朝方は冷え込みましたが、風もなく日中はぐんぐんと暖かくなってきたように感じます。 実際はそれほどでもないのでしょうが。
(午後2時過ぎの撮影です。)
先週の朝日新聞の文化・文芸欄に先月亡くなった人間国宝桂米朝さんを悼む記事が載っていました。 追悼文を書いたのは作家の筒井康隆さんです。
追悼文の中でいろいろ言っています。
「米朝さんは博識でお茶目な従兄、面白いことをいっぱい知っている親戚のお兄ちゃんという親しみが持てる存在だった。」
「教養や人徳もさりながらあの親戚の誰かを思わせる親しみやすさ」
「交際範囲は広く、・・・。古典の教養は驚くべきもので、文楽や歌舞伎に詳しく、晩年新聞に連載されていた上方芸能に関する薀蓄などは誰も及ばないはずだ。」
「米朝師匠は噺家というより学者だなどという評価もあったが、これは違うでしょう。教養が話しことばの形で滲み出しているのであり、・・・」
「師匠の悪戯っぽい表情、一定の品格を保った話し方、」
「文化勲章の受賞は当然と思うし、これほどの人はもう出ないのではないかとも思う。」
若いときのnewoneも、若かかりし頃の桂米朝さんの姿、何とか上方芸能、上方落語を盛り返したいという熱意を肌で感じることができたある意味”貴重な”存在かなとかってに思っています。
そういう意味で3月21日のこの拙いブログで桂米朝さん達のことを書かせていただきました。 少なくとも新聞で見た限りでは誰も、かって大阪はミナミに「島之内寄席」があったということを書いていないのはおかしいのではないかと思ったからです。
資料が他の書類を探しているときに見つかりましたので、知って欲しいと思いアップします。 昭和47年2月の出来事です。 B6判の二つ折りです。
(表)
(裏)
昭和47年2月21日(初日)から25日(千秋楽)までの開催です。1972年ですか。
初日の主任は 桂米朝 さんです。
二日目はの主任は 桂小文枝で、中日は 橘ノ円都、四日目は 笑福亭松鶴で、千秋楽の主任は 桂 春団治 となっています。 じつに錚々たるメンバーで、その意気込みも分かろうというものです。
”乍憚口上”はこうなっています。
何とか読めるかと思いますが、決意のほどが理解できる文言を書き写してみます。
『而て此度我々上方落語協会年来の夢でありました「はなし」の定席を得る事になりました。 わずか、月の内五日間だけの興業ですが、決して高望みは致しません。此の島之内寄席がいしずえとなり、此後大阪に一軒でも、二軒でも定席がふえる事が、我々の大きな夢でございます。』
『今後皆様方の御期待にそむかぬよう芸道にはげみます故何卒尚一層の御引立と御後援の程を御願い申し上げます。』
昭和四十七年二月吉日
「上方落語協会」会長 笑福亭 松鶴
初日の出演者です。
桂 べかこ、桂 文珍 、中入りの 桂 春蝶(なんと懐かしい!)、そして桂 三枝。
露の五郎、笑福亭仁鶴
月亭八方
月亭可朝 懐かしい名前です。