電脳くおりあ

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定住と農業革命について(続)

2024-02-11 16:28:54 | 政治・経済・社会
 先週のブログで、ハラリの『サピンエス全史』では、農業を始めて定住化が進んだというふうに読めると書いた。ところが、狩猟採集民が建設したギョベクリ・テペの遺跡について、面白いことを述べている。

<ギョペグリ・テペの構造物を建設するには、異なる生活集団や部族が何千もの狩猟採集民が長期にわたって協力する以外になかった。そのような事業を維持できるのは、複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかなかった。
 ギョペグリ・テペは、他にもあっと驚くような秘密を抱えていた。遺伝学者たちは長年にわたって、栽培化された小麦の起源をたどっていた。最近の発見からは、栽培化された小麦の少なくとも一種、ヒトツブコムギがカラカダ丘陵に由来することが窺える。この丘陵は、ギョペグリ・テペから約三〇キロメートルのところにある。
 これは、ただの偶然のはずがない。ギョペグリ・テペの文化的中心地は、人類による最初の小麦の栽培化や小麦による人類の家畜化に、何らかの形で結びついている可能性が高い。この記念碑的建造物群を建設し、使用した人びとを養うためには、膨大な量の食べ物が必要だった。野生の小麦の採集から集約的な小麦栽培へと狩猟採集民が切り替えたのは、通常の食料供給を増やすためではなく、むしろ神殿の建設と運営を支えるためだったことは十分考えられる。従来の見方では、開拓者たちがまず村落を築き、それが繁栄したときに中央に神殿を建てたということになっていた。だが、ギョペグリ・テペの遺跡は、まず神殿が建設され、その後、村落がそこ周りに形成されたことをしさしている。>(『サピンエス全史』より)

 私は、「従来の見方」のほうが正しいとしてなぜいけないのか分からない。そこに村落ができ、その後、小麦が栽培化されたのだと考えてなぜいけないのか。むしろ、小麦栽培を素晴らしいというのは罠だといっているくらいだから、わなにかかったしまったのは、「複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかなかった」からこそ、小麦の栽培に特化した人びとの集まりができたのだと思う。小麦栽培をしている人たちが、神殿づくりもしたのである。あるいは、税のように作った小麦を神殿づくりに携わる人に渡したのかもしれない。

 ハラリがいうように、狩猟採集民の生活のほうが、小麦に家畜化された生活よりはるかにいい。だから、彼らが進んでそうしたとは思えない。ハラリは、罠にかかったのだというが、そうではない。それは、産業革命が起こり、機械が普及することにより、より便利になったように思われるが、それは、わなであると言っているようなものである。この点は、柄谷行人が『世界史の構造』で述べている次の言葉の通りである。

<たとえば、「新石器革命」あるいは「農業革命」という言葉は、「産業革命」からの類推に基づいている。しかし、もし産業資本主義や現代国家が産業革命によって生まれたというならば、誰でも、それが逆立ちした見方だということに気づくだろう。紡績機械や蒸気機関といった発明は確かに画期的であるが、それらの採用は世界市場の中で競合する重商主義国家と資本制生産(マニュファクチャー)の下にのみ生じたのである。>(『世界史の構造』より)

 だから、そんなことなどしたくなかった「農業革命」をある意味では罠にかかったように進んで人々がしたのはなぜかということが問われなければならない。それは、定住化することによって生まれた氏族社会や部族社会から次第に首長制国家や、アジア的専制国家ができたからだというべきだ。そして、農耕だけでなく、狩猟採集生活も同時にやっていた人々が、国家によって、農耕民として固定化されたからだ。

 定住と農業の関係は、私は、ハラリより、西田正規著『人類史のなかの定住革命』の説の方を支持したい。定住することによって、植物の栽培化、動物の家畜化が生じたと考えたほうがわかりうやすいと思う。そして、なぜ、いやな農業や牧畜に従事するようになったかは別の理由があったと考えるべきだ。それこそ、社会がそれを必要としたというべきだ。また、定住化したのは、気候変動によると考えるしかない。つまり、歴史の偶然である。ハラリがいうように、遊動する狩猟採集民は、定住を欲したわけではない。

<中緯度の森林環境に定住民が出現する背景には、亜寒帯的ステップや疎林に。おける狩猟に重点をおいた旧石器時代の生活から、晩氷期以降の温暖化による温帯森林の中緯度地帯への拡大に対応して、魚類や、デンプン質の木の実や種子に依存を深め、漁網やヤナなどの携帯できない大型漁具や、食料の大量貯蔵が発達したことがあった。初期の定住生活者の出現は地域によって多少の違いはあるものの、日本列島においても、ヨーロッパ、西アジア、北米の中西部とカリフォルニアにおいても、更新世末期から完新世にかけて温暖化の時期に現れる。>(『人類史のなかの定住革命』による)

<中緯度森林地帯における、遊動民から定住民、そして、定住民から農耕民にいたる歴史的過程のどちらがより重要な意味を含んでいるのか。これらのことから私は、採集か農耕かということより遊動か定住かということの方が、より重大な意味を含んだ人類史的過程と考え、生産様式を重視する「新石器時代革命」(=食料生産革命)論に対して生活様式を重視する「定住革命」の観点を提唱した。>(同上)

<農耕が人類史においてはたした意味は、定住生活を生み出したことにではなく、中緯度森林の段階に見られないさらに高い人口密度や、より大きな集落や都市、より複雑な社会経済組織などの形成過程においてこそ評価される。すなわち、それ以前の素朴な社会にとどまっているなら、たとえ栽培型植物の栽培が行われたとしても、中緯度森林の定住民の範囲内にあるものとして理解しておくべきである。>(同上)

 小麦や稲、トウモロコシ、ジャガイモなどの主食になる植物の栽培は、それぞれの地域で、独自に発生し、発展し、世界経済が普及するにつれて、世界中に広まった。つまり、定住していれば、必然的に栽培植物は、見つけられ発展していくのであり、それらが定住生活を促したわけではなかったとみるべきである。狩猟採集民としての生活は、サピエンスの数万年の歴史を持っており、定住化が始まったのは、1万年とすこし前であり、日本で言えば縄文時代である。弥生時代になってから農耕民が存在し始めたのであり、それから数千年しかたっていない。定住化してから、稲作が普及するまでのほうがはるかに長いのだということを忘れるべきではない。

 決して、米や小麦によって人類が奴隷的な地位に陥ったわけではない。それは、定住生活のなかで氏族社会が発生し、やがて都市や国家が生まれてきたことと関係しているのだ。小麦や稲作は、最初の一歩が踏み出されれば、すぐに拡散して行くことができる。定住者の交流があればなおさらである。山上憶良の貧窮問答歌に登場するような農民が存在したのは、彼が属していた大和政権ができたからであり、彼らは、米作りだけに押し込められてしまったからだ。

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