桐生スバル☆☆☆座   

映画好きの座長がWEB劇場・桐生スバル座を始めましたが
東日本震災で故郷FUKUSHIMAが悲惨な状況で帰れないネ~

福島原発引き揚げ者と残留被爆・エダノ子達の惨憺たる未来

2013年07月25日 | 御霊震災311
 さてさて、流れモノの「原発引き揚げ者」らと別れて座長は・・・60年前まで「満州引き揚げ者」であった南郷・釜藤の伯母の家を訪ねる。
 まもなく100歳になる伯母は町内情報にも詳しいし、戦前からの記憶軸を維持している座長一族の長オサなのだ。幸いにも幼き頃から伯母と親しくしていた座長であったので貧弱ながらもその記憶軸を継承出来た・・・それがココ福島県の原発以後の異常事態を「満州引き揚げ者→満州残留孤児」との連想に結びつける事となった。
     
 即ち、「原発引き揚げ者」とは想定外の原発事故で全財産を放棄したまま国内流浪の民となった人達の事、「残留被爆・エダノ子」とは事故当時の政府責任者・枝野幸夫が放射能飛散情報を知らせず長時間残留被爆させられて人体実験の材料となった子供達の事、である。
 この満州と福島の二事変に共通する事は、Jマスコミが時の権力者(GHQと民主党)にヘツらう報道姿勢←クリック)である。

(A)原発事故当時のJマスコミが大きく報道しない事だが、現民主党党首で元テレビ経済評論家だった海江田万里は原発現場で最後まで対処すべき自衛隊員に撤退命令を下し、残された東京都消防隊員139人には「退去したら処分するゾ!」と厳命し・・・後から東京都石原知事から猛反撃を喰らった。
 そもそも被爆対策に乏しい自衛隊は、ヘリ空輸の散水TVショーを演じた後に撤退せざるを得ないのだが、彼らの冷却注水量は全体の1.9%にすぎない惨めな空振り作戦だった。逆に彼らのTVショーの為に17時間も出動遅れさせられたのが東京消防庁レスキュー隊で、日頃の想定訓練もあって80%以上の冷却注水量を達成した。それも現場の強い放射能域での長時間作業だったから、第二・第三の「吉田所長の殉死」が続くと予想されるのだが・・・Jマスコミは吉本漫芸の放映で隠してしまいたいようだ。

(B)戦後のJマスコミは占領軍GHQの「WarーGuilt戦犯洗脳策」に従って、旧満州関東軍が満蒙開拓団を放棄して逃げたと報道し続けた。
 しかしながら、ウィキペデアソ連参戦←クリック)を見ると装備不全ながら関東軍が8/9~9/5と終戦後も前線で戦い続けたし、その戦いが無かったら、満州滞在132万人の日本軍民の多くがアッと言う間にシベリアでの強制労働に従事させられただろうし、或いは、関東軍と救出開拓団が一緒の退却戦であったならば、ジュネーブ協定による民間人保護処置も受けられずに無差別虐殺される恐れがあった。(実際、アメリカ軍はシンガポール市街戦で原住民と日本軍を無差別に砲撃した)

(C)現場放棄して逃げた原発自衛隊と違って、装備不全ながら北、西、東、と3方面侵攻のソ連軍と戦った関東軍の姿は、1号~4号原子炉爆発と不眠不休で戦った故吉田所長と現場作業員達、東京消防庁隊員の姿に重なるのだが、Jマスコミは現場に入ってそれらの状況を報道する事は無かった。
 彼らは安全な政府建物内から大本営報道を垂れ流しするばかりか、巨額広告スポンサー・東京電力に遠慮して国民に真実を伝える精神を放棄したのだ。
 遂に今後の危機拡大を怖れた原発現場の吉田所長は、本社に秘密で民間人ジャーナリスト二名(青山繁晴、今西憲之)を招いて真実の報道を託する(その報復か?Jマスコミは吉田所長の死亡を軽く報道!)と共に、4号炉の宙づり核燃料水槽の補強を推進し続け、更に仮防潮堤の再構築を具申したのだが、わずか10ケ月後の野田総理安全宣言で全作業が遅延し、現場が隠蔽されつつある。
 

次回ブログは、福島原発「エダノ子、カンノ子、被爆の子」です・・・余りに悲しくて、童謡替え歌に出来ません!!。

 H25/07/25 Utatteru #74 OZUの謡←クリック 
「Jブンヤの規制節」 元歌「てるてる坊主」作曲: 作詞:

「DEL」「DEL」ボータン 削除キー、
 ・・・・・・・・・・・・・・
  ソイツの首を チョント切るぞ!!


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