|
|
これだけ人が溢れた社会に生きてると、
コミュニケーションのあり方が否応にも非常に大切になる。
これが巧くできない人は、どうしてもストレスを抱える。
いくら巧い人でも、やはりストレスを抱える。
とくにキツイのが思いやりの気持ちなどを踏みにじられたときだ。
ところが、思い返すと自分がそうされたこともあればしたこともたくさんある。
そこに答えはなく、他己を自己のように察することなど土台無理であるから、
誰しも人生において行き違いが或る一定の割合で存在するのもいたし方がない。
問題なのは、こうした人の心を踏みにじる行為に呵責を感じるのか、
それとも何とも思わないのか、という点である。
大まかにいって、世の中はそういう2タイプの人に分かれる。
自己の追究、自我の満足、自己の充足のために邁進すべき全人生の
サバイブする時間を5%でも他己の満足の類推に消費すればこそ、
人間愛というものが語れるわけで、
なぜに母親が子を育てるかというところに「愛」ということの以外に
理由はなく、
それすらも、漫然とした感覚であるから、理屈主義の俺にはいまいち
その母親の愛の境地にはいたれないと実感してしまったりする。
が、恥も照らいもなく、しかし無思考な単純馬鹿が言う「愛」とは
格段に意味の違う「愛」というものに、
この地球を廻すエネルギーくらいのものを感じる俺ではあるので、
土台無理ではあるが、
なるだけ人の心を踏みにじらないようにしたいとは、思っている。
で、翻って幾らかではあるが、
現代の産業社会と経済至上主義の横行が、
人の心を踏みにじることを無意識に何とも思わない人種層を、
拡大しつつある。
これが、諸悪の根源である。
こうした人種こそが「悪の枢軸国」である。
そこに収入差もなく、宗教の隔てもない。
兎に角、そうした人種が至るところにある一定の割合で必ず存在する。
もしくは、誰しもの人生にそういう時が必ず存在する。
俺が日ごろ「WAKE UP」的な意味合いで指摘しているのは、
俺自身の体験からいっても、そういう状態の自分を律することができるのも
自分そのものでしかないから、
「優しくなくなっている」時にぐっと自分をみつめかえせるかどうかが、
以外と最大の自己愛なのかもしれないという事だったりする。
明けましておめでとうございます。
新年なので、爽やかに「愛」について語ってみたりしました。
三宅ブログ | | Trackback ( 0 )
|
|
|
|