電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

数学者の美的感覚

2006-01-29 21:17:08 | 文芸・TV・映画

 東野圭吾の『容疑者χの献身』(文藝春秋社刊)を一気に読み終えた。午後1時頃から読み始め、読み終わったのは4時少し前だった。1985年に『放課後』で江戸川乱歩賞を受賞し、1999年に『秘密』で日本推理作家協会賞を受賞し、そして、今回第135回直木賞をこの作品で受賞した。物理学者湯川学シリーズのミステリーだが、とても面白いトリックと、そこに秘められた数学者の愛の物語が、今回の直木賞の対象になったようだ。私は、東野圭吾の作品をそれほどよく読んだわけではないが、現在テレビ放映中の『白夜行』など今のところもっとも売れているミステリー作家の一人でいることは確かだ。

 私はこの小説を読みながら、森博嗣の『すべてがFになる』(講談社文庫)から始まる犀川創平と西之園萌絵シリーズを思い浮かべていた。そこに、天才工学博士・真賀田四季が出てくる。四季は、犯人なのだが、最後まで捕まらない。犀川創平と真賀田四季との関係は、湯川学と容疑者χに当たる石神哲哉との関係とは全く似ていない。石神哲哉は愛する隣人のためにただ一人で罪を背負って生きようとし、そのために自分のすべての能力を使う。それは、真賀田四季の生き方とはおよそ正反対のようだが、数学者としての矜恃のようなものは似ている。

「興味深かった」石神はいった。「以前おまえにこういう問題を出されたことがある。人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか──覚えているか」
「覚えている。ぼくの答えは、問題を作る方が難しい、だ。解答者は、常に出題者に対して敬意を支払わねばならないと思っている」
「なるほど。じゃあ、P≠NP問題は? 自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確かめるのとでは、どちらが簡単か」
 湯川は怪訝そうな顔をしている。石神の意図がわからないのだろう。(『容疑者χの献身』(p267・268)

 ここで結論を言ってしまうと、これから読んでみようと思う読者に悪いので、最後に石神が観念して、自白をするのだがその自白の内容が、正しいか正しくないのかがこの小説の山になるとだけ書いておこう。私は、この小説を読んで、ほろりときた。多分、このほろりとくるところが、直木賞になったのだと思う。しかし、本格ミステリーは、本来人間の生き方というものを追求していたら書けない。大体、起こるのは殺人事件であり、その殺人事件は、巧妙に仕組まれていて、そうした仕組みを考えること自体が異常だというほかない。殺人事件はどんな理由があるにせよ、許されないことに決まっている。そこのところを見事に書いた作品だということはできる。

 私は、東野圭吾の『容疑者χの献身』は、ミステリーとしてはとても良くできていると思った。確かに、彼がこれまで書いてきた中で最高の傑作だと思われる。しかし、この結末は、私をほろりとさせたが、そこが少しこの作品の欠点かも知れないのだ。「男がどこまで深く女を愛せるのか。どれほど大きな犠牲を払えるのか──」というのが、この本の帯に書かれていたコピーだが、私には、それは、この小説の価値ではないと思われる。単なるミステリーの面白さで良い。犯罪の動機が「愛」であるということは、同情をかうかもしれないが、ミステリーの価値を高めるわけではない。また、この小説を「愛」の物語として読んだら、多分面白さは半減するに違いないと思った。むしろ、「数学者の美的感覚」という問題だと考えたほうが面白いと思った。もちろん、「愛」は愛として。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

譲り合い

2006-01-15 17:17:52 | 生活・文化

 土曜の午後、池袋に行き、西口にある「ミスターミニット」で靴の修理を依頼した。靴底が痛んできたので、かかとのところとつま先のところの裏側を少しはりかえて貰ったのだ。4200円だった。2万円くらいの靴だが、履きやすい靴だったので、修理して貰った。時間は丁度1時間くらい。待っている間、東武デパートの中にある旭屋書店で本を買い、地下1階にある喫茶店でコーヒーを飲んで時間を潰した。帰りは、午後4時40分の飯能行きの急行に乗った。電車は混んでいたので、所沢まで立っていた。所沢で席が空いたので座った。私の隣に一人分のスペースを空けて、その向こうに40くらいの女性が座った。そこに所沢から二人の老夫婦が乗ってきた。

 その二人の年寄り夫婦は、私の隣に一つだけ空いていた席にだれが座るかお互いに譲り合っていた。一瞬迷ったあげく、おじいさんに進められておばあさんの方が席に着いた。私は、その刹那、おじいさんに向かって「ここに座ってください」と立ち上がった。すると、おばあさんの向こう側に座っていた女性が立ち上がり、「こちらに座ってください」と声をかけた。おじいさんは迷っていた。私は、その女性に「私が譲りますかいいですよ」と言ったが、その女性は、「いえ、私の方が譲りますから」と言って立っていた。おじいさんは、女性の方の席を選んだ。おそらく、私の方がその女性より年寄りに見えたらしい。女性は、私に「どうぞ座ってください」と言った。

 この間、1・2分の出来事だった。そして、何事もなかったかのように、次の次の小手指の駅まで、私は席に座り、その女性はおじいさんの前で立っていた。小手指で私の右側の席が空いたので、女性はそこに来て座った。おじいさんとおばあさんは、武蔵藤沢で降りた。降りるとき、私と女性に丁寧に挨拶をして降りていった。私と女性は、同時に、「どういたしまして」と言った。そして、何事もなかったかのように、私は持参していた本を開いた。とはいえ、私の隣に座っている女性の存在感を私はずっと感じ続けた。

 結局、その女性も私も終点の飯能駅まで乗っていた。多分、お互いを意識しながらそれぞれが自分の世界にこもっていた。先ほどの老夫婦も、乗っていた間私たちに時々視線を投げかけてはいたが、特に何かを語りかけてきたわけではない。多分、彼らの意識の中では何らかの形で私たちの存在感があったに違いない。だから、彼らは降りるとき、私たち二人に向かってお礼を言って降りていった。私とその女性は、一緒に電車を降りた。降りたときに私が「先ほどは、どうもありがとうございました」というと、とても軽やかな声で「どういたしまして」といってほほえんだ。

 その女性は、おそらくそんなに若くはなく、やせ形でほっそりしていて、どこかであったことがあるような気がした。私は、彼女とこのまま並んで駅の改札を出て行くのが何となくいけないことのことのような気がして、彼女からすぐ別れて、プラットホームのベンチに荷物を置いて、今まで脱いでいたコートを着た。前を見ると、その女性ははるか先を歩いていた。私は、その女性の後ろ姿を眺めながら、何となく心があたたかくなるのが分かった。ほんの少しの言葉だけを交わしたのだが、なんだかたくさんのことを語り合ったかのような、そんな気持ちになったのだ。そこには、確実に人間としてのコミュニケーションがあったのだと思う。

 小学校の道徳の副読本に出てくるような話だが、「お年寄りや身体の不自由な人に席を譲ってあげる」という行為は、それ自体特別な行為ではない。そういう気持ちももちろん大事であろう。しかし、そこで交わされるコミュニケーションの結果、お互いが人間として触れあったということが本当はその人にとって大事なことだと思う。ある一つの状況の中で人間と人間が交わすコミュニケーションは、その状況とともに、その人間を人間として存在させる。人間として存在すると言うことは、自分も相手もお互いが人間として存在感を共有するということだ。

 普段私たちは、電車の中では、全くの他人であり、あたかもそこに座っている人たちを風景のように眺めている。眺めに飽きれば、私たちは本を読んだり、音楽を聴いたり、携帯メールを読み書きしたりと自分の世界に戻っていく。しかし、ほんの些細なコミュニケーションの結果、そこに座っていた4人は、お互いに意識し合いながら、人間の温かさのようなものを感じていたような気がした。人間とは、何かのきっかけでそうことになりうる存在なのだということを実感した。殺伐として事件ばかりが起きているようだが、私の日常の中に爽やかな風が通りすぎていった。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脳がフリーズする

2006-01-10 23:26:12 | 自然・風物・科学

 先日、話をしていて、不意に次に何を話していいか分からなくなってしまった。そのときは、大した話ではなく、何気ない話だったので、適当にごまかして済んでしまった。しかし、そのことは強い記憶になって残っている。その時、その前に話していたことや次に話そうと考えていたことをその瞬間に忘れてしまっていたのだ。結論は、覚えていた。しかし、その結論に至る過程を説明しようとしていて、その話の全体が突然見えなくなってしまったのだ。これは、多分、私が時々陥る物忘れと関係がありそうだ。私は、自分が「ぼけ始めたのかな?」と疑った。そして、年を取ってきたからかも知れないと思った。

