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フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

zoo  乙一

2012年05月29日 07時49分58秒 | 読書・書籍

 「ZOO」を読了。


 乙一という作家のことはよく知らない。今まで日本の作家はあまり読まなかった。最近、いろんな作家の作品を読んでいる。当たり前だが、いろんな人がいて、よく選ばないと時間がいくらあっても足りない。


 ちょっと今まで読んだことのないタイプの短編小説。
 構成が技巧的で唸ってしまう。しかし、ちゃんと感情の起伏が生まれる。只者ではないうまさ。
 
 10編の短編小説が収録されている。当然、好きなもの、それほどでもないものがある。
 個人的には、「カザリとヨーコ」 「陽だまりの詩」が好きである。


 どれか1つあげるとすれば、「カザリとヨーコ」、児童虐待の話である。
 もし、親が子供を虐待しているとすれば、その子の世界は想像を絶するほど厳しいものになるだろう。小さい時は親との関係がほとんどだからである。
 しかし、その中で誰でもいいからその子供に温かさを示す人がいれば、その子の人生は大きく変る。人間は、ひどさも覚えているが(いつか弱まる)、温かさはもっと強烈に記憶するからである。人から受けた温かさの記憶があれば、人間はそれだけで力強く生きていける。経験的に。
 そういうことがうまく表現されている短編である。


 短いしどれもそれぞれに変わっているので飽きないと思う。それにしても才能のある小説家だ。
 

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灰色の北壁 真保裕一

2012年05月28日 07時27分12秒 | 読書・書籍

 真保裕一氏の山岳短編小説である。この小説を読むのは二回目。
 3話ある。「黒部の羆」 「灰色の北壁」 「雪の慰霊碑」 である。
 それぞれに味わいのある内容で、レベルが高い。
 個人的には「黒部の羆」が好きである。

 「黒部の羆」はプロットが巧妙に作られていて、えっ、と思わず声を出してしまうような構成がなされている。そのようなあっと驚く内容が好きな人は、特に面白く感じるだろう。
 ただ、私が好きなのはその部分ではない。私が好きなのは、男っぽく熱い部分だ。
 まったく内容は違うが、この小説は真保氏のホワイトアウトに通じるものがある。人間の強さと弱さの陰影がうまく表現されている。
 弱さとは自己愛を満たそうとする人間のずるい部分であり、強さとは自分の命すら顧みない勇気と自己犠牲の精神である。
 私たちの遺伝子には、その両方がインプットされている。人間の弱さを描くことで物語のリアリティを、強さを描くことで人間の素晴らしさを表現する。
 「黒部の羆」を読むと、いつも胸が熱くなってほろっとしてしまう。

 「灰色の北壁」は、ヒマラヤ山脈のスール・ベーラの北壁に挑む登山家を描いている。
 命をかけて危険に挑む人間の勇気とそれに伴う名声、そしてその名声に対するあこがれと嫉妬。そのような自然と人間、また人間同士の葛藤がうまく描かれている。
 しかし、最後は、熱い友情に満たされる。

 「雪の慰霊碑」は、雪山で息子をなくした父の追悼の物語である。
 息子を山でなくし、妻も病気で先立たれ、孤独な男が息子が遭難した山に登る。
 生きること、愛する人を失った喪失感について、考えさせられてしまう。

 真保氏は、人間の強さ弱さをよく知っている。そして、その上で人間を肯定する熱い小説家である。いずれ他の小説も読んでみたい。

 
 

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春を背負って 笹本稜平

2012年05月25日 20時51分42秒 | 読書・書籍

 「春を背負って」を読了。


 山岳小説である。
 日本の山岳小説というと、北アルプスものが多いのだけど、珍しく奥秩父を舞台にしている。
 甲武信岳と国師岳の中間くらいにある実際にはない架空の山小屋での物語である。
 話はすべてつながっているのだが、一応、短編小説の形式になっている。時間がなくても、区切りがつけやすく読みやすい。
 正直言って、それほど期待していなかったが、ハートウォーミングな話が多く、気持よく読書できた。
 
 小説による自然の描写は、表現方法として、写真や映像にはかなわない。だから、山岳小説は、人間が自然とどのように対峙するのかを通して自然を描写することになる。
 つまり、命が奪われるようなギリギリの厳しさを、人間の側から描写することで、自然を表現するわけである。
 そうなると、できるだけ厳しい山が小説の舞台としてふさわしいことになるのだろう。日本では北アルプス、海外ではヒマラヤなどが、その典型だ。
 このように、山岳小説は過酷な山々を征服するということが大きなテーマとなる。そこでは、人間の勇気や体力的限界が試され、経験できないような緊迫した状況を小説の中で楽しめる。
 しかし、おきまりなワンパターンな感じは否めない。

 
 この小説は、そのような典型的な山岳小説とは一線を画している。
 地味な奥秩父を舞台とし、人間と対峙する自然の厳しさを表現するというより、人間と人間のふれあいを中心に小説が構成されている。
 人間(擬似的なものも含む)なくして、小説はない。人間の使う「言葉」を媒介に表現するのが小説だからだ。自然だけを映しだして美しいのは映像の世界である。
 小説は、人間の心の内部との関わりの中で、表現されなければならない。自然描写もこころとの関わりで表現される。とするなら、別にヒマラヤでなくても、十分に面白い小説は書けるはずである。
 そういう意味でも、いい勉強になった。
 
 私は奥多摩や奥秩父をホームグランドにして、登山しているので、特に楽しく本が読めた。その辺の登山が好きな人には、お勧め。
 また、温かい小説を読みたい人にもお薦めする。
 

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半島を出よ 村上龍

2012年05月24日 08時42分53秒 | 読書・書籍

 村上龍の「半島を出よ」を読了。


 北朝鮮の特殊部隊の9人の兵士が、福岡を制圧する物語である。荒唐無稽の感じがするが、読み進めると現実に起こりそうなくらいリアリティがある。
 この本は、2005年に刊行されている。しかし、村上氏は去年の原発事故の政府の対応をまるで予見するかのようである。その対応が、余りにもそっくりでびっくりしてしまう。私たち日本人は危機に向き合い、判断し、決定することができない民族なのかもしれない。

 現在の日本人は、今までの人類が経験したことのないような無暴力の世界に生きている。
 それ自体、素晴らしいことで何の問題もない。出来れば世界中、日本のように安全で平和な国になってもらいたい。
 しかし、現実はそうなってはいない。いまだに暴力の力で世界は均衡を保っている。もちろん、日本も見えないだけで、その均衡のなかにいる。
 平和ボケした私たちの目の前に、その暴力が現れたとき、ただ何もできず呆然としてしまう。
 物語の中で、兵士に息子が手拳で目を突き刺される場面が出てくる。その父親は声も出さずにその場で固まり、何もできないまま殺されてしまう。
 圧倒的な暴力に対して戦うという選択肢すら、思い浮かばないのである。
 その父親は、現在の日本である。子供を命をかけて守るという身体の反応ができていない。むしろ母親のほうが、そうするだろう。

 この物語は、誤解を恐れずに言えば、ヒーローものである。ただ、このヒーローたちにあまり感情移入できにくい構造になっている。
 それは、福岡を助けるヒーローが、多数派から疎んじられてきたアウトロー、マイノリティーのガキどもだからだ。
 このガキどもは、子供の頃から圧倒的な暴力の下で生活させられてきた。それ故、暴力というものを本能的に知っている。
 この社会非適応者たちが、社会を救うという皮肉な結果になっている。したがって、ハリウッド映画のようなカタルシスはない。しかし、リアルである。


 私にとってあまり興味のないどうでもいい箇所も手を抜かず詳細に書かれているから、多少、冗長に感じるところもある。
 しかし、多数派に流されず自分自身の頭で考えること、暴力の対峙したとき私たちはどうすればいいのかを、擬似的に体験できる。
 名作である。しかし、この本はすべての人におすすめしない。
 

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僕は君たちに武器を配りたい 瀧本哲史著

2012年05月22日 08時35分58秒 | 読書・書籍

 いろいろやることがあって、ブログが書けなかった。また、今日から再開する。


 ちょっと前に話題になっていた本、「僕は君たちに武器を配りたい」を読了。

 著者の瀧本哲史氏は京大で一番人気のある教官で、類書に「武器としての決断思考」という本がある。
 この本は、基本的に20代の若者、特に就職活動をしようとしている学生に向けられた本である。
 しかし、誰が読んでも役に立つ。
 なぜなら、この本の目的は学生に有利な就活方法を教えることではなく、若者に資本主義の本質を理解させることにあり、すべての人は、資本主義社会の中で生きているからである。

 本の表紙にはこう書いてある。
 「本書は、これから社会に旅立つ、あるいは旅立ったばかりの若者が、非情で残酷な日本社会を生き抜くためのゲリラ戦のすすめである。2011年現在、日本の経済は冷えきっており、そこから回復するきざしはどこにも見えない。求人状況も最悪だ。リーマン・ショック以降、日本の大手企業は求人数を大幅にしぼり、有効求人倍率は0.5倍前後を推移している。これは職を求める人に対して、半分ほどしか仕事の口がないことを意味する」

 いい企業に就職し安定を勝ち取ることではなく(もうそのような安定はない)、資本主義の荒波を生き抜くゲリラ戦で、どう戦うべきかの武器(知恵)を与えようとしているわけである。
 刺激的な内容である。

 
 具体的に、面白かったところを紹介する。


 資本主義はコモディティ化をどんどん進める。コモディティ化とは、市場に出回っている商品が、個性を失ってしまい、消費者にとってみればどのメーカーのどの商品を買っても大差がない状態である。違いは、単に値段の安さということになる。だから、安売り競争になる。
 商品だけではなく、人もどんどんコモディティ化が進んでいる。それは、弁護士、会計士、TOECの点数などの資格など、従来、取得が難しいとされていた資格ですらそうである。
 だから、自分がコモディティにならないようにすることが重要になる。コモディティになれば、どんどん買い叩かれて、賃金が安くなる。
 だから、唯一無二のスペシャリストにならなければならない。その者だけが生き残れる。

 資本主義で儲けられる人、カモにされる人

 カモにされるのは、自分で何も考えないで、ただ人に使われているだけの人である。それは、高学歴、弁護士や会計士、高い資格を有している人であっても例外ではない。
 彼らは単なる労働力を提供するだけのコモディティであり、かわりはいくらでもいるからである。 

 儲けられる人

1 商品を遠くに運んで売ることができる人(トレーダー)。単に物を右から左に流す人である。

2 自分の専門性を高めて、高いスキルによって仕事をする人(エキスパート)

3 商品に付加価値を付けて、市場にあわせて売ることが出来る人(マーケター)

4 まったく新しい仕組みをイノベーション出来る人(イノベーター)

5 自分が起業家となり、みんなをマネージ(管理)してリーダーとして行動する人(リーダー)

6 投資家として市場に参加している人(インベスター)

 だが、1のトレーダーと2のエキスパートは、今後生き残っていくのは難しくなる。
 トレーダーは、ネットの普及により個人が中間を飛ばして売買しやすくなったからである。
 また、エキスパートは、時代が変化しその専門性が必要とされなくなったらそれで終わりだからである。この激動の時代、10年後、その専門性が役に立っているのかどうか分からない。 

 
 著者はいう。
「人生は短い。愚痴をこぼして社長や上司の悪口を言う暇があるのなら、他にもっと生産性の高いことがあるはずだ。もし、それがないのであれば、そういう自分の人生を見直すために自分の時間を使うべきだ」と。
 本当にそう思う。しかし、会社の悪口を言って憂さ晴らしをする人は、今後もいなくならないだろう。自分で考えなくていいし、そのほうが楽だからである。
 じゃあ、君はどうするのだ、と問いかけるのが、この本である。
 資本主義のなかでサバイブするために、価値のある一冊だと思う。 

  

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天使の囀り 貴志祐介

2012年05月11日 08時19分09秒 | 読書・書籍

 貴志祐介の「天使の囀り(さえずり)」を読了。


 これで貴志氏の小説を三冊読んだことになる。その中で、この本が一番面白かった。
 ただ、どう面白かったかを説明するのは難しい。なぜなら、それを言っちゃうとネタバレしてしまうからである。
 
 一応、ジャンルは、ホラーということになっている。しかし、私はミステリーだと思っている。謎を知りたいとおもい、夢中になってページをくくっていたから。
 気持ちの悪い寄生虫のような虫(線虫)が出てくるが、そういう生物が嫌いな人にとってはホラーなのかもしれない。そういう虫的なものが本当に嫌いな人は読まないほうがいい。
 しかし、恐怖は、実は快楽とちかいところにある。それがこの小説のひとつのテーマでもある。だから、怖い怖いと思いながら、人間はそれに近づいてしまう。
 怖いといって目をそむけるより、こわごわ見てみるのも、実は楽しい。
 
 それから、このような科学的なテーマを扱った小説はいつ書かれたかが、意外と重要である。古い小説は、今の進歩と食い違ってくるからである。
 この小説の初版発行は1998年になっている。だから、この小説が書かれたのは、だいたい15年前くらいである。それにも少しびっくりする。今読んでもまったく古くないのだ。


 脳神経学や生物学などよく勉強していて、今読んでも新鮮である。当時、これだけのことが書けたことがすごい。私も生物的なことは興味があって、よく知っている方であるが、それでも知らないことがほとんどだった。


 もし、時間つぶしのために何を読もうか迷っている人、自信をもってお薦めする。

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“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組-体は自覚なき肯定主義の時代に突入した 須原一秀

2012年04月30日 21時47分47秒 | 読書・書籍

 現代の全体をとらえる一番大きくて簡単な枠組み」を読了


 登山に持っていった。非常に読みやすく、すぐに読み終わったので、二回読んだ。
 ちょっとスゴイ本である。隠れた名著なのではないかと思っている。
 まず、面白いのは「哲学の不成立」、つまり、哲学不要論である。バッサリと哲学を切ってしまう。ニーチェも切る。哲学なんてものは要らないと。
 


 ただ、哲学は死んでいるが、思想は生きているという。
 
 哲学とは、「ものの見方・感じ方・考え方プラス生き方」の学問的体系をいう。
 
 思想とは、「ものの見方・感じ方・考え方プラス生き方」それ自体のことである。
 
 学問を真理の追求とすれば、ものの見方や感じ方に真理はない、ということである。
 もちろん、それぞれの人の物の見方、それ自体はある。
 
 真理がないとすれば、人の数だけものの見方があるということになるのだが、そのような相対主義はとらないのが、この本の特徴である。
 たとえば、人殺しが悪いというのは共通認識だ、とするのである。


  著者の主張のポイントは、肯定主義と民主主義である。


 客観的真理が信じられている世界には、民主主義はない。
 たとえば、イスラム社会や共産主義社会を考えてもらえばよい。教義に正しい真理があるのだからそれに従えばよくて、多数決をとる必要もないし、それが害ですらある。
 客観的真理がない、もしくは分からないからこそ、多数決原理としての民主主義が必要となる。たとえそれが完全でなくても。

 また、肯定主義とは、人間には不純な部分も、理屈に合わない部分も、優しい部分も残忍な部分もあって、そしてそれもいろいろな種類があって、どれも否定しない立場をいう。清濁併せ呑むということである。
 一定の悪さを認めるからこそ、民主主義が成り立つ。何がいいか悪いかはっきりしていれば、別に多数決をとる必要がないからである。


 読んで損はない。とにかく面白い。哲学が不要というところは、同意する。いろいろ哲学の本を読んだが、決定的なモノはなかった。個人的に役に立ったのは、ニーチェ、スピノザ、それから仏教くらいだろうか。
 自分自身がどう感じ、どう行動し、どう生きるかは大事である。しかし、学問として、それを追求することは不要だ。本当にそう思う。


 著者が既に死んでしまったことは、前のブログで述べた。 生きていてもう少しこの考え方を深めて欲しかったと思う。

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アイディアのつくり方 ジェームス・w・ヤング

2012年04月27日 00時18分36秒 | 読書・書籍

 100ページ程度の薄い本。30分くらいで読み終わる。書いてあることもそれほど難しくはない。
 
 しかし、超ロングセラー。シンプルであるがゆえに、力強い。
 
 イタリアの社会学者・パレートによると、人は、大きく2タイプに分けられる。
 
 投機的な人とカモになる人。
 
 カモになる人は、型にはまった、着実にものごとをやる、想像力に乏しい、保守的な人間で、投機的な人々によって操られる人たちである。

 投機的な人とは、新しい組み合わせの可能性について常に夢中になっている人である。

 ヤングによれば、アイディアとは、既存の要素を組み合わせることであるから、投機的な人とは、アイディアを生みだす人といえる。
 
 既存の要素を新しい1つの組み合わせに導くためには、事物と事物の関連性を見つけ出さなくてはならない。

 
 ある知識を個別に深く有していても、それだけではアイディアは生まれない。

 それが、類似した別の事実と結びつく事によって、新しいアイディア、概念が生まれてくる。 

 

 アイディアを生みだす5つの段階

  1. 資料の収集、とにかく集める。
  2. 集めた資料を心の中で何回も咀嚼(そしゃく)すること。
  3. 無意識が仕事をするのに任せる、つまり、何もしない。
  4. アイディアの誕生 ニュートンがりんごをみて引力を発見したようなこと。
  5. 現実の有用性にあわせて、アイディアを具体的に展開させること 。

 簡単のようだが、行うのは難しい。

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ケインとアベル ジェフリー・アーチャー

2012年04月21日 20時22分43秒 | 読書・書籍

 ジェフリー・アーチャーの「ケインとアベル」を読了
 
 圧巻の面白さ。最初からストーリーに引き込まれ最後まで一気に読み終わる。面白い小説を探している人は、この本を読むべき。損はしない。
 
 一人の人間の一生を描き切る小説は英米に多い。また、イギリスの文学は人間のセンチメントな部分を刺激する。
 
 「感情」を刺激すること。
 
 これは脳科学的に言えば、大脳辺縁系の扁桃体を刺激することである。どうすれば、文字でこの人間の感情を動かすことができるのか、最近、ずーっと考えていた。
 
 この「ケインとアベル」を読んで、そのことが少しだけ分かったような気がしている。
 
 それは、私たちの感情の源泉は「愛すること」にある、ということだ。
 
 激しく愛しているがゆえに、その者が傷つけられれば、強い憎しみが生まれる。愛憎入り交じる激しさが、私たちの心を動かす。そして、激しく人を愛するには、過剰なエネルギーが必要なのである。
 
 ケインとアベルは、同じ日にまったく違った境遇で生まれる。その二人が、ちょっとしたすれ違いで、対立しあうことになる。
 
 戦うことと愛することは表裏一体である。愛が深ければ深いほど、激しく戦うことになる。 
 
 激しく人を愛せる者は幸いである。たとえそのせいで不遇の人生を送ることになったとしても、「生きている」という充実感は味わえるからである。
 
 ああ、私は人を本当に愛しているのだろうか、と問いただしてみる。結局のところ、自分のことがかわいいだけなのではないだろうか、と。
 
 このメロドラマ的小説の中核は、家族愛である。それに心を揺さぶられるのなら、まだ自分は大丈夫なのかなぁと思いつつ、小説を読み終わった。
 こういう小説は大好きである。人間の中にある愛情を刺激する。
 
 ジェフリー・アーチャーの小説をもう少し読んでみようと思う。 

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自死という生き方 須原一秀著

2012年04月08日 15時44分18秒 | 読書・書籍

 「すべての書かれたものの中で、私が愛するのは、血で書かれたものだけだ。血を持って書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。

 他人の血を理解するのは容易にできない。読書する暇つぶしを、私は憎む。

 読者がどんなものかを知れば、誰も読者のためにはもはや何もしなくなるだろう。もう一世紀もこんな読者が続いていれば、――精神そのものが腐りだすだろう。

 誰でもが読むことを学びうるという事態は、長い目で見れば、書くことばかりか、考えることをも害する。

 かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。今ではにまで成り下がった。

 血を持って箴言を書く者は、読まれることを求めない。暗証されることを望む…」

 by ニーチェ

 私の場合、ほとんど暇つぶしで読書しているので、ニーチェのこの言葉は耳が痛い。確かに、世の中には血で書かれた書物以外のものが氾濫している。だが、私は、それについて、特に否定的には考えていない。なぜなら、人生はそもそも暇つぶしみたいなものだと思っているからである。
 
 しかし、この「自死という生き方」は正真正銘、血で書かれた書物である。
 著者の書物は何冊か読んでいるが、いつも読みながら心臓がバクバクしている。 冷静な気持ちで読めた試しがない。
 最初、理由が分からなかったが、今は分かる。それは、須原氏の書いた書物が、私の自己保存本能を強く揺さぶるからだ。それについては、いずれゆっくり書こうと思う。

 著者、須原一秀氏は、2006年4月はじめ、某県の神社の裏山で縊死(首をつって死ぬこと)された。 死を確実にするため、頸動脈は切られていた。6年前の今頃である。
 本書はその遺著、遺書にあたる。
 ここまで書くと、何やら薄気味悪い、暗い書物のような感じを与えてしまうが、結論を先に言えば、読後、非常に清々しく爽やかな気分になる。著者の自死を、肯定的に捉えてる自分がいる。
 わたしにとってこの本は、価値観を大きく転換するきっかけになった書物といえそうだ。なぜなら、今まで私は自殺を非常にネガティヴにとらえていたからだ。
 今は自殺という選択肢もありかもしれないと思っている。「逃げ」という意味での自殺は、今でも強く否定するが、須原氏の、自死はそうではない。

 まず、三島由紀夫、伊丹十三、ソクラテスという三人の哲学者・芸術家の生き方と自殺の意義について、分析をする。
 彼らの、人生はニヒリズムではなかったこと、自殺が虚無や厭世からなされたものではないことを、証明しようと試みている。
 
 次に、キューブラー・ロスの死の受容に関する五段階説を検討する。これについては、有名だから、知っている人も多いだろう。
一応、5段階を列挙してみよう。
 例えば、がんを告知されたとして、 

 1、否定の段階 自分ががんのはずはないと否定する。
 
 2、怒りの段階 否定しても客観的な状況から、否定できなくなり、何故私がという怒りに変わる。
 
 3 取引の段階 神などに対し、もし助けてくれるなら、もっと有意義に過ごします、と取引しようとする。

 4 抑うつの段階 悲しみふさぎこむ。

 5 受容の段階 やがて、自分の人生全体を何らかの形で肯定し受け容れる。そして、自分の死も穏やかな気持で受容する。

 このように、突然のがんの告知のように、自分の意志とは別にやむ得ない状況での受容を、著者は「受動的死の受容」という。
 これに対し、この本の主題は「積極的死の受容」である。
 
 積極的死の受容とは、武士道における「いつでもあっさり腹を切ることのできる状態になっている心の有様」である。そこで、この本は「新葉隠」と呼ばれることになる。
 武士は、元々は戦士であり、小さくても一国一城の主になり得た人間である。しかし、戦争など全くない平和な江戸幕藩体制の下では、官僚的事務官としてしか生きられない。生きていくためには、やりたくないこともやらざるを得ない。しかし、武士という誇りもある。
 このように江戸時代の武士は、暴力的戦士としての部分と体制に従順な忠犬としての部分の矛盾によって、精神的に引き裂かれることになる。
 徹頭徹尾忠義を尽くし、ロボットのように事務処理をこなし、自分というものを殺しながら、男としての自尊心と主体性を維持していくにはどうすればいいか。
 そこで、「切腹」という形の主体的行動が生まれてくるのである。
 つまり、こういう事である。
 いま、わたしは、自分の意志で忠義を尽くすことを決意して事務処理をしている。決してそれは何らかの利益や罰が怖くてやっているわけではない。だから、法を犯すことになっても、自分の意志を貫くためなら、それをやる。法を犯した責任は自分の命でとる、ということである。
 「武士道とは、死ぬこととみつけたり」である。
 自分の命をあっさり捨てることのできる心構えを持ち、官僚的幕藩体制の中で、自尊心と主体性を維持し続ける道を見つけた、ということである。

 この精神を現代風にアレンジすれば、こういう事である。
 介護が必要なくらい老いてきた。もうそろそろ人の手を借りなければ生きていけない。その中で、自尊心と主体性を維持していくためにはどうすればいいか、ということである。
 自身の主体性を維持するために、自死を決意したというなら、私にそれを否定することはできない。

 私はできるだけ生き続けたいと思っている。自殺はしない。
 しかし、体が動かなくなって介護が必要になり、自分で食べ物が食べられない状態になったら、積極的自然死をしようと思っている。積極的自然死とは、自分の意思による餓死である。これが、もし自殺なんだと言われれば、自殺かもしれないが、そうするつもりでいる。
 
 何れにしても、死について考えておくことは、人生を生きる上で有用なことである。人の一つのリアルな死について詳しく知りたいなら、この本を読んでみることをお薦めする。自分の死についてこれほど客観的かつ分析的に書かれた書物を、私は知らない。
 
 別に自死をすすめるつもりは全くないが、須原氏の桜が散っていくような美しい死に方も、悪くないなぁと思う。
 
 合掌
 


 

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