電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『岳』または、小栗旬の島崎三歩

2011-06-19 22:16:21 | 文芸・TV・映画

 昨日、突然のかみさんの要望で、ユナイデット・シネマ入間に行き、『岳』を観た。9時頃、もう終わっているかなと思いながらWebで確認したら、1日1回だけ、10時45分からやっていた。かみさんは、掃除を簡単に片付け、私はメールのチェックやら、書類の整理などをしてから、かみさんの運転で入間市の「まるひろ」百貨店に向かう。そこの駐車場に車を入れ、歩いて劇場に向かう。Webで予約をしてあったので、チケットをプリントアウトし、ポップコーンとアイスティーを買い、中に入る。10時20分くらいにScreen2に入ると、まだお客は私たちだけだった。映画は、北アルプスの山々を背景に、遭難した登山家たちを救助する人たちの戦いをさわやかに描いていて、感動的だった。

 この映画の原作は、ビッグコミックに連載されていた石塚真一の『岳』というコミックだ。私の仕事仲間に山が好きでよく単独で山登りをしている若い女性がいるが、彼女がこのコミックが好きで、しかもこの映画を観て、「小栗旬の三歩は、漫画の三歩は超えられないが、長澤まさみの久美ちゃんは漫画の久美ちゃんは以上だったと思います。」と言っていた。なかなか面白い意見だと思った。私もそう思う。しかし、私は、小栗旬がダメだったと言いたい訳ではない。小栗旬は、大河ドラマの石田三成、獣医ドリトルの鳥取健一、TAJOMARUの畠山直光など、私の好きな役者だ。勿論、かみさんも好きで、山が嫌いなくせに珍しくこの映画を観ていた。

 『岳』の主人公、島崎三歩は、ネパール、北南米、ヨーロッパなどの世界中の山に登り、高度な山岳技術をもっていて、その上山の素晴らしさと、事故の悲劇をよく知っている男であり、本人は、山岳救助のための民間ボランティアだと言っている。一方の椎名久美は、長野県の北部警察署の職員で、山岳救助隊員になったばかりである。2人の役回りは、ある意味では、『Dr.コトー診療所』の医師五島健助と看護師の星野彩佳、あるいは『獣医ドリトル』の鳥取健一と多島あすかの関係に似ている。それらのコミックは、皆映画やテレビドラマになっているが、井上真央の多島あすか、柴咲コウの星野彩佳のほうが、コミックの田島あすか、星野彩佳を超えていると思う。

 小栗旬や吉岡秀隆が、どうしてコミックの主人公を越えられないのか。理由は簡単だと思う。どちらの主人公も、成長していないからだ。長澤まさみの椎名久美も、柴咲コウの星野彩佳も、そして井上真央の田島あすかも、映画やドラマの中で、成長していくのであり、彼女たちは、一つの作品の中で、ある意味で完成されている。映画『岳』のなかの椎名久美は、最後に山岳救助隊のプロフェッショナルと認められる。これに対して、主人公の島崎三歩は、彼の山登りのプロとしての1面を見せてくれるだけであり、彼の全体像はまだ未知のままだ。コミックの読者は、島崎三歩や五島健助がどんな人間かについて、もっとよく知っている。勿論まだまだ、未知の部分も持っているが。

 だから、一つの映画やテレビドラマを見る限り、原作のマンガの主人公のほうが、はるかに魅力的に見えてしまう。これは、成長物語ではないコミックにつきまとう問題だと思う。役者はだから、いつもハンディを負っていると言えるかもしれない。私たちは、コミックの『岳』でも1話1話の積み重ねの中に、主人公の島崎三歩の過去が少しずつ明らかにされ、彼の人間的な魅力が開示され、そして彼の目を通して見られた山の素晴らしさが私たちの前に展開される。それは、素晴らしい物語だ。特に、山岳コミックは、シンプルで下界の人間関係がどんなに複雑でも、ストーリーはシンプルな展開となるので、三歩と久美というキャラの役割は需要だ。その意味では、久美の方が生き生きと描かれることになってしまう。そして、長澤まさみもいい演技をしていてよかった。

 ところで、『岳』は、テレビドラマ化するためには、大変だ。つまり、ほとんど山でのロケになってしまい、おそらく、現在の創造力と資金力の落ちたテレビ局では制作は無理だ。テレビドラマ化されて、もう少し長く展開されると、主人公三歩の魅力が、多分、役者の魅力になってくると思われる。どちらにしても、私は、コブクロの歌う『あの太陽が、この世界を照らし続けるように。』を聴きながら、この映画を楽しんだ。また、どんな人に対しても、「また、山においでよ。」と呼びかける小栗旬の島崎三歩に満足した。小栗旬は、三成でもなく、健一でもなく、直光でもない、三歩という新しいキャラクターを見事に演じていたと思う。下界は今重苦しい状況のままだが、さわやかな気分転換ができたと思う。そして、今年の電力不足を原発を動かさないままで乗り越えたら、日本には、新しい世界が拓けるような気がする。そうすれば、電力会社や経済産業省の思惑を乗り越えた、新しいエネルギーの開発にじっくりと取り組める。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3.11から3ヶ月過ぎて

2011-06-12 22:28:27 | 政治・経済・社会

 どちらかというと、静かに、普段の生活を続けた。心が動かされ、たまらなくなった時があったとすれば、国会で内閣の不信任案が出され、否決されたときだ。私は、管内閣がよい内閣だと少しも思わないが、不信任案をめぐって、繰り広げられた、自民党や公明党、そして民主党の一部の国会議員たちの行動と言説に、あきれ、そして、憤りさえ覚えた。今でも、私は、東日本大震災が少し落ち着き、選挙ができるようになったら、総選挙をして、その上で、内閣は総辞職すべきだと思う。それまでは、少なくとも、国会議員は、協力して当面の復興に向けての緊急の課題を処理すべきだと思う。今の状況で、管内閣が総辞職して、それで、何か展望が開けるとはとても思えないからだ。

 東日本大震災は、地震と津波という天災と福島第一原発事故という人災とが合わさって、未だ、復興のめどが立っていない。震災は、今まで見えなかったものをいろいろ明らかにしてしまったが、その最たるものとして、日本の政治家がいかに無能でしかも有害であるかをみせつけられれしまった。この政治不信のツケは、かなり大きいと思う。それにしても、もし、原発さえなかったら、私たちは、自然の災害に何度も遭い、そしてそれを乗り越えて来た経験から、すぐにとは言えないまでも、確実にそして、着実に復興して行くことができただろう。その意味では、この東日本大震災のいちばんの大きな問題は原発の問題かもしれない。

 地震と津波では、沢山の人が亡くなり、また、未だ、多くの行方不明者がいる。しかし、原発では今のところ、直接死亡した人はいない。だからか、すぐに、止めている原発を動かせとか、日本のエネルギーの需要は原発抜きには不可能だと言う人がいる。こんなことを言うと、誤解される恐れがあるが、原発ではまだ、誰も死んでいないが故に、これから、関係者に、とても大きな苦痛と被害が起きるに違いないということだ。いや、すでに、大きな苦痛と被害を与えている。そして、それらは、ほとんど解決のめどが立っていない。むしろ、問題が問題を生み、拡大していく様相さえある。

 私は、原子力を利用した発電については、科学技術の発展の成果として、利用すべきだと思ってきた。それが、これまで、未知の世界に自らの体を犠牲にしながら取り組んで来た科学者たちの努力に報いる道であり、人類の課題でもあると考えてきた。そのことは、今でも、正しいと思っている。しかし、そのことと、今の企業や国に原子力の利用を任せるということとはまた別の問題だということを私たちは知ってしまった。というより、もっともクリーンなエネルギーとして宣伝され、原子力発電の増設を進めてきた日本の政策のあまりのお粗末さにびっくりしたと言うべきかもしれない。今の状態のままであるなら、私は原発反対である。私たちは、原発の廃棄物の処理さえまともできない状況の中にいるのだ。私たちは、福島第一原発の事故を通して、原発というものは、動いていようと止まっていようと同じように危険な存在であることを知ってしまった。

 村上春樹が、6月9日(現地時間)スペインのカタルーニャ国際賞授賞式で大震災で原発事故を起した東電と効率を求めてきた社会に対する批判のスピーチをした。ネット上では、賛否両論が戦わされている。「福島第1原発事故は、第二次世界大戦中に投下された原子爆弾に続き、日本が体験する2度目の核の被害であるが、今回は日本人自身が引き起こしたもので、決して起こってはならなかったものだ」という村上春樹の発言は、確かにその通りだと思う。あれだけ、原爆の被害を訴えながら、今回、日本人は、自らがつくりだした核の被害を体験しつつある。皮肉としかいいようがない。村上春樹は、それは「効率性」を追究してきた私たち日本人の責任だという。しかし、私は、「効率性」というより、直接的には、「電気」というエネルギー商品をつくりだし、販売してきた電力会社が利潤を追求した結果であり、それを後押ししてきた、国のエネルギー政策の結果であると思う。ある意味では、私たちの「欲望」がそれを求めてきたのだ。

 「『効率』や『便宜』という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく『非現実的な夢想家』でなくてはならない」と村上春樹は言う。しかし、私たちは、それでもなお、絶対安全な原子力発電も追い求めていくべきだと思う。たとえ、「安全」が「神話」に近いとしてもだ。いま、世界中には、とても多くの原発があり、核兵器があり、それらは減るどころか、今、更に開発され続けられている。そこにある危険は脱原発で解消できるようなものではない。より安全な原発を作ることでしかおそらく、それは乗り越えられないと思う。そして、そのためのコストは、とても採算のとれるようなものではない可能性のほうが高い。もはや、効率や便宜では済ませられない。私は、こうした状況の中で、原子力の開発に取り組む科学者や技術者が怖じ気づき、そこから撤退することを恐れる。優秀な科学者や技術者がそこからいなくなったら、私たちはそれこそ、破滅へと向かうほかはない。

 福島第一原発の事故が私たちに教えてくれるのは、本当は、しっかりとした安全設計のもとの作られ、適切な処理がなされていれば、被害は最小限に抑えられたということだ。いかに東電の対応がまずく、国の対応がずさんであったかということだと思う。その意味で、私は、今のままで、原発を再稼働することには反対だ。今のままでは、とても恐ろしくて、任せられない。そのことを、今回の事故が示してくれたのだと思う。とても大きな犠牲を払って。それは、ひょっとしたら、津波の被害よりも経済的にはもっと大きな犠牲をこれから強いるかもしれない。「安全神話」が崩壊したからといって、私たちは、「安全」であること放棄してはならない。第一そんな神話などもともとなかった。「絶対安全」なら、どうして補助金など出す必要があるのだろうか。

 少なくとも、私は、原発に反対か賛成かと言うことの前に、しっかりと事故原因を特定し、適切な処置を実施すると同時に、原発の設計の在り方や活用の仕方自体も点検することこそが大切だと思う。遠くで、危険だということは簡単である。しかし、その危険を乗り越えて、新しい原発の在り方を模索することがもっと大事だ。脱原発の声が一方で起きているが、他方で、あちこちの原発で、エネルギー不足を理由に安易に停止中の原発の再稼働が行われようとしている。私たちは、今度の福島第一原発事故の反省の上に立った安全基準を適用した原発の稼働を目指すべきであり、それ以外は許されないと思う。たとえそう考えることは「非現実的な夢想家」だと批判されても、それはやらなければならない。そして、それが、原発事故の最前線で今、放射能の被爆にさらされながら、戦っている作業員たちに対する私たちの支援になると思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする