電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『ゆる言語学ラジオ』の三上章エールに共感

2024-05-26 12:22:32 | 日記・エッセイ・コラム
 2021年1月にスタートした人気ポットキャスト『ゆる言語学ラジオ』を初めて知ったのは、今井むつみと秋田喜美との共著である『言語の本質』を読み、その後YouTube動画を検索したら、そこに今井むつみが登場していたのを視聴したことがきっかけだ。この動画サイトは、その名の通り、ゆるく楽しく言語の話が楽しめる番組である。

  その後、この番組の評判にあやかって、『ゆるコンピュータ科学ラジオ』というのも始まっている。『ゆる言語学ラジオ』のほうは、ホスト・聞き役を務めるのは堀元見で、そして言語学の知識を駆使して見事に解説するのが水野太貴であるのに対して、『ゆるコンピュータ科学ラジオ』の方は主客逆転して、水野太貴がホスト・聴き役で、コンピュータ科学についての知識を駆使して解説しているのが堀元見である。(本人たちが、完全に栁の下の2匹目のドジョウを探して始めたと言っているところが面白い)

 水野太貴(みずのだいき)は1995年生まれ。愛知県出身。名古屋大学文学部卒で、言語学を専攻し、卒業後 出版社で編集者として勤務するかたわら、『ゆる言語学ラジオ』で話し手を務めている。また堀元見(ほりもと・けん)は1992年生まれ。北海道出身。慶應義塾大学理工学部卒で、専攻は情報工学で、言語学素人の堀元見と言語オタクの水野太貴が「言語」にまつわる話をするところが面白い。(ちなみに、『ゆるコンピュータ科学ラジオ』では、勿論立場が逆になっている)。

 私は、堀元見については、ほとんど知らなかったが、著書に『教養(インテリ)悪口本』(光文社)、『ビジネス書ベストセラーを100冊読んで分かった成功の黄金律』(徳間書店)、水野太貴との共著に『言語オタクが友だちに700日間語り続けて引きずり込んだ言語沼』(バリューブックス・パブリッシング)などがあることを知って、彼のボケ風な会話の背後にある知的教養について納得した。

 勿論最近の話題も面白いのだが、初回から視聴していて、10回目と11回目で語られた三上章の「『像は鼻が長い』の謎」と「主語を抹殺せよ」についての回はとても興味深かった。水野が三上章の文法論について知ったのは、金谷武洋著『日本語には主語はいらない』(講談社選書メチエ/2002.1.10)を読んだからだそうだ。日本の文法学界からはほとんど無視された三上章ではあったが、日本語教育に関わる金谷武洋から熱いエールを送られていて、水野もそれに賛同していた。(三上の説は、「は」は、主語を表すわけではなく、副助詞で主題を提示する言葉だと言っている)

 私も、金谷武洋著『日本語には主語はいらない』が出た時これを読んで、三上章の本も再読した。その後、月本洋著『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ/2008.4.10)や『日本語は論理的である』(同シリーズ/2009.7.10)を読んで、とても納得したことを覚えている。日本の学校教育の中では、いまでも橋本進吉のいわゆる橋本文法が主流だが、これを変えるためには日本の教科書そのものを大改革しなければならず、難しいのも事実である。勿論、多少は変わってきているが、古典文法では、ほとんど橋本文法が中心であるといってもよい。確かに、その方が説明しやすいというところはある。

 金谷武洋は言語学者だが、月本洋は工学博士で人工知能の研究者であり、三上章も東京大学工学部建築学科の卒業で、数学教師であった。それらが言語学界から無視された要因になっているのかもしれない。そういう意味でも、『ゆる言語学ラジオ』での三上章エールは嬉しかった。いずれにしても現在では、365回まで(1回につき30分からものによっては1時間以上の番組もある)続いているが、私は暇ができると過去の番組を聞いている。
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『勧酒』と元旦

2010-01-01 23:47:43 | 日記・エッセイ・コラム
 昨年は、なんだか、沢山の知人から喪中のハガキをもらったような気がする。また、知り合いのうち何人かがなくなった。その上、年の暮れ30日には、義姉の元夫が亡くなった。そんな年末を過ごしていて、ふと井伏鱒二の「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」という言葉を思い出した。この言葉は、太宰治や寺山修司などにも引用されていて有名になっているが、もともとは、中国の唐の時代の干武陵という人の漢詩『勧酒』を訳したものだ。
  勧酒  干武陵