 しかし、どうもそうではなさそうだ。もちろん、年を取り、記憶力が衰えてきたということは多少あるかも知れないが、たびたび起こる物忘れは、どうも違うらしい。築山節さんは、『フリーズする脳』(NHK出版/2005.11.10)の中で、「環境の中に脳をボケさせる要因があり、本人がそれを補う努力をしていなければ、人は簡単にボケます」と言っている。つまり、脳はボケるようにつくられているということだ。脳というのは、たくさんの神経細胞が複雑な回路をつくっていて、その回路の機能として多様な活動がおこわなれている。その回路つまりネットワークは使われなければ機能低下を起こす訳だ。

 たとえば、人に話しかけられたときにうまく反応できない。言葉がなかなか出てこない。思考がすぐ途切れてしまう。よく知っていたはずの人や物の名前が思い出せない。メールを送ろうとしてパソコンに向かったものの、何を書こうとしていたのか完全に忘れている。電話で人の話を聞いた直後に、もうその内容が頭から抜け落ちている。人の話や文章を理解して記憶することができない……。そういう当たり前にできると思っていることが、できない瞬間。あのもどかしい状態を本書では「フリーズ」と呼びます。(『フリーズする脳』p8・p9)

 築山さんは、財団法人河野臨床医学研究所理事長で、脳神経外科の専門医である。築山さんは上記の本の中で、幾つかのケースを取り上げて、脳のハードの障害でない場合、何が原因でそういう状態になったのかという分析と治療の方法を書いている。そして、不思議なことに、それが現代人の知的環境のせいでそうなるらしいのだ。つまり、忙しさから解放されて、便利になった生活環境が突然そうした要因になりうるということだ。典型的なパターンは次のような場合だ。

 たとえば、一日中パソコンに向かっている仕事。隣の席との間はパーティションで区切られ、耳にはヘッドフォンを当てて音楽を聴いている。コミュニケーションは基本的にメールで行う。思い出す代わりのようにインターネットで検索する。計算などの雑多な思考作業は道具に任せる。そして、仕事を終えて家に帰ってくると、家族と話すこともなく、テレビを見て寝てしまう……。こういう環境の中で、脳は、ある種の訓練の機会を劇的に失っている可能性があります。(同上・p5)

 仕事が安定し、楽になればなるほどそうなりやすいということだ。私の場合で言えば、仕事のかなりの部分でパソコンを使用していること、結婚して家事のことは一切かみさん任せになってしまったこと、仕事の雑用を部下に任せるようになってきたことなどが大きな原因らしい。もちろん、仕事で外出したり、人と会ったりしているが、会社の帰りに居酒屋に寄り、異業種の人と仕事を離れて話をしたり、一緒に遊んだりということもなくなった。ますます、あぶない環境に違いない。こうなると子どもの「ゲーム脳」だけの問題ではなくなる。

 脳というのは本来身体全体の動きや働きと密接に関係しながら発達してきたはずだ。私たちはもう一度、自分の身体と脳の関係をしっかりと考えてみるべきかも知れない。そして、たとえ便利だからといって、自分の身体(もちろんそれには脳も含まれる)を使わずに道具に頼り切りにならないようにする必要がありそうだ。読んだり、書いたり、計算をしたりという活動は、子どもの学習に必要だけでなく、脳の機能の若さを維持していくためにも必要らしい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

国家の品格ということ

2006-01-09 22:27:49 | 政治・経済・社会

 藤原正彦著『国家の品格』(新潮新書/2005.11.20)が売れているらしい。昨年の12月15日までに6刷りまでいっている。藤原正彦さんは、1943年生まれで、現在お茶の水女子大学理学部教授。新田次郎さんと藤原ていさんの次男で、有名な数学者。小川洋子著『博士の愛した数式』の数学者のモデルになった人で、小川洋子さんとの対談集を出している。数学者なのに、いや数学者だからこそかもしれないが、世の中論理で割り切れるものばかりではない、むしろ論理で割り切れないところに大きな問題があると説いており、日本の武士道の復権を述べているところが面白い。

  これは、最近養老孟司さんが『無思想の発見』(ちくま新書/2005.12.10)を書いた動機とよく似ているのかもしれない。そして、日本は最近、アメリカ流の論理を強調し、伝統的な情緒の世界を切り捨てようとしていると警告している。ただ、藤原さんは、養老さんとは、ほとんど反対方向に論を進めているようだ。情緒も論理も所詮、脳がひねり出した産物であり、その脳は日々変わる身体の一部であるにすぎない。そして、その身体で自然と慣れ親しんでいるのが普通の日本人の特色だというのが養老さんの論理だ。

 この本は、藤原さんのアメリカかぶれの反省から出発して書かれたものだ。アメリカの大学で教えていたときに身についた論理主義を日本に帰ってから実践してみたが、どうもそれがうまくいかなかった。その後、イギリスで1年ほど暮らす経験をして、日本の伝統を見直すようになったという。つまり、イギリスやアメリカに対して日本人としての自分の誇れるものがなんなのかやっと分かったという。

 イギリスから帰国後、私の中で論理の地位が大きく低下し、情緒とか形がますます大きくなりました。ここで言う情緒とは、喜怒哀楽のような誰でも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった。教育によって培われるものです。形とは主に、武士道精神からくる行動基準です。
 ともに日本人を特徴づけるもので、国柄とも言うべきものでした。これらは昭和の初め頃から少しずつ失われてきましたが、終戦で出酷く傷つけられ、バブルの崩壊後は、崖から突き落とされるように捨てられてしまいました。なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、正気を失い、改革イコール改善と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです。(前掲書P5より)

 私には、藤原さんの主張は、よく理解できる。共感さえする。そして、多くの読者の共感を得ているのは、いままで何となくわだかまっていた自分の心の中の思いを見事に表現してくれたという思いがあるからだと思われる。つまり、多くの日本人は、藤原さんのように思っているのだと思う。しかし、彼らはそのように表現できなかった。特に、今働き盛りのサラリーマン(日本人のかなりの部分)は、そう思っても、口に出して言えなかったといった方がいいかもしれない。

 「権力を批判する自由」以外の「自由」は必ず制限されるべきだし、実際制限されている。また、平等という名のもとで行われている不平等な活動の結果たくさんの差別が生まれている。「国家とは、人民が自由を放棄した状態を言うのです」という主張は、鋭い。だからこそ、権力者は常に批判にさらされるべきだというは正しいと思う。しかし、自由・平等・民主主義というのは、論理としては美しいが、現実には破綻しており、行動の指針たり得ないなどとたやすく私たちは、口にできない。

 藤原さんは、品格ある国家の指標として、①独立不羈、②高い道徳、③美しい田園、④天才の輩出、という4つを上げている。もちろん、天才はつくるものではない。本人は自ら天才になるのだが、おそらく天才はつくられるものなのだと思う。藤原さんの言葉によれば、①から③までの指標が実現されると、天才が育つのだそうだ。そして、日本には、ノーベル賞を受賞した科学者が何人もいますし、それ以外にも1千年以上も昔から世界でも一流の人材が存在していたわけだ。「もののあわれの心」と「武士道精神」というのが、藤原さんの強調する道徳だが、要するに「論理」や「合理」を越えた精神を大切にしたいということだと思う。

 ただ、その主張には養老孟司さんと比べると多少の危うさがありそうだ。「民衆」を信じていないと言ってしまうところや、「エリート」に対する期待があるところでその危うさが出てくる。もちろん、「民衆」というのがある意味ではフィクションであるというのは事実だと思われるが、その意味では「エリート」というのもまたフィクションなのだと思う。「もののあわれ」を感じ取り、いまもまだ「武士道精神」を抱いているのは、名もない日本人であって、おそらく国の宰相ではないと思われる。

 日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的提言。(カバーのPR文より)

 この文章は、代表的な読者の思いをぴたりと言い当てている。藤原さんの思想は、とてもよく分かり、私たちの直感や日常的な感性にとても近いところから発想されている。だから、多くの人が、正に自分の思いを代弁してくれていると感じ地いるに違いない。おそらく、この本を読んで、痛快に思った人はたくさん居るだろう。しかし、私たちの日常的な感覚をそのまま思想に昇華しようとすると、とても危ういものになりそうだと言うこともまた事実なのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする