町田の武相荘。ずっと前から見てみたいと思っていたところだ。
白州次郎・正子夫妻が住んだ家。食料が無くなるかもしれないと戦争が激しくなる前に農地の多い町田に古い農家を買い求めて引っ越した家だ。
最近では白州次郎の方が知られているかもしれないが、私にとっては白州正子の家という思いが強い。
かつて『十一面観音巡礼』や『かくれ里』などを読み、人里離れた集落を訪れては、その中に埋もれてしまった古い習俗を掘り出し、その意味を問い、日本の文化の源を探し出す姿に感銘を受けたものだった。
そして青山二郎や小林秀雄らから骨董の手ほどきを厳しく受けた審美眼は一流のものがある。その本物の美意識を実際にこの目で確かめてみたいと思っていたのだ。
坂道を上って行くと、丘の中腹にあるこの家の門が見えてきた。
右下には臼の上に「しんぶん」と手で書かれた板が乗せられていてほほ笑ましい気持ちになる。
訪れた3月初めのこの日、門をくぐると紅梅が咲いていた。
古い農家を住みやすいように現代風に改造していった。
残念ながら内部は撮影禁止で室内の写真はないが、古いいいものがたくさん置かれていた。
蚕網を壁に垂らして花を生けたり、上の写真のようにロウソク立てを花生けとして使ったりした。普通の人にとっては単なる道具に過ぎないものが、正子さんにとって美の対象となった。子供の頃から本物に触れ、そして本物を知る周囲の人たちから鍛えられたことで、獲得した能力なのだろう。
門の「しんぶん」と同じ筆跡で「うへの納屋」。
この階段上に納屋があった。
美しいたたずまいの家だ。
次郎氏は車好きとして知られ、英国留学中にはベントレーやブガッティを乗り回し、晩年はポルシェ911Sに乗っていた。
軽井沢にも別荘があり、また軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事も務めた。
まだ高速道路が通っていない時代のことだから碓氷峠をポルシェを駆って、軽井沢を往復したことだろう。
軽井沢の住所は便せんにも印刷されていた。
庭に石仏を置いたのは正子さんだろう。
ここを「鈴鹿峠」と名付けた。石まで立てる凝りようだ。
「鈴鹿峠」もいよいよ峻険な峠にさしかかる。
そして一周して元の場所へ。
整然と並ぶ四角い石のリズム感が心地いい。
居心地の良さに気がつけばすっかり日が傾く時間となっていた。
白州次郎・正子夫妻が住んだ家。食料が無くなるかもしれないと戦争が激しくなる前に農地の多い町田に古い農家を買い求めて引っ越した家だ。
最近では白州次郎の方が知られているかもしれないが、私にとっては白州正子の家という思いが強い。
かつて『十一面観音巡礼』や『かくれ里』などを読み、人里離れた集落を訪れては、その中に埋もれてしまった古い習俗を掘り出し、その意味を問い、日本の文化の源を探し出す姿に感銘を受けたものだった。
そして青山二郎や小林秀雄らから骨董の手ほどきを厳しく受けた審美眼は一流のものがある。その本物の美意識を実際にこの目で確かめてみたいと思っていたのだ。
坂道を上って行くと、丘の中腹にあるこの家の門が見えてきた。
右下には臼の上に「しんぶん」と手で書かれた板が乗せられていてほほ笑ましい気持ちになる。
訪れた3月初めのこの日、門をくぐると紅梅が咲いていた。
古い農家を住みやすいように現代風に改造していった。
残念ながら内部は撮影禁止で室内の写真はないが、古いいいものがたくさん置かれていた。
蚕網を壁に垂らして花を生けたり、上の写真のようにロウソク立てを花生けとして使ったりした。普通の人にとっては単なる道具に過ぎないものが、正子さんにとって美の対象となった。子供の頃から本物に触れ、そして本物を知る周囲の人たちから鍛えられたことで、獲得した能力なのだろう。
門の「しんぶん」と同じ筆跡で「うへの納屋」。
この階段上に納屋があった。
美しいたたずまいの家だ。
次郎氏は車好きとして知られ、英国留学中にはベントレーやブガッティを乗り回し、晩年はポルシェ911Sに乗っていた。
軽井沢にも別荘があり、また軽井沢ゴルフ倶楽部の常任理事も務めた。
まだ高速道路が通っていない時代のことだから碓氷峠をポルシェを駆って、軽井沢を往復したことだろう。
軽井沢の住所は便せんにも印刷されていた。
庭に石仏を置いたのは正子さんだろう。
ここを「鈴鹿峠」と名付けた。石まで立てる凝りようだ。
「鈴鹿峠」もいよいよ峻険な峠にさしかかる。
そして一周して元の場所へ。
整然と並ぶ四角い石のリズム感が心地いい。
居心地の良さに気がつけばすっかり日が傾く時間となっていた。