 勧君金屈巵
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

 (書き下し文)
 君(きみ)に勧(すす)む  金屈巵(きんくつし)
 満酌(まんしゃく)  辞(じ)するを須(もち)いざれ
 花(はな)発(ひら)いて  風雨(ふうう)多(おお)し
 人(ひと)生(い)きて  別離(べつり)足(み)つ
(林田愼之助監修『えんぴつで漢詩』ポプラ社刊/2006.12.4)

  井伏鱒二訳
 この杯を受けてくれ
 どうぞなみなみ注がしておくれ
 花に嵐のたとえもあるぞ
 さよならだけが人生だ


 この干武陵の漢詩について言えば、「一期一会」という千利休の言葉を思い出す。もちろん、この漢詩は、親しい、あるいは初めてあった友人に向かって、花が咲く頃は雨風が多いときであり、人生には別れがつきものだから、もうしばらく杯を交わしていようよと呼びかけたものだ。一方、「一期一会」というのは、人との出会いは、もうこれで最後かもしれない、一回きりのものとして真心を込めて大切にしようという意味だ。しかし、どちらも、出会いそのもののはかなさと切なさを表した言葉であることだけは確かだ。

 昨年の年末は、29日が年賀状書きと大掃除、30日に三峯神社に行き、神恩感謝と家内安全の祈願をし、夜ネット碁にはまる。31日は息子と映画『アバター』を観、夜「紅白歌合戦」を観た。その間を暇を見つけて、年末の残った仕事を少し消化する。というわけで、多少睡眠不足のまま、新年を迎えた。

 新年の最初の朝は、9時に起床し、顔を洗い、ストレッチ体操をして、バナナ2本と水をコップ一杯。歯を磨き、薬を飲む。今年もまた、同じ朝の習慣から始まった。新聞を読んでいると、岐阜の友人から、ケータイで写真付きの年賀メールが届いたが、雪、雪、雪だった。中津川の実家には、弟たちが泊まり、親父と新年を迎えている。私は、妻と息子と3人で少し早めの昼食。友人からいただいた美味しい冷酒を飲み、雑煮を食べる。静かな元旦である。その後、年賀状のチェックと初詣。そして、日高の実家に新年の挨拶。夕食後、テレビで『相棒』を観る。これで、今日の行事はすべて終わった。

 ところで、昨日(去年)観たジェームズ・キャメロン監督の3D映画『アバター』 (Avatar)は、なかなか面白い映画だった。荒廃した地球から遠く離れた衛星「パンドラ」に住むナヴィ族は、原始的ながら自然と調和した暮らしをしている。ナヴィの村の下には、貴重な鉱物資源の固まりが眠っている。そこに、地球から鉱物資源を求めてやってきたスカイ・ピープル(地球人)が、遺伝子工学の知識を利用して、人間とナヴィを組み合わせた肉体を作り出す。それが「アバター」である。「アバター」は、人間の意識とリンクさせることで、人間がコントロールできるようになり、惑星パンドラで現実のナヴィとして実際に生活することができる。地球人は、このアバターを通して、ナヴィの村の秘密を探っているのだ。

 一方、地球の戦争で下半身麻痺になった元海兵隊員の主人公のジェイク・サリーは、双子の兄の死によって、このアバター・プログラムの参加者に選ばれる。サリーは、ある種の装置により、こちらの世界から、あちらの世界(ナヴィ族の世界)に行き来できるようになるが、ナヴィ族の生活の素晴らしさを知ると同時に、ナヴィ族の娘と結ばれることによって、やがて、自分たちのやろうとしていることの理不尽さを自覚し、ついにはナヴィの戦士として戦うという話だ。

 この映画は、とても象徴的な映画であり、ジェームズ・キャメロン監督は、現代のおける神話のあり方を探っているように思われる。これは、また、村上春樹が作ろうとしている世界でもある。そんなことを思って、朝日新聞を読んでいたら、今年の春に、『1Q84
』の続編「BOOK3」が出るという新潮社の広告が目に飛び込んできた。政権交代後の民主党がどうなるかということも含めて、また今年もいろいろなことが起こりそうな気がする。そういう意味では、わくわくどきどきしながら、2010年1月1日を過ごした。
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同期入社の同僚の退職

