーを爆発させ、自分の命でさえゴミのように捨てることのできる狂った若者だけが、革命を達成できる。
 そのクレイジーな熱さに、心が揺さぶられる。私の中にある戦闘本能を呼び起こす。
 この小説を読むと、私も狂ったように生を全うしたいなぁと思ってしまう。 

  

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