電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

進化について(『動的平衡2』を読みながら)

2011-12-29 17:23:22 | 自然・風物・科学
 私たちは、生命の多様性には驚かされる。そして、その多様な生命の形態の複雑さにさらに驚かされる。スギはどこに行ってもスギのように見える。しかし、身の回りの人間が栽培してきた木や花を見ていると、同じ種類の木や花なのにどうしてこんなに違うのか不思議になる。また、ガラパゴス島に住む動物とともに特殊な進化を遂げた植物を見ていると、進化が何か意志があるようにさえ思われてくる。私には、花屋の花なら人間の意志が、またガラパゴス島では、動物と植物の共生への願いがそうした進化をもたらしたとしか考えられない。しかし、私たちが学んだ進化論では、遺伝子とその突然変異だけが進化の要因であり、突然変異とその環境によるふるいが進化の説明原理とされている。いわゆる「獲得形質」は遺伝しないというのが、現在の常識になっている。

 福岡伸一は、『動的平衡2』(木楽舎/2011.12.7)で、今までと少し違う遺伝の可能性を示唆している。ここで福岡伸一は、親から子どもに受け継がれるのは遺伝子(DNA)に書き込まれた情報だけではないと言う。親が環境に適応して獲得した形態の情報もまた、受け継がれる可能性があるという。これは、昔、ラマルクがとなえた「獲得形質」の遺伝の可能性と同じである。福井伸一によれば、ダーウィンもまた、ラマルクを尊敬し、ラマルクの獲得形質の遺伝と同じことを考えていたらしい。しかし、そうした獲得形質は、遺伝子を変化させることはできない。それでは、個体の環境の変化に対応する適応によって得られた身体的変化に必要な情報は、子孫に絶対に受け継がれないのだろうか。

 では、どうやってその情報を伝えているか。ここが大問題である。実は、遺伝子自身が決めている部分もあるのだけれど、そうではない部分もありそうなのだ。
 動物の受精卵はメスの卵子とオスの精子の結合によって誕生する。オスの精子からは一組のDNAがもたらされるだけなので、遺伝子に記された情報しか来ない。それはメスのDNAと合体してワンベアになるのだが、メスの卵細胞には、そのワンペアのDNAを動かすための装置が予めいろいろと用意されている。その装置、つまり卵細胞の環境が、誕生する生命体に大きな影響を及ぼすことになる。
 卵細胞の環境とは、すなわち母なる生命体が生きて獲得した情報である。卵細胞の中に何が含まれでいるのかはまだ分からないのだけれど、基本的な卵環境はメスを通じて代々受け継がれでいく。(『動的平衡2』p56)

 ここでは、受精卵の特殊性について述べられている。この卵細胞は、オスからはDNA以外のものを受け継げないが、卵細胞そのものは、まさにメスの細胞そのものを受け継いでいるのであり、そこにには、「母なる生命体が生きた獲得した情報」が受け継がれているということになる。

 さて、人間とチンパンジーのゲノムを比較すると98%以上は相同であるという。そうすると残りの2%足らずの情報が、ヒトを特徴づける特別の遺伝子かというとどうもそうではないらしい。その違いは、多少のタンパク質の量的な差異にすぎないという。確かに、私たち人間とチンパンジーは生物全体の進化から見れば、そんなに遠くないつい最近に共通の祖先から枝分かれした子孫だと学んだ。そうである以上、遺伝子の構造が、ほとんど同じだと言うことは納得がいくし、その違いがコピーされてくる段階で生まれた多少の変異としての違いだと言うことにも納得する。もしそうだとすれば、私たち人間とチンパンジーの違いは、何によるのだろうか。

 脳でスイッチがオンになる一群の遺伝子は、チンパンジーよりヒトで、作用のタイミングが遅れる傾向が強い。つまり、脳のある部位に関していえば、ひとはチンパンジーよりもゆっくり大人になる。ヒトはチンパンジーよりも長い期間、子どものままでいる。そういうことになる。
 脳だけではない。外見的な特徴を見ると同じ傾向があることに気づかされる。ヒトは、チンパンジーの幼いときに似ている。体毛が少なく、順も扇平だ。生まれたばかりは無力で、そのあと長い育児期間が必要だ。数年で性成熟するチンパンジーに較ぺて、ヒトは第二次性徴を経て、生殖可能年齢に達するまでどんなに早くとも十数年を要する。
 つまり、チンパンジーが何らかの理由で、成熟のタイミングが遅れ、子ども時代が長く延長され、そして子どもの身体的な特徴を残したまま、性的にも成熟する。そのような変化があるとき、生じた。そして、それがヒトを作り出した。そのような仮説である。
 子どもの期間が長く、子どもの特徴を残したままゆっくりと性成熟することを生物学用語で「ネオテニー」と呼ぶ。そして、ネオテニーには外見が子どもっぼいということ以上に、進化上、意外な有利さがあった。子どもの期間が延ぴるというのは、それだけ、怖れを知らず、警戒心を解き、柔軟性に富み、好奇心に満ち、探索行動が長続きするということである。また試行錯誤や手先の器用さ、運動や行動のスキルを向上させる期間が長くなるということでもある(同上p210・p211)


 ここで、この「ネオテニー」が人間の成立の根拠だとすれば、「ネオテニー」がおきる根拠が遺伝子の「環境」だったと言うことになる。先ほど福岡伸一が述べていた卵細胞の環境こそ、こうした成熟のタイミングをコントロールできる環境である。その環境こそが、遺伝子の活性化を制御できる仕組みということでもある。ここでは、「遺伝」の仕組みについての新しい考え方が生まれつつあるような気がする。

 ここで重要なのは、このような変化は、遺伝子自体に突然変異が起きて、遺伝子Cが、遺伝子Xに変わらなくても、ただ、遺伝子Cの活性化のタイミングが遅れさえすれぱ、実現できる変化だということである。
 そして遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みが、遺伝子A、B、C、Dとともに世代を超えて受け渡されれぱ、同じA、B、C、Dという遺伝子のセットを受け継いでも、それが作動する結果としての生物、つまり現象としての生命は、異なる特徴を発現できることになる。
 このような仕組み、つまり遺伝子そのものではなく、遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みの受け渡し(世代を超えて、その様式が伝わるのであれば、これも遺伝と言ってよい)が最近、特に注目されてきている。それがエピジェネティックスである。
 それはいったいどのようなものだろう。ひとつには細胞由来の物質がある。受精の瞬間、DNAは精子由来のものと、卵子由来のものが合体して一つの新しいゲノムを作る。しかし次世代に受け渡されるのはDNAだけではない。そのDNAを包み込む、卵細胞にはさまざまな物質があらかじめ含まれていて、それは母から子へと遺伝する。
 この卵細胞の中には、マターナルRNAというものが準備されている。これは受精卵のゲノムからできたものではなく、あらかじめ卵細胞が形成される時すでに準備されている、母由来の遺伝子である。マターナルとは文字通り「母の」ということである。母が用意する環境である。
 マターナルRNAがまず最初のスイッチとなって、それが新しいゲノムの働き方を決める。だから、どのようなマターナルRNAがどれくらい卵細胞に用意されているかが、ゲノムDNA上の遺伝子のスイッチオンのタイミングを決めることになる。マターナルRNAにどのようなものがあり、どんな働きをしているのか、それはまだほとんど明らかになっていない。(同上p212~p214)

 卵細胞の中にあるのは、遺伝子だけではないということは、改めて指摘されれば、まさにその通りである。そして、卵細胞とは、母の細胞そのものであり、私たちは、卵細胞の中に、「母が用意する環境」をもっているというのだ。つまり、遺伝子は、この環境との相互作用によって、自らの情報を発現していくことになる。私たちは、この「母が用意する環境」の意味についてもっと考えるべきだろう。この環境の科学的な仕組みは、まだ解明されていないが、ここから、福井謙一は、次ような考えに発展していく。
 
 視覚が有利な形質で、それを持った生物が選ばれるのはわかる。しかし、水晶体だけが出来た生物はまだ視覚を得てはいない。機能しないサプシステムは繁殖戦略にとって有利に働きようがない。それゆえサブシステムは全体が完成する前には自然選択の対象にはなりえない。
 ところが、生命現象ではこのような複合的システムがあらゆるところで成立している。これは一体どうしてだろうか。この疑問に対して、ダーウィニズムの「適者生存」という論理だけでは説明しきれない。生命現象や進化は、突然変異と自然選択の原理以外の何かによっても制御されているのではないだろうか。
 私は『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)の中で、生命現象を特徴づけるものは自己複製だけではなく、むしろ合成と分解を繰り返しつつ一定の恒常性を維持するあり方、つまり「動的平衡」にあるのではないかと考えた。
 そして『できそこないの男たち』(光文社新書)では、性の由来とあり方について考察してみた。その過程で徐々にわかってきたもの、それは次のようなことだった。
 私たちは、常に、生理的な要求、脳が命じる行動、あるいは性的な欲求に突き動かされ、束縛されている。これは遺伝子の命令であると言うこともできる。そして、これはドーキンスの利己的遺伝子論の源泉でもある。
 しかし、同時に、私たちはその命令を相対化し、それに背くこともできる。私たちは結婚しないでいることもできるし、家庭を持たないでいることもできるし、子どもをつくらないでいることもできる。「できるLということは、つまり、そのような可能性・可変性もまた生物の有り様の一つなのだと考えてよいだろう。
 とすれぱ、遺伝子の中には「産めよ殖やせよ」という命令の他に、あらかじめ別の橦類の命令が含まれていることになる。それは「自由であれ」という命令だ。その由来と意味を考えることがおそらく『動的平衡』(木楽舎)に続く本書における私の新たな課題となるだろう。(同上p41・p42)

 確かに、ここには飛躍があるように思われる。しかし、ここには、とてもエキサイティングな何かがあるように思われる。そこに福井伸一の魅力がある。この遺伝子の中に書かれた、「自由であれ」という命令は、何を意味しているのだろうか。私には、この場合の「自由」とは、「遺伝子からの自由」と言うことで、それは、「環境への適応」ということと同じ意味だと思われる。勿論、その場合の「環境」というのは、直接には「遺伝子」にとっての「環境」ということであって、いわゆる人間のそとにある社会的な環境のことを言うわけではない。しかし、人間が社会をつくり、生物的な成熟とは違った、社会的な成熟を経て人間になっていくことができたのは、おそらくそうした「自由」があったからだと思われる。

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