2006-06-25 22:23:11 | 日記・エッセイ・コラム

 私より1歳年下だが、同期入社の同僚が、7月7日をもって退職することになった。彼は、入社してから数年後に一度上司とどうしても合わず、退職したいと考えたことがあった。その時は、私は退職を思いとどまらせることに力を注いだ。そして、彼はその後30年近く同じ会社にいたことになる。私とは、職場が同じときもあったし、別々のときもあった。しかし、同じ会社の中で、唯一気の許せる友人であった。私の結婚式のときは、彼に司会と進行役をお願いし、それを見事に果たしてくれた。その彼が、普通であれば3年後に定年になるところを、少し早めに退職することになったのだ。

 もちろん、私の気持ちを言えば、とても寂しい。同期入社の同僚とは、おそらく戦友のようなものかも知れない。絲山秋子さんの『沖で待つ』でも触れたが、同期入社の同僚というのは、サラリーマンが持つ、特殊な人間関係である。もちろん、この関係を上手く説明した論文を私は知らないが、絲山秋子はその不思議な関係を少しユーモラスに描いて見せた。私と彼は、ほとんどライバルという関係になったことはないが、若い頃は彼のリードの下に、山に登ったり、飲みに行ったり、また、先輩たちと語り合ったりした。二人とも、結婚が遅かったので、今では信じられないくらい、夜遅くまで飲み歩いたこともある。

 私たちは、そのころ一体何と戦っていたのだろうか。私も彼も、団塊の世代に属するわけだが、大学時代は学園紛争の真っ最中に卒業してきた。そして、不思議なことに、私も彼も正規入社ではなく、途中入社だった。入ってすぐは、だから、かなり長い間、物流倉庫で働いていた気がする。彼の方が少し早く入社したので、彼の方が先に、編集に配属された。私は、途中研修のために編集に回されたが、実際に配属されたのはかなり後だったような気がする。だから、出版社の倉庫での物流でかなり肉体を鍛えたことになる。その後、編集部に配属され、途中、子会社に出向したりしたが、その後現在の編集部に戻ってきた。彼は最近編集部でも企画関係の方に配属され、それがあまり自分の思いとかけ離れていて辞めることになったわけだ。

 出版社の企画担当というのは、名前はいいが、どうしても雑用係のようになってしまう。なぜなら、本を作るという作業はそこでは行われるわけではないので、いわばイベント係のような役回りが多くなるのだ。私は、社長に編集に企画担当なんていらないと直訴したことがあるが、結局、編集総務的な仕事をしながらその部署は生きのこることになり、彼は1年前にそこの責任者になった。なったばかりで辞めることになったのだが、今年の最大のイベントはやり終えて、一区切り着いたところで彼は辞表を提出した。だから、もし辞めるのなら、今が潮時なのかも知れない。次のイベントや大きな企画を動き出してからだと、辞められなくなってしまうからだ。

 辞表を提出した次の日に、私は彼からメールを貰った。昔だったら、私は彼の思いとどまるように言ったはずだ。しかし、今回は、何も言わなかった。もう私たちは、今の会社では「上がり」直前にいるわけだ。むしろ、これから、定年後も含めて、残りの人生をどのように生きていくのかが日々問われ始める年齢なのだ。自分の人生のうち、30年以上を同じ会社で過ごしたと言うことは、それだけ会社の文化や風土が骨の中までしみこんでいるに違いない。そこからどれだけ自由になれるのか。あるいは、そこからどれだけ自由になって物事を考えられるか。実は、本当に問われているのはそういうことかも知れない。

 彼は、退職が決まってから、元社長に挨拶に言ったとき、次のように激励されたという。「男が一大決心をしてすることだから、もし失敗するようなことになっても後悔しない人生にせんといかん。3年後、もしわしが生きていたら、元気な顔をまた見せに来なさい。」私もとてもお世話になった人であるが、まだまだしっかりしていると思った。私などが出る幕などないと思う。まあ、会社を辞めたからといって、どこか遠くに行ってしまうわけではないのだから、会おうと思えばいつでも会えるところにいる。ここで距離ができてしまうとしたらそれだけ私が会社人間になってしまったことになるわけだ。

 今日は、一日妻に付き合っていた。今5年生の息子の進学先のことで、私立中学校の相談会が立川市のグランドホテルであり、そこに行ってきたのだ。そこで有名私立中学校の担当者と話をしてきたが、私たちの息子の学力のことは一切聞かずに、いろいろと親切に学校の状況を教えてくれた。有名な学校ほど学力のことはほとんど話さなかった。子どもたちの学校生活のことを話していた。妻は、函館ラサール校の副校長の話にとても感動していた。私は息子の将来を考えながら、退職する同僚のことを思った。まだ、退職が決まってから、彼とは時間を取ってゆっくりと話したことがないので、一度じっくりと語り合ってみたいと思った。

 彼の退職は、我が社から見れば退職だが、彼の人生では新たな再出発である。私たちは、会社の中であちらに回されたりこちらに回されたり、自分の本意でないところに配属されてしまうこともある。そして、定年になるまでそこにいることが多い。それは、本当は幸せなことだろうか。考えてみたら、私の会社人生で、自分が選んでいったところなど本当にあっただろうか。配属された先で、何とか与えられた仕事をこなし、新しい仕事を少しだけ増やし、多少会社に貢献したつもりで、自己満足しているだけのような気がする。少なくとも、これからは、自分で残りの人生は決めていかなければいけないことだけは確かだと思われる。退職するときになって初めて、会社というものは、そこに属しているもののためにこそある存在だということに気づいても遅い。

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津田梅子の卒業生への「塾長式辞」

2006-06-11 22:03:33 | 日記・エッセイ・コラム

 昔、20年くらい前に、津田梅子について調べ、簡単な文章を書いた記憶がある。明治4年(1871年)、5人の少女が選ばれて、留学生としてアメリカに派遣された。津田梅子はその中の最年少で、わずか6歳だった。6歳ではあるが、留学したアメリカから達者な候文で手紙を書いていたから、早熟で利発な子どもだった。それから、11年、ほとんど日本語を忘れてしまって梅子は日本に帰ってきた。梅子たちをアメリカに送り出した、「これからは女性も教育を受けるべきだ」と考えた「開拓使本庁」は既になく、後を引き継いだ文部省は、梅子たちの受け入れ体制など考えてもいなかったようだ。そのときから、梅子の苦難の道が始まる。

 津田梅子とは、津田塾大学を創設した人である。南山短期大学の近江誠教授が『挑戦する英語!』(文藝春秋/2005.12.10)で、第4章「先駆者となる」の中にこの津田梅子の「卒業生へ『塾長式辞』」を取り上げている。これは大正2年(1913年)に、42歳になった梅子が、当初は「女子英学塾」と言った梅子自身が創設した女子高等教育機関での塾生の卒業式での式辞である。まだ残っている雑音に幾分かき消されがちで、どこか遠くでソプラノで歌うかのように流れてくる津田梅子の肉声は、感動的である。約100年近くも昔の声が聞こえてくるのだ。

 実は、日本で初めてレコードが発売されたのは1909年で、津田梅子の卒業式の式辞を朗読したときの4年前である。津田梅子の式辞は、現在のコロンビアミュージックエンタテインメントの前身のレコード会社のレコードに早稲田大学総長の大隈重信など数人のスピーチと一緒に録音されていた。このレコードは、津田塾大学に2枚残っていたが、1枚はヒビが入り、もう一枚は雑音が酷く、とても聞き取れるようなものではなかったようだ。しかし、津田塾大学創立100周年事業の一環で資料を整理していたときに、梅子のスピーチの手書き原稿が発見された。それをきっかけに、津田塾大学では、早稲田大学音響情報処理研究室の山崎芳男教授に、この歴史的な音源を現代に甦らせることを依頼した。

 今私の聞いている津田梅子のスピーチは、そうして聞くことが可能になったものを『挑戦する英語!』に収録したものだ。私は、近江教授の前の本の『感動する英語!』(文藝春秋/2003.12.25)も愛読している。こちらの方には、キング牧師の「I have a dream!」で有名な1963年の演説や、「Old Soldiers Never Die」で有名な、マッカーサーの1941年のスピーチが収録されている。もちろん、そのほかにも、興味深いスピーチが収録されているのだが、本人の肉声が聞けるというのはまた別の興味深さがある。ただし、私の英語力の未熟さから肉声の本当の面白さはまだ十分に味わうことまではできていない。

 津田梅子は、6歳からアメリカに行ったので、11年後に帰ってきたときには日本語を全く忘れてしまっていたと言われている。それは当然で、現在の脳科学の知見によれば、母語が決定づけられるのは10歳頃で、バイリンガルの子どもたちも10歳頃に自分の母国語をどちららにするか悩む時期があるらしい。もちろん、それは、日本語と英語を同時に使っていて悩むのであり、津田梅子のように全く英語で生活を送っていた場合には、母語は必然的に英語になってしまったに違いない。だから、梅子は、日本語より英語の方が堪能であり、式辞も英語のスピーチになったと思われる。

  Graduation from school may be compared to the launching of a ship that starts out to meet the test of wind and wave.(近江誠著『挑戦する英語!』p51)

 梅子は、卒業して社会に出て行くことを、船旅(voyage)に例えている。私には、梅子が未知の国アメリカに向かって横浜から船で出発したときの気持ちがそこに込められているような気がして仕方がない。

  One great beacon light is Truth. It will shine in every one of our souls, if only we do not refuse to see. It points out to us our own shallow attainments, our petty meannesses, our selfishness, vanity or jealousy; and reveals to us the good in others. Thus we may escape the rocks of pride and self-love.(同上p51)

 これは、梅子のアメリカでの体験に裏打ちされた言葉だと思う。人生を導く灯台の明かりの第1に「真理」(Truth)を持ってくるというところに津田梅子らしい生き様がある。

  Follow also the guiding lights of Love and Devotion. In women, these are called instincts, but yet how narrow often is our love, how fickle and shallow, our devotion. Learn to love broadly, deeply and devotedly, and your lives can not fail. With nobler desires, greater earnestness and wider sympathy not limited to just a few, but taking in the many even beyond the home, the weakest of us may attain success.(同上p52)

 梅子はアメリカでランマン夫妻のもとで育てられ、梅子もランマン夫妻も国費で留学しているという責任を感じていたという。そして、梅子とはアメリカで、クリスチャンになっている。梅子が「愛」と「献身」というとき、彼女の脳裏に去来していたのは、そうしたアメリカでの体験やこれからの日本の女性に対する期待が込められているような気がする。当時、「女子英学塾」を卒業するというのは、とても期待されていたに違いない。まさに「You have had wider opportunities than many Japanese women.」だったのだ。

 それにしても、この梅子のスピーチは、少しも古くないことに驚かされる。梅子のスピーチの少し前に、ケネディー大統領の「Inaugural Address」が載っている。そこで敬虔なカトリック教徒だったケネディーが最後に、「Let us go forth to lead the land we love, asking His blessing and His help, but knowing that here on earth God's work must truly be our own.」と結んでいるのを読んだが、津田梅子のスピーチのほうが新しい印象を覚えるほどだ。

 私は、いま、脳の老化のを防ぐ一つの方法として、この『感動する英語!』と『挑戦する英語!』の2冊を毎日少しずつ声に出して朗読したり、ノートに書き写したりしている。それで本当の脳が若返るのかどうかは今のところ不明だが、ここに掲載されている英文は、基本的にスピーチであり、朗読するにはとても適している。そして、何度も読み返している内に話し手の人柄が、少しずつわかってくるような気がしてくるから不思議だ。もちろん、それはほんの一部だが、話し手の一つの歴史的な側面を見ることができて、とても興味深い。

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スペイン音楽の午後

2005-08-07 22:48:36 | 日記・エッセイ・コラム
 私の住んでいる街の小さな喫茶店で、山田陽一郎さんのフラメンコ・ギターのミニ・コンサートがあった。お客はほぼ30人くらいで、皆何らかの関係で山田さんをよく知っている人たちだ。私も、義姉がフラメンコをやっていて、そのギタリストの演奏で踊っているのを見かけたことと、彼女のパーティーで何度がお会いしたことがあって一応顔見知りの仲間だった。コンサートは、2時半から3時45分までで、一月ほど前にギターの勉強にスペインに行っていたときの話などを織り交ぜて、楽しいひとときを過ごさせてもらった。
 演奏は、前半が「アルハンブラの思い出」「禁じられた遊び」「コーヒールンバ」「カプリッチョ・アラベ」で、後半が山田さん作曲の「光の中の影」「ラ・カレタ海岸」「ソレアレス」「赤の大地」だった。終わってから、アンコールに応え、4・5人のフラメンコ仲間の踊りと一緒に一曲演奏してくれた。私にはその曲名を知らなかったが、聞いたことがある曲だった。さすがに、狭いフロアでの踊りだったので、あの情熱的な踊りというわけにはいかなかったが、皆楽しそうに踊っていた。

 タルレガの「アルハンブラの思い出」は、とても懐かしい曲だ。私は高校生の頃、吹奏楽部に入っていて、クラリネットを吹いていたが、時々クラシックギターを練習したりしていた。アルバイトでためた金で、やすいクラシックギターを買い、クラシックの教則本を見ながら練習した。確かその教則本の一番後ろに載っていたのが、この「アルハンブラの思い出」だ。この曲は、タルレガがアルハンブラ宮殿を訪れたとき、とても感動してその夜のうちに作曲したと言われている曲だが、トレモロのところがとても美しい曲だ。そして、結局最後までそのトレモロが上手く演奏できなかった。

 私は、大学時の学園紛争の中で前歯を折り、クラリネットを諦めたが、実は高校の時稲刈りをしていて誤って左手の小指の先を少し切り落としてしまって、結局ギターを諦めた。前歯も小指もクラリネットやギターにとってとても大切な体の一部だ。勿論、私の場合は、プロのクラリネット奏者やギター奏者になるなどという大それた夢や希望を持っていたわけではなく、そのころ大好きだったバッハなどのバロックの音楽を少しでも理解できるツールになればいいと思っていただけだったので、挫折感があったわけではなかった。それでも、数日は悲しかった。

 コンサートに行くと、何故だか、私は金沢で過ごした学生時代のことを思い出す。私の学生の頃は、名曲喫茶というのが流行っていた。金沢には「モザール」という有名な名曲喫茶があった。有名ではあるが、もっぱらクラシックばかりをかける喫茶店でお客は少なかった。学生時代は、貧乏でとてもコンサートになど行く金がなかった。だから、有名な演奏家の演奏が録音されているレコードを友だちに借り、それを名曲喫茶に持って行ってかけてもらい、いっぱいの紅茶をゆっくり飲みながら聴いた。

 そのころ私は、バッハやモーツアルトの幾つかのすきな曲の楽譜を買い求め、それを持って名曲喫茶に行き、レコードを聴きながら、その楽譜を眺めていたことがある。当たり前だといえば当たり前だが、五線譜の上に書かれた記号と耳から聴いている音の流れとが見事に対応していることにとても驚いた。確かに、演奏家は、この譜面通りに演奏しているのだとそのとき思った。そして、この曲を書いたバッハやモーツアルトも同じように演奏したし、自分の耳で聴いていたはずだ。それがとても不思議な感覚だったように思われた。更に、不思議なことに、楽譜を眺めながら曲を聴いていると、なぜだがその曲が生まれてきたところに遭遇しているような感じがしたものだった。

 それは、学生の自意識過剰な思い入れに過ぎないが、そもそも学生は自意識過剰であることが特権のようなものだ。ある意味では、それでわかったつもりになっていたのだと思う。今では、もっと静かに、幸福感を感じることができる。学生の頃はそういうことは一人で聴くものだと決めていたのだが、今では回りに妻や友人がいても、気楽に聞けるようになった。年のせいかもしれない。勿論、我が家で一人留守番をしていて、紅茶でも飲みながら、バラック音楽を聴いていて本当に幸せな気持ちになることがあるが、それよりももう少し気楽に音楽を聴くほうが好きになっているようだ。

 私は、山田さんのミニ・コンサートには妻と二人で行ったのだ、隣の妻のことはすっかり忘れて、そんな昔のことを思い出しながら、スペイン音楽を楽しんだ。帰り際、「楽しかった?」と妻に聞かれて、「そうだね」と答えたら、「楽しかったと言いなさい!」と妻に怒られてしまった。私は、どうやら、妻の横で真抜けた顔をしながら演奏を聴いていたようだった。
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