砂の上と切り株の上と
きょうは最低気温こそきのうより暖かいものの、日中の気温はきのうよりは低く推移しているようです。しかもお昼頃からか、小雨が降ってきましたし。まあ雪になるよりはましか。きのうの朝と比べたらノー・プロブレムです。
ところで、知っていましたか?インドネシアにも氷山があったことを。 きょうのmsnニュースで知りました。インドネシアのパプア地方の山に票さんがあります。規模は大きくないので、つまり小規模なため気候変動の変化に早く反応するということで注目されていたようです。
で、そのインドネシアの氷山はあと10年くらいで消滅してしまう恐れがあるということです。ということは地球温暖化の影響をまともに受けているということですね。この頃強く感じるのですが、日本人と世界(の人々)とを比べてみると、日本人は地球規模の環境問題、地球温暖化の問題に値するとりくみがのろいのはもとより、日本人個々人としても危機意識が薄い、もっと強く言えば”ない”と言ってもいいのかなとさえ思いますがみなさんはどうですか。
個人的には反省しています。化石燃料の使用についても自分自身の問題として考えていく必要があるようですね。電力についても、原子力はもとより火力発電所も減らしていかなければならないようですし、代替えの電源はどうするか、という大きな問題が待っています。
水力、風力、波力、太陽光、地熱発電等についてもマジに考えていかなければならない時期に差しかかっているようです。もっと真剣に将来の子どもたちのことを考えなければならないなと改めて思っているところです。 「ようです」なんて他人事みたいな書き方をしていてはよくないですね。
前にも書いていますが、毎朝の楽しみは、朝7時15分からの「おしん」の再放送と、7時30分からの「スカーレット」です。いま「おしん」は大変な時期を迎えています。戦争に勝つために辛抱に辛抱を重ねてきたのに、日本は敗け、責任を感じた夫は自決してしまうし、長男も南方で戦死してしまいました。
戦死と言えば聞こえはいいですが、訪問してくれた戦友の話しでは逃避行の末の”餓死”だったということです。次男が軍隊から帰ってきたのは唯一の救いでしたが、住んでいた家も、前の持ち主が現れて出ていけと迫られる始末です。しかも米軍関係者を家に招き入れている。
山形の実家に頼ってみましたが、小作から解放されて土地持ちとなり、一気にお金も手に入るようになった実家の兄貴も1000円すら貸してくれない。兄嫁は問題外。そういう八方ふさがりのなかで自分の力で切り抜けていこうと覚悟した”おしん”です。大いに感情移入して、見ている「おしん」ですが、そのあとに「スカーレット」をみると、気持ちの整理がつかないままに、ついていくのが少し大変ですが、考えようによっては、かえってその明るさに救われるとも言えます。
”おしん”のことを書くつもりではなく、このまえ戦争末期のことを投書した”声”欄の記事と、「おしん」のことが被さって見えたので書いてしまいました。 ちょっと意外なことに驚いた次第です。12月8日の声欄の記事です。 78年前ですか、ちょうど日本軍が真珠湾を奇襲した日です。
神奈川県に住む86歳の女性からの投書で、「うちの竹の油で戦争をしたの?」という標題がつけられています。それによると、天草に住んでいた頃、家から10キロほど離れたところに旧日本軍の飛行場ができたそうです。
1944年に飛行場の人が来て、「お宅の竹を軍に供出して下さい」と言われ、お国の役に立つと、嬉しさと誇らしさでいっぱいになったといいます。戦後数年が経って、戦時中あの日工場で働いていた若い人がやってきた時、彼女は聞いたそうです。「竹を供出しましたが、何に使ったのですか」と聞いたら、返ってきた答えが 『油をとったのです』 とのこと。
彼女は思いもかけない返事に絶句したそうです。私もはじめて聞きました。松の根っこから油をとったというのは聞いていましたが、竹からもとろうとしたなんて・・・・。 そして彼女はまとめて締めくくります。
≪多くの方が敗戦の理由について述べていらっしゃいますが、この日のこの言葉ほど、私を納得させたものはありませんでした。「本当にうちの竹の油で戦争をしていたの?負けて当然ね」と。≫