きのう夕方からのあめは結構降った感じですが、その割には思ったほど広瀬川は増水はしていないというべきか、増水しているというべきか? こんなことで迷うということは、このまま終わって欲しくない、何とかもう一度、もう一花咲かせたいという気持ちがあるからなのでしょうね。
そうなのです、いつものことですが幕引きを考えるころになるとなってしまうのです、往生際が悪く。 全く困った性分ですが、一年12カ月のうち、たった2か月半くらいしか川で楽しめないのですから、そうなっても仕方ないですか。許されることだと思いますか。 それは甘えと言われますか。
寿命には、平均寿命と健康寿命があり、その二つの寿命の間には約10年近くの超えたくても超えられない、超えにくい深い溝があります。 不確かな記憶ですが、高齢の男の健康寿命は70歳ちょっとだと記憶しています。
一応健康で、何とか自分のことは自分でやっていける年齢の限度、限界(=健康寿命)を迎えようとしているということでなおのこと気分的に嫌なのでしょうね、無意識のうちに認めたくないということなのでしょうね。
何かが終わるということは、常に自分の寿命が終わる、少なくとも健康寿命は終わるということと重ねて考えてしまうということなのでしょうか。 そういうことで言うと、終わる、終焉、最後、最期なんて言う言葉は忌み嫌うべき言葉ということになるのかな。
でも当然のことですが、生き物には限界があります。命は必ず尽きます。死ぬのです。70余年くらい経験したこの世から消えていくということです。 日々の生活の中で、ともすれば死に近づいているのだということを忘れがちになります。
生きることは=死に近づく=死ぬこと、ということを忘れがちになるというのか、本能的に思い出さないようにしているのか、考える葦というニンゲンだからこそ、多分そういうことを思うのでしょうね。
毎日見ている河原の生き物たちは、多分そういうことは考えてはいないと思います。ただただ自然の摂理に従って、毎日動き回っていつしか死んでしまう。土に還ってしまうのでしょう。ニンゲンはそれをついつい潔いこととか考えてしまいがちですが、それがニンゲンだからということなのでしょう。
自然界の生き物を見ていると実に泰然自若としているというか、自然に身を任せて少しの迷いもないように感じます。実に見事な”生”だと感心します。子孫をの残したらものの見事にかつ自然に朽ち果てていく。
あらためてすごいなあ、すごいことだなあと思います。
何か全く思いもかけないような方向に行ってしまいました。何を馬鹿なことを言っているのだと呆れかえっていることでしょうね。鮎釣りの末期に来て血迷うたか?!と思ったかもしれません。 自分でも不思議です。 お彼岸だから? 彼岸花のせい?
以下の4枚の写真は8日の撮影です。