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フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

死の家の記録 ドストエフスキー

2020年04月19日 07時00分00秒 | 読書・書籍

東京の土曜日は、自粛要請をするまでもなく、大雨だったので、外には出られなかった。

こういうときは、家で静かに読書するのがいい。

「死の家の記録」ドストエフスキー著 を読んでいた。

この本は、一応、小説の形式になっているが、ドストエフスキーの獄中記と考えていい。

ドストエフスキーは、思想犯として、逮捕され、死刑判決を受ける。
処刑当日、銃殺にされる直前で、皇帝の恩赦で死刑執行は中止される。
そのかわり、四年間のシベリア流刑になる。このシベリアでの獄中記が、この本である。

主人公(ドストエフスキーといってもいい)は貴族出身だ。貴族出身の囚人は敵意の目で見られる。
他の囚人たちは、普段の生活で、貴族にいじめらていたからである。
だから、最初、主人公は他の囚人たちにうまく馴染めない。

そんな獄中生活で、様々なタイプの囚人に出会う。
たとえば、ガージンという囚人は、普段はおとなしいが、酒を飲むと(監獄の中でもこっそり酒が飲める)突然暴れだす。恐ろしく屈強な体格をしていてるから、10人くらいの囚人が飛びかかって完全に気を失うまで殴る。普通の人なら死んでしまうのだが、次の日の朝、ケロッとした顔をして起き上がってくる。
こういった感じで、ろくでもない囚人たちが次から次へと出てくる。
でも、主人公は、徐々に心を開いていき、他の囚人たちと友好な関係を築いていく。

小説を読み進めていくとき、彼らは犯罪者だから全員がクズなんだと思うと、ちょっといろんなことを見誤る。
僕たち心の中にも、善良な部分もあるし、暗い闇もある。それは囚人たちと、ちっとも変わらない。
ドストエフスキーは、囚人たちの心の闇にだけにスポットライトを当てるのではなく、囚人たちの人間らしい善良な部分にも公平にスポットライトを当てる。
すごい人間観察である。そして、そこには常に温かい眼差しがある。

ドストエフスキーの小説は、宗教的である。

これは断言してもいい。それもテーマは愛についてである。

「君は、こんなクズみたいな人間たちを愛せるのか」と問われているのである。

小説を読み終わったあとに「許せ、愛せ、辱めるな、敵を愛せ」という言葉の意味が、心に響いてくる。

この「死の家の記録」に出てくる囚人たちは、のちのドストエフスキーの小説の登場人物になって出てくる。

ドストエフスキーの小説に出てくる登場人物は、みんな癖があり、弱さがあり、変なやつだが、最後にその人物を、なぜか愛してしまう。

それは作者であるドストエフスキーが、弱い人間たちを愛していたからである。

彼の小説を読むと、深い人間愛を感じてしまう。そして心が静かに揺さぶられる。

それはある種の宗教的経験といってもいいだろう。

家の中に閉じこもってたけど、まあ、こんな重い小説が読めたから、良かったかな。

ただ、正直言って、全部は読んでいません。長いからさ。一日では読めないよ。

 

コメント (2)
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4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて 

2020年04月09日 07時00分00秒 | 読書・書籍

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」は、村上春樹の短編小説だ。

結構人気のある短編で、僕も若い頃読んで、感銘をうけた覚えがある。

でもさ、100%の女の子って、本当にいるのかな。そもそも、100%って何よって話だ。

小説の中で言ってるように、容姿の好みではない。「タイプファイ」なんてできない。ただ、そう感じるだけだ。

今までの人生で、そういう女性がいたかと聞かれれば、うーん、どうだっけ。

ああ、「いたね」と答えるだろう。そういうのって感覚でわかる。あの子は100%だったなって。

ただ、しっかり捕まえておかなかったから、うなぎのようにスルスルッと逃してしまった。

小説のようにもう一回再会したら、どんな感じになるのかな。興味深い。

 

ちなみに、アメリカの調査で、一目惚れから始まったカップルの55%が結婚し、そのうちの90%以上が離婚しないそうだ。一目惚れから始まった恋は冷めにくいようだ。

その理由について、諸説あるが、人は瞬時に、遺伝子レベルで自分に合う相手を見分ける。

そして、その判断はかなり正しい。

でも、世の中に100%の女の子がいるとしても、そう簡単に会うことなんてできない。

だいたい60とかで、良くて80とかだ。

社会心理学者のエーリッヒ・フロムは、著書「愛するということ」で言っている。

人を愛することは、技術だと。

恋に落ちるという体験と愛を持続させることは違う。それを混同すると、愛することを失敗してしまう。

「愛の失敗を克服する方法は、一つしかない。愛の意味を学ぶことである。そのための第一歩は、愛は技術であることを知ることである」

素晴らしい本なので、よかったら読んでみてください。ちょっと哲学書っぽいですが。

このフロムの考え方は、僕たちに希望を与えてくれる。

愛は技術だから、60%の女の子だとしても、98%までもっていけるかもしれない。

うまくやればね。

そうでなきゃ、人生つまらないからね。


4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」の朗読があったので、興味がある人は聴いてみてください。

なかなか素敵な小説です。12分くらいの長さです。

 

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僕の好きな短編小説 芥川龍之介「蜜柑」

2020年03月03日 07時00分00秒 | 読書・書籍

今日は、僕の好きな短編小説を一つ紹介したいと思います。
その短編小説は、芥川龍之介の「蜜柑」です。
芥川龍之介の小説の中でも一番好きな小説で、文章で人をこういう気持ちにさせられたら最高だなあと思います。
この小説で書かれたことは、芥川が実際に体験した出来事だそうです。
だから、主人公は芥川龍之介自身になります。

「蜜柑」は、短編小説のお手本のような小説で、小説の構成もなかなか興味深い。
短編小説は、起承転結のような長い構成は難しい。そこで、前フリとオチのような一つの変化で読ませることが多い。
この小説も、前フリがあり、ある出来事があって、大きく心が変化するという構成になっています。
前フリとは、最後のオチと真逆な状態のことです。例えば、アホみたいなふりして実は賢かったり、貧乏だったのに金持ちになるとか、前の部分がフリになります。
この小説は、前フリが長いのが特徴です。そして、最後に大きく心が動かされ、ガラリと情景が変化する。

横須賀線の汽車に乗る芥川は、すごく疲れていて不機嫌です。
読んでいて気分が悪くなります。
そこに13歳くらいの娘が、汽車に乗ってくる。その娘が、また芥川を不機嫌にさせる。
その不機嫌さが、最後のクライマックスまで続きます。
そして、最後に奇跡的な変化が起こる。
そういう話です。

これもYou Tubeで朗読があります。12分くらい。
リンクを張っておきますので、良かったら、ぜひ聴いてみてください。

 芥川龍之介「蜜柑」

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夏目漱石の夢十夜 第一夜が好きだ

2020年03月01日 07時00分00秒 | 読書・書籍
夏目漱石の短編小説で「夢十夜」というのがある。
出だしが「こんな夢を見た」で始まる。第一夜から第十夜まである。
その中でも、第一夜と第三夜が好きだ。
三夜は、ちょっと怪談のような話で読みやすい。
でも、僕が好きののはなんと言っても、第一夜だ。
ちょっと、出だしを書いてみる。
 
 こんな夢を見た。
 腕組みをして枕元に座っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕元に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色が程よく差して、唇の色は無論赤い。到底死にそうには見えない。
 
主人公とこの女性がどういう関係なのかわからない。
ただ、女は言ったとおり死んでしまう。
それで死ぬ前に、主人公にこう言う。
「また逢いに来ますから」「百年待っていてください」と。
それで、主人公は百年間、女を待つ、という話だ。
なんとも夢らしい不思議な話で、ロマンチックで美しい。
この短編を読んでも、あまりピンとこないが、朗読で聴くと、すごくいい。
僕の個人的なことだが、体がつかれたときじゃなくて、神経的に疲れたとき、第一夜の朗読を聴くと、疲れがスーッととれる。みんながみんなそうかわからないが。
第三夜も話としては、なかなかいい。
You Tubeで朗読してるのが、沢山あるので、もしよかったら聞いてみてください。

だいたい10分くらいの短い朗読です。
 
 
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アイの物語 山本弘著

2015年09月22日 14時54分32秒 | 読書・書籍

昨日、アイの物語を読了。
この「アイの物語」は、小飼弾氏がブログで絶賛していた本だ。四、五年くらい前だったろうか、ブックオフで安く買った。
しかし、SFはあまり読まないので、そのまま本棚に埋もれたままになっていた。
今回の休みで、ようやく読むことが出来た。
端的に言えば、面白かった。なぜもっと早くに読まなかったのだろうか。価値観が変えられてしまうという意味で、今まで読んだ本の中で、10位以内に入るかもしれない。文句なしの傑作だ。

簡単に内容を説明しよう。
題名になっている「アイ」は4つの意味を持っている。
1、普通に、愛
2、I 私、つまり自我
3、AI(artificial intelligence)人工知能
4、i 虚数 一応定義すれば、2乗すると-1になる数、いわゆる、ありえない数

1と2は特に問題はないだろう。3と4がこの物語の中心的なテーマになる。

SFらしく物語は、遠い未来の地球だ。人類は衰退し、人工知能をもつ「マシン」が地球を支配している。
主人公の少年は,
、古い物語を集め、人々にその物語を語り伝えている。それで「語り部」と呼ばれている。
食料を盗んで逃げていた少年は、アイビスという美しい少女のアンドロイドと戦うことになり、敗れ、負傷し、捕らえられる。
捕らえられた少年はアイビスに治療を受けながら、マシン側に対し敵意を見せる。
アイビスは少年に7つの物語を語り始める。

小説はこの7つの短編で構成されている。この7つの短編は、すべて独立しているので、それだけ単独で読める。
その中でも「詩音が来た日」は素晴らしい出来だ。正直、ポロッと涙を流してしまった。
2030年、人工知能を有する介護用アンドロイド詩音が、ある介護施設に試験採用され、そこで働くことになる話だ。
魂のないアンドロイドと人を信じれない嫌われ者の不良老人の間に、奇跡的な魂の交流が起こる話である。
もし、時間がなければ、この「詩音の来た日」だけでも読んでみたらどうだろうか。

まず、作者は、フィクション(作り話)はノンフィクション(本当にあった話)よりも劣っているのか、という問いを立てる。
いや、物語は決して真実の話より劣ってはいない。その話がたとえ作り話であったとしても、時として事実より強い力があるという。
作者は物語の力を信じている。それぞれの短編を読むことで、私達にその力が伝わるように構成されている。

つぎに、理解不能な他者を愛せるのか、という問いを立てる。
人工知能を有するアンドロイドは「i虚数」を使って、思考し、会話する。
少年はそれを理解できない。
理解できないゆえに、嫌悪し、恐怖する。
虚数は理解できないものの象徴だ。少なくとも私は、2乗すると-1になる数を想像することができない。
しかし、虚数は、交流回路、電磁波、量子力学などで現実に使われている。だから意味がないわけではない。理解できないだけなのだ。

人知を超えた人工知能を有するアンドロイドを愛せるのか、という問いには、思わすイエスと答えそうだが、これならどうか?

例えば、アフリカのジャングルでジープの中で寝ていたら、ライオンが車の中に入ってきて、ペロペロと顔を舐め始めた。右手には銃がある。その気になれば撃ち殺せる。どうする?
何を考えているかわからないライオンと仲良く出来るのか?

例えば、中国が軍備を強化している。中国は南シナ海の岩礁を埋め立てて滑走路を作り、軍事拠点を構築している。日本の原油の88%の輸送、また全貿易の65%は
南シナ海を通って行われている。ここを中国に支配され、輸送をシャットダウンされば、日本は終わる。
あなたは何を考えているのか分からない中国に対し、警戒心を持たずに接しれるのか?

ちょっと、話はそれた。
抽象的ではなく、具体的に考えると、理解不能な他者を愛することは、難しい。
私は、この本を読んで、多くの作家が9条改正反対を唱える意味が、
少しわかったような気がする。彼らは理解不能な他者との心の交流を信じているのだ。
なぜなら、物語の力を信じ、物語を語る者だからだ。
私は、さしあたってこの問いを保留しておこう。物語の力を信じつつ、現実的な人間でもあるからだ。
ただし、理解できない他者を愛せる者は、強い人だとは思う。そして、その夢だけは手放さず持っていたいと思う。

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祈りの幕が下りる時 東野圭吾著

2015年09月21日 15時32分33秒 | 読書・書籍

 加賀恭一郎シリーズの最新作である。最新作といっても、発行されたのが2013年9月なので、もう2年ほど経つ。

 私は、東野圭吾の作品のなかで、加賀恭一郎シリーズが一番好きだ。どうして好きなのかよくわからなかったが、その理由について考えてみたいと思う。     

 今回の「祈りの幕が下りる時」は加賀恭一郎の母親とそれに関連する事件についての話である。      
 ただ、事件を追っているのは、加賀ではなく、いとこの松宮である。加賀はあくまで、助っ人的(脇役的)存在だ。そこに、今回の特徴がある。

 加賀恭一郎シリーズは、三人称視点で物語が進む。三人称の視点だから、加賀の内面は直接には分からない。 

 例えば、加賀と松宮が日本橋の飲み屋で会うシーン(p80)。 三人称視点で書かれている。 


 お待たせ、といって松宮は向かい側の椅子を引いた。
 加賀は顔を上げ、新聞を畳み始めた。「仕事は終わったのか」
「とりあえずね」松宮も上着を脱ぎ、椅子に置いた。
 店のおばさんが注文を取りにきた。加賀はビールを頼み、すでに空になっていた茶碗をおばさんに渡した。
「このあたりには久しぶりに来たので懐かしいよ。あまり変わってないな」
「変わらないのが、この町のいいところだ」
「たしかに」
 おばさんがビールを二つのグラス、そして突き出しを運んできた。今夜の突き出しは、空豆だった。加賀がビールを注いでくれたので、どうも、と松宮は首をすくめた。



 例えば、これを一人称視点に書きなおしてみる。加賀の内面をちょっと付け加えた。

 お待たせ、といって松宮は向かい側の椅子を引いた。
 私は顔を上げて、松宮を見た。前よりも精悍な顔つきになっていた。新聞を畳み「仕事は終わったのか」と言った。
「とりあえずね」というと、松宮は上着を脱いて椅子に置いた。相変わらず几帳面な男だ。
店のおばさんが注文を取りにきた。私はビールを頼み、すでに空になっていた茶碗をおばさんに渡した。
「このあたりには久しぶりに来たので懐かしいよ。あまり変わってきないな」
「変わらないのが、この町のいいところだ」
「たしかに」松宮は笑顔で答えた。人を魅了する笑顔は子供の頃から変わらない。
 おばさんがビールを二つのグラス、そして突き出しを運んできた。今夜の突き出しは、空豆だった。私は松宮のグラスにビールを注いだ。
 どうも、と松宮は首をすくめた。口に出しては言わないが、愛嬌のあるかわいい奴だと思った。

 三人称視点は、映画のシーンを傍観者として見ている感じになる。それ故、登場人物の内面には入り込めない。もっぱら会話、行動、しぐさから何を考えているのか読み取らなくてはならない。 

 三人称視点は客観的に記述されるため、登場人物に対し、感情移入がしにくいといわれている。読者の側が登場人物の内面を探る努力をしなくてはならない。      
 
他方、一人称視点は、主人公の内面を書き込むことができるので、主人公が何を考ええいるのかよく分かる。だから、主人公の心理がうまくかけていれば共感しやすい。 

 しかし、私は三人称視点で書かれた加賀恭一郎シリーズが好きだ。もし加賀恭一郎の一人称で書かれていたなら、ここまで好きになれなかったような気がする。 
 それはなぜか? 
 三人称視点は、前述のように主人公の内面が書かれていないため、何を考えているのかわからない。それ故、主人公にミステリアスな雰囲気を与えることが出来る。 
 実際、加賀恭一郎は頭の良いのはわかるが、どのように論理を組み立てているのか、読者側はよく分からない。加賀の思考過程がブラックボックスになっているのだ。 
 加賀は、事実を丹念に拾い、その事実が溜まっていくと、ジグソーパズルを完成させるように、見事に事件を解決していく。思わずその論理的構成に舌を巻いてしまう。それは、加賀の考えていることが最後まで読者に提示されないからである。

 ただ、作品が好きになる最も重要なポイントは、加賀の人情味のある人物像である。 
 加賀は感情的になるわけでもなく、熱いわけでもない。淡々とクールに行動している。 
 ただし、クールに感じるのは加賀の内面が読み取れないからである。事件が解決し、真実が明るみになるにつれ、なるほど、そういうことを考えていたのかと理解できる。そのときはじめて、加賀の心の温かさが浮かび上がってくるような構成になっている。 
 だからこそ、加賀が何を考えて行動しているのか知りたい、と思ってしまうのだ。つまり、加賀恭一郎シリーズが好きな人は、加賀恭一郎が好きなのだ。好きな人物の内面を知りたいと思うのは当然のことだろう。


 「祈りの幕が下る時」のラストシーン。読んでない人も、特にネタバレはしません。

 
 場所は地下一階だと聞き、登紀子は階段を下っていった。道場らしき部屋の入口に何人かの子供がいる。
近づいていって、中を覗いてみた。剣道着姿の老若男女が、まだ何人か残っている。
 加賀の姿もあった。彼は道場の隅で、黙々と素振りをしていた。その顔には一切の迷いがなく、目は一点を見つめている。今の彼には、おそらく何も聞こえていないだろう。
 彼の心を水面に喩えるなら、いつも鏡のように静止しているのだろうと登紀子は思った。どんなに強い風が吹き荒れようとも、簡単に波打ったりしない。その強い心があったから、多くの試練を乗り越えられた。
 しかし――。
 今自分が持っている手紙を読んだ後はどうだろうか、それでもやはり小さな波紋さえ生じないのか。
 その答えを知りたくて、登紀子は加賀に向かって歩き出した。

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告白 湊かなえ著

2015年09月20日 21時37分08秒 | 読書・書籍

シルバーウィークは八ヶ岳に行く予定だったが、いろいろ事情があって中止になった。

そこで、本棚にある読んでいない小説を片っ端から読んでいくことにした。

まずは、湊かなえさんのデビュー作「告白」。

映画化もされ、ネットでもちょくちょく面白い小説だと評判になっていたので、二、三年前に買っていたものだ。

この小説は、その評価に賛否両論ある。

読んでみて、なるほど、その理由が分かった。どんどん物語に引きこまれているが、終わったあとの読了感が、非常に悪い。暗い気持ちになり、救いがない

女教師が、受け持ちのクラスの生徒に娘を殺される。そして、教師が学校をやめる時、クラスの生徒達にそのことを告白する場面から、物語が始まる。

私達がどんどん物語に引きこまれていく原動力は、怒りだ。どうして罪のないかわいい子どもが殺されなくてはならなかったのか。

怒りと復讐心は、すごいパワーを生みだす。そういう気持ちを維持しながら、物語が進んでいく。

すると、途中で、視点がガラッと変わる。

加害者、少年AとBの視点、そのクラスメートの女の子の視点、加害者の母親の視点、などなど。

この複数の視点の設定がうまい。

本当の真実(客観的に起こったこと)がそれぞれの登場人物の主観によって、微妙にズラされる。

そうして、それほど加害者に共感はできない状態で、少しずつ真相に迫っていく。まるでゴシップの女性週刊誌のように。

読了感はともかくとして、読者を物語にどんどん引き込んでいく力はすごい。

道徳的な立派な小説は、みな書けるかもしれないが、読者を引き込む小説はなかなか書けない。

デビュー作でこれほどの作品が書けるのだから、著者の才能は推して知るべしである。

 

 

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物語における「動機」の重要性

2013年11月16日 21時41分38秒 | 読書・書籍

 最近、時間の合間を利用して頑張って一日一冊くらい小説を読むようにしている。今ハマっているのは今野敏である。読みやすくて面白い。もちろん長いものは一日では読めない。
 いろいろたくさん小説を読んで思ったことがある。いろんな人がいろいろなことをいうが、結局、物語を構成する上で最も重要なのは、「動機」なのではないかということである。
 
 そう言いつつ、動機とはなんだっけと思い、検索すると、こんな感じで出てきた。
 1 人が意志を決めたり、行動を起こしたりする直接の原因。
 2 心理学で、人間や動物に行動を引き起こし、その行動に持続性を与える内的原因。
 3 倫理学で、行為をなすべく意志する際、その意志を規定する根拠。義務、欲望、衝動など。
 いろいろと難しそうなことを言っているが、要は、主人公を行動させる原因のことである。


 例えば、プロットに関する書物を読むと、物語の中に、危機や葛藤を取り入れることが重要であると書かれている。
 危機とは、自分の生命や安全また社会システムの安定が、ある事件によって脅かされることである。しかし、自分の生命が脅かされたり、社会が混乱に陥るほどの危険があれば、それから逃避するのが合理的である。別にその危機に立ち向かう必要はない。
 危機的状況にあるにもかかわらず、あえて主人公が行動に出るのは、強い動機があるからなのである。例えば、愛する人を守るためだったり、である。
 また、葛藤も同じようなことがいえる。葛藤とは相反する2つの事柄があり、そのどちらかを選ばなくてはならず、その選択で迷うことである。選択する行為自体が行動となる。なぜ主人公はそれを選んだのか。それを選ぶ強い動機があったからである。結局、葛藤も行動の原因となった動機の強さを示す状況にすぎない。
 例えば、ロミオとジュリエットでは、家の名誉(家族への愛)と恋人への愛情が相反するかたちで現れる。彼と彼女が家族の名誉を捨て、恋人へと向かったのは、相手に対する強い愛情があったからである。家族の名誉の重要性が強調されるのは、愛の強さを示すためである。
 
 危機や葛藤は物語を停滞させる機能を持つ。決して物語を進める要素ではない。あくまで主人公の強い決意を表現する機能を持つに過ぎない。私たちは強い障害や困難にあるにも関わらず、それでも行動する主人公に感動するのである。
 また、その行動が納得のいくものでなくてはならない。菓子パン1つのために命を投げ出す主人公にリアリティーはない。
 そう考えると、気持よく物語を読み進めるためには、主人公の強い動機が示されなければならない。


 ちょっと話は変わるが、ここで動機の意味3を見てもらいたい。あえて衝動のところを太字にしておいた。それにはちゃんと意味がある。
 そもそも人間における行動の動機って何なのか、という疑問である。
 ここで私はスピノザの第四部・定義7を引用したい。
 スピノザは、
「 われわれにあることをなさしめる目的を、私は衝動と解する」
 と言っている。
 
 これについて、次回のブログで突っ込んで考えてみようと思う。




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笹本さんの「春を背負って」が映画化されるらしい

2013年06月20日 08時42分36秒 | 読書・書籍

 笹本稜平さんは私の好きな小説家のひとりだ。笹本さんの書く小説は大きく分けて2つある。警察ものと山岳ものである。警察ものはほとんど読まないが、山岳ものは全部読んだ。
 中でも私が好きなのは、「駐在警察」と「春を背負って」である。「駐在警察」は奥多摩、「春を背負って」は奥秩父が舞台である。正確にいうと、駐在警察は警察ものと山岳ものが混合した内容になっている。
 
 大体、山岳小説というとヒマラヤだったり厳冬期の北アルプスだったりする。それは、人間が厳しい環境の中で生命の危機にさらされ、それに対しどう振る舞うかがテーマになっているからである。
 しかし、紹介した笹本さんの2つの小説は違う。これらの小説のテーマは、厳しい自然と人間が対峙することではなく、自然の中で人間同士がふれあい成長していくことである。そのことで傷ついた心を温めていく小説なのである。
 このテーマは今までの山岳小説にはない新しいものである。また、笹本さんの山岳小説は描写が正確で読みやすい。
 その読みやすさと描写をちょっと勉強しようと思い、笹本さんの山岳小説の古本をまとめてアマゾンで買った。ただ、「春を背負って」だけ古本でも全然安くなっていないのだ。
なぜだろうと思いレビューを読んでみた。するとそこに映画化すると書いてあった。なるほど、それで読む人が増えた訳だ。
 舞台は奥秩父ではなく立山連峰、主演が松山ケンイチ、ヒロイン役に蒼井優。公開は2014年6月。今、ロケの最中らしい。
 良い小説なのにあまり読まれていないみたいで残念だったけど、これを期にたくさんの人に読まれるといいなぁと思う。

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ある本をまとめた記事について

2013年06月17日 08時45分38秒 | 読書・書籍

 「悩んだときは哲学者に聞け!」小川仁志著という本をまとめた記事があった。
 なるほどというところがいくつかあったのでアップしてみる。

・人生に意味を求めなければ強い心で生きられる

・身体をいたわってあげることが、心をスッキリさせる方法になる

・消費による心の満足は悪いことではない

・主体的な決断をすれば、不安は解消され、必ず絶望は乗り越えられる

・恋愛がうまくいかないのは当たり前だと思うとラクになる

・説得ではなく合意を目指すことで他者とわかり合える

・幸せになろうと願って行動をおこせば、幸福がつくられる

・与えられた状況に積極的にかかわっていくことで、人生の目標が生まれる

・人間に与えられた時間には限りがあることを意識すると頑張れる

・欲望は新しい世界を切り開くための武器になる

・何でも経験してみることが、人生に深みをもたらす

・知識はものを考えるための道具。「役立たせよう」と思うことが大事

・成長したいと強く願うことが、成長へのエネルギーとなる

・あらゆるものはシステムとして考えることでシンプルになる

 私もいくつか加えてみよう。

・心(意識、無意識)は身体の一部もしくは現象である。身体の動きや働きを観察することで心をよみとる。
・やる気の無い時は、目の前のちいさいことに集中してリズムを作る。
・人生に意味は無い。ただ、野垂れ死にがあるだけだ。それを意識したときから本当に生きはじめる。

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