世の中には保守的な人間というものがいるが、これも丁寧にみれば未知のモノに対する警戒心の強さの表現というだけで、新しいモノに対する感受性と反応という点では、本質的に変わりはない。
この新しさに対する感覚は、極めて本能的なもののように思える。
それも肉体的なものより、魂の発する本能なのではないか?
動物の世界では新しいものなどは必要がない。
むしろそれは危険をはらんでいる可能性が強く、遠ざけるべきものであろう。
ではなぜ、人間だけがそれを求めるのか?
それはやはり前途した様に無意識レベルで縛られているものから自由になりたい、という本能 ー 魂の欲求だろう。
"自由" ー なんていい言葉だろうか。
これは前近代において民衆が勝ち取ったもの、あるいは勝ち取ったと勘違いするよう洗脳されているものを指しているのではない。
アメリカがお題目の様に掲げて乱用している"自由"とも違う。
戦後日本人が認識している無責任と混同された"自由"でももちろんない。
"新しさ"がもたらしてくれる "自由" のことである。
それは芸術の本質でさえある。
例えば芭蕉の句。
なかでも絶唱とされるものは、三百年の時を経てなお、新しさと鋭さをもって我々を概念の檻から自由にしてくれる。
立石寺
あるいはモーツァルト幻想曲ニ短調。
この曲にこそモーツァルトが天才である証明を感じる。強烈な休符はどんな美しい和音よりも強く響く。
この新しさに対する感覚は、極めて本能的なもののように思える。
それも肉体的なものより、魂の発する本能なのではないか?
動物の世界では新しいものなどは必要がない。
むしろそれは危険をはらんでいる可能性が強く、遠ざけるべきものであろう。
ではなぜ、人間だけがそれを求めるのか?
それはやはり前途した様に無意識レベルで縛られているものから自由になりたい、という本能 ー 魂の欲求だろう。
"自由" ー なんていい言葉だろうか。
これは前近代において民衆が勝ち取ったもの、あるいは勝ち取ったと勘違いするよう洗脳されているものを指しているのではない。
アメリカがお題目の様に掲げて乱用している"自由"とも違う。
戦後日本人が認識している無責任と混同された"自由"でももちろんない。
"新しさ"がもたらしてくれる "自由" のことである。
それは芸術の本質でさえある。
例えば芭蕉の句。
なかでも絶唱とされるものは、三百年の時を経てなお、新しさと鋭さをもって我々を概念の檻から自由にしてくれる。
立石寺
あるいはモーツァルト幻想曲ニ短調。
この曲にこそモーツァルトが天才である証明を感じる。強烈な休符はどんな美しい和音よりも強く響く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます