電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

日本語と英語について

2008-12-21 21:43:51 | 生活・文化

 「新潮」1月号で、水村美苗さんと梅田望夫さんが「日本語の危機とウェブ進化」という特別対談をしている。これは、もちろん、水村さんの『日本語が亡びるとき』という本を巡る最近の動向を踏まえて、新潮社が企画したものだと思われる。そしてそれはよく分かる企画であり、私は私なりに二人の言説に納得した。納得はしたが、「日本語とは何か」ということについては、欲求不満になったことも確かだ。二人とも日本語については、かなり高く買っているらしい。二人とも、英語圏に行きながら、現時点では自分の表現の場を日本語圏にしている。それが、おそらく彼らの日本語への評価ということだ。

梅田 先ほど水村さんは人類的ミッションとおっしゃいましたが、たしかに日本語ほどすごい言葉というのは、なかなか見つけづらいなと……。
水村 おもに書き言葉ですけどね。
梅田 日本語の書き言葉というものが、歴史の中で培われてきた、その貴重さに目をむけないといけませんね。だから、日本語を守らなければならないというお話に、とても共感しました。なぜ日本語で書くのかを考えたとき、論理だけならば英語でもいいかなと思うのですが、日本語は工夫すればいろいろなことが表現でき、伝えられる。(「新潮」1月号p352より)

 どんな言語も、おそらく母語を使うものから見れば、いちばん自分の気持ちを表現できる言葉であることは確かだと思われる。しかし、それはそれ以上の意味はない。本当に、いろいろな言語を比較した上で、日本語が優れた言語であることが証明できるかどうかは、今のところ不明である。とするならば、水村さんや梅田さんが日本語で書こうとしたというのは、おそらくは、日本の読者に向けて表現しようと思ったからである。彼らははっきりとか、暗黙のうちにかは分からないが、日本人に向けて、あるいは日本人とともに考えてみようと思ったのであり、日本語で表現するということは、それ以外の意味はない。つまり、水村さんが日本語の小説を書き、梅田さんが日本語の評論を書いたのは、日本人に向けて何かを伝えようと思ったからに違いない。

 ところで、ここでの二人の対談で初めて言及された次の二つのことにとても興味を持った。その一つは、パブリックということであり、もう一つは、良くも悪くも、日本語圏の大きさということである。前者についていえば、たとえばインターネットの世界とは、あくまでもパブリックな世界として出発したということが大事なことであるように思われる。インターネットの世界とは、いわば公道なのだ。だから、その道路上では、私たちは、パブリックな世界での振る舞いをすべきである。そして、パブリックな世界であるからこそ、普遍語=世界語という概念が生まれてきたのだと思われる。というのは、その公道には、国境がないからである。

 しかし、商業資本がインターネットに関わりだしたときから、インターネットにプライベイトな世界が持ち込まれたといっても良い。インターネットの世界でビジネスが始まったときに、個人的な消費が問題になったのだ。そして、それは、プライベイトな世界の出現でもある。本来、商品というものは不特定多数のものであり、誰でもが消費できるものである。それこそ、普遍的な使用価値を持っているのだ。そうした、プライベイトな世界が、インターネットの公道上に店を出していると考えるとわかりやすいかもしれない。そして、インターネットの世界がいわば公道上であるからこそ、そこでビジネスが可能になるということは、あまり気がついていないように思われる。

 インターネットの世界は、パブリックな世界であるということは、どれだけ強調しても強調しすぎることはない。それは、現実世界についても同じことだ。私たちは、パブリックな世界の中に、プライベイトな世界を作っているのに過ぎないのだ。地上がそうであるように、部分的に眺めてみれば、どこも私的な世界のように見えるけれども、あるいは、私企業がそのネットワークの大部分を担っているように見えるけれども、トータルとしてみた場合は、インターネットの世界も地球上の現実世界も、パブリックな世界として私たちに現れているのだ。

 ところで、公道には国境がないにもかかわらず、言語的な集落はあるのである。それが、日本語的な集落である。そして、この日本語の集落は、ほぼ日本という国に重なっているのだ。そればかりではなく、この日本語の集落は、いろいろな意味で、便利な大きさなのだ。たとえば、日本語の小説を書いたとして、ある程度売れれば作家は十分食っていける市場でもあるのだ。あるいは、日々の生活をしていく上では、日本語だけでも十分やっていける広さでもある。

梅田 日本語について専門的亜に物申すほどの知見も教養もないのですが、僕が思うのは、日本語・日本人・日本という国土、その三つが完璧に三位一体になってしまって、人口でも経済規模でもかなりのサイズだというのは、おそらく日本しかない、ということです。まあ、小さな国にはそういうところもあるでしょうが、日本ほどの規模を持った国では、他にない。それでサイズが大きいだけに、逆にグローバリズム性が完全に失われている。このことへの危機感を、ビジネスで仕事をしているなかで抱くことがとても多いんです。(「新潮」1月号p350より)

 これは、おそらく、普通の人たちが、日本語の危機など少しも感じない理由のいちばん大きな理由である。しかし、日本が、今までのようなに比較的相対的に自立して生きていけた場合はそれでも良かったけれども、これからのグローバル化した時代では、おそらく否応なく世界の混乱に巻き込まれていくことになるに違いない。現に、アメリカの金融危機に端を発した世界的な金融危機は、私たちの身の回りの生活にも影響を与え始めている。目に見えない知の世界では、グローバリゼーションの影響は計り知れないと考えてほうがいいと思われる。私たちは、そういう時代に生きているのだ。その意味では、これからも、日本語と英語の確執は続くに違いないと思われる。

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「篤姫」が終わった

2008-12-15 19:30:28 | 文芸・TV・映画

 「篤姫」の最終回は、28.7%で、これまで最高の29.2%には及ばなかったものの高視聴率を維持したままだった。「篤姫」の初回から最終回までの期間平均視聴率は24・5%だそうだが、日本人の4人一人は見ていたことになる。前年の「風林火山」が21.0%だったので、かなりすごいことだ。私も、妻と二人で、ほとんどの回を見た。妻は、着物が好きで、きれいなシーンを喜んで見ていた。私は、独特の歴史解釈を楽しんだ。いろいろな人が、いろいろな楽しみ方をできる大河ドラマだったと思われる。

 産経新聞が、「篤姫」の人気を次のように分析していた。「若々しさと明るさ」と「共演者たちの魅力」ということのほかに、ドラマの仕組みが「ディズニープリンセス大河」のドラマ構造になっていたことだという。これは、ドラマ評論家の小泉すみれさんの命名だそうだ。「主人公は愛情に満ちあふれた中で育った賢い女の子で、王子様(家定)は暗愚なふりをしているが実はすてき。描き方がすごく親しみやすい。もめ事の多い大奥でありながら周囲の動きもコミカルに描かれ、見ている人に分かりやすい」という。そして、「薩摩時代も、大奥に入ってからも、基調は『家族・親子・夫婦の絆』であり、それを前面に出した文字通りのホームドラマだったことが、成功の要因だろう」と山根聡さんが述べていた。

 「篤姫」の成功は、おそらく、この山根さんの分析の通りだと思う。ただ、私は、「篤姫」を見ながら、ドラマの展開の仕方の面白さとは別に、「家族」のとらえ方と西郷と大久保たちのとらえ方に興味を持った。「家族」についていえば、「篤姫」の家族は、女系家族なのだと思う。そして、多分、現代の家族は、母親を中心として営まれているのだ。男たちは、ある意味では脇役でしかない。これが、20代から40代までの女性たちに受け入れられた家族像なのではないかと思われる。我が家も、どちらかというと女系家族で、私の親族などは、ある意味では脇役だ。つまり、我が家は、妻や妻の母親が中心に回っている。

 益田ミリ著『結婚しなくていいですか。──すーちゃんの明日』(幻冬舎/2008.1.25)というのは、香山リカさんも「号泣」したというコミックだが、この中に出てくるのも一種の女系家族なのだ。男は、単なる脇役でしかない。だから、結婚しないということでもあるのだが、家族は母親を中心にして成り立っている。しかも、母親は育児をしたり、料理をしたりするが、女は育児をしたり料理をしたりするわけではないのだ。だから、ますますもって、女は結婚などできないことになる。ここにある「家族」論は、個と共同体との狭間にあって、揺れ動いている現代の「家族」を見事に言い当てている。

 ところで「家族」は「性」の問題だが、「個」や「共同体」は、人間の問題である。人間としてどう生きるかは「個」や「共同体」の問題であるが、「性」としてどう生きるかは家族の問題なのだ。そして、「性」の問題であるにもかかわらず、自らの「女」という「性」を拒否したところで「家族」が考えられているのだ。そこに、現在の「家族」の特色と異常さがあるのかもしれない。不思議なことに、篤姫や和宮も含めて「篤姫」の大奥には、「性」のどろどろした何かがないのだ。そして、必然的に子どもは、どこかからやってくることになる。私にはそれが不思議だった。なぜなら、大奥という所は、家定以前の場合は、徳川家の世継ぎを作るところであったはずだからだ。

 そして、「篤姫」のもう一つの歴史的な興味は、坂本龍馬を誰が殺したかということだ。小松帯刀と坂本龍馬を新しい日本を本当に考えた理想派だとすれば、まず徳川家をぶっつぶすことから始めなければ新しい時代はやってこないという、西郷隆盛や大久保利通、岩倉具視たちは現実派である。最終回を除けば、大河ドラマ「篤姫」の展開では、坂本龍馬も小松帯刀もそうした現実派に吹き飛ばされてしまったという描き方がなされている。私には、「篤姫」の作り手たちは、坂本龍馬を暗殺したのは、多分西郷たちだと考えていると思われた。龍馬暗殺を指示したのが薩摩藩の西郷たちだと指摘した説はいくつかあるが、私がいちばん面白かったのは、高田崇史著『QED 龍馬暗殺』(講談社NOVELS/2004.1.10)だ。

 実際に斬ったのは、今井信郎たち見廻組だろう。しかし、彼らが龍馬の居所を知るはずもなく、また見廻組の犯行ならば暗殺という手段には訴えなかっただろう。なぜならば寺田屋事件以来、龍馬は指名手配になっていたからである。堂々と名乗りを上げるはずだ。それなのに、証拠隠滅どころか、偽の証拠まででっちあげようとした。
 一方龍馬はその頃、武力討伐派の薩摩にとって非常に邪魔な存在になっていた。しかも、徳川慶喜を養護するような態度すら見せていた。薩摩にしてみれば、これは明らかな裏切り行為だった。
 自らの転身は認めても仲間の変節は許さないのは、革命家の常だ。そこで──粛正された。(同上・p307)

 最終回の西郷隆盛や大久保利通に描き方は、ある意味では、明治維新のためになくなった人たちへの贖罪のようなものだ。明治維新が行われるまでに、新しい時代を模索していた優秀な人材がことごとく獄死したり、暗殺されたり、また病で死んでいったりして、ある意味では明治政府は明らかに人材不足だった。ドラマはシンプルさを出すために、あたかも明治政府は西郷や大久保ら数人で運営されていたかのように描かれているが、もっといろいろな人々が関わって混乱していたはずだ。そんな中で、突出した薩摩藩の人たちは、皆不幸な末路を迎えている。そういえば、次の次の大河ドラマは坂本龍馬である。そのために、布石なのかもしれない。

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「Chabo!第1回ファンの集い」

2008-12-07 21:16:48 | 生活・文化

 12月4日の夜7時から、「Chabo!第1回ファンの集い」が、かつしかシンフォニーヒルズ(モーツァルトホール)で開催された。当日は、約1000人ぐらいの人が参加したのではないかと思われる。「Chabo!」の発起人の勝間和代さんとJENの事務局長の木山啓子さんの二人の、「Chabo!」の活動紹介とJENの活動紹介から始まり、二つのパネルディスカッションが行われた。テーマは「Chabo! 著者が教える 夢を叶える私の方法 」で、第1部のパネリストは、久恒啓一さん、山田昌弘さん、竹川美奈子さん。そして、第2部のパネリストは、和田裕美さん、勝間和代さん、神田昌典さんだった。皆さん、若い人たちに人気の人たちばかりだ。

 このパネリストたちは、私より10歳から20歳以上若い人たちであり、彼らの多少恥ずかしそうに語る成功物語に私は多少戸惑いを感じながらも、時代の流れを思った。私たちが学生の頃にやっていたことは、学生運動などを通して、社会をどう変えていくかということだった。そして、当然のことながら、私たちは挫折した。もともと、組合運動や学生運動には限界があり、そこでどれだけ突っ張っていても、社会の多くの人たちは誰もついてきてくれない。しかし、今の若い人たちは少し違ってはいるが、社会を変えていこうという動きを始めているらしい。

 パネリストたちの成功物語は、それなりに面白い。彼らは、みな、自分たちが夢を持ち、そしてその夢を自分に言い聞かせることをしている中に、なぜかそれが実現できてしまったと語っていた。社会の中で成功するということは、おそらく偶然の要素が強いが、夢を実現をするということは夢を持つことからしか始まらない。そして、彼らは、それを実現してきたのである。その点だけは、確かである。ただ、夢の実現のためには、多分、方法や近道があるわけではなく、あるのはただ夢を持つということだけが正しいことなのだと思う。

 私は、パネリストたちの話を聞きながら、彼らが一様に、自分のためだけでなく人のためということを強調していたことを考えていた。彼らは、自分で、自分の夢を実現してきた。そして、その夢というのは、たとえば、勝間さんの夢が象徴しているように、20代で1000万円の収入を得ることというように、お金を稼ぐことである。彼らは、そういうことをさらりと言ってのける。問題は、そこからだ。お金を稼ぐためには、ただ自分のためだけのことを考えていてはだめだと主張していた。ある意味では、その主張がこのChaboのような活動に結びついたいるとも言える。

 今回のパネリストたちの仕事の共通性として、日常的な生活の仕方から、大企業の中での成功の仕方まで幅広いが、いずれも、現代をどう生きていったらよいかについて何らかのコミットメントをしているということだ。彼らがそこで成功できたのは、多分、コンサルタントの本質を把握していたからだと思われる。それは、自分のためではなく、「彼らのために考える」ということだ。つまり、人の役に立たない限り、コンサルタントの存在理由はないからだ。そして、彼らは、成功すればするほど、仕事が増えることはまた確かなことだ。

 彼らがやっていることは、とてもいいことではある。しかし、私が、危うさを感じるとしたら、Chaboの会員になって特定の本の印税の20%を寄付するというプログラムにある。それは、本は売れるものだという前提に立っている。確かに、彼らは、すでに2000万円ほど寄付したというのだから、本の売り上げ印税が1億ほどあったということである。彼らの今の勢いからいえば、ここ当分はまだ増え続けるだろうと思われる。しかし、いつかそれは頭打ちになるのではないだろうか。それとも、たくさんの人が会員になるから大丈夫なのだろうか。そんなことは、考えても仕方がないかもしれないが。もちろん、本の印税というシステムはいずれ変えれば済むことかもしれない。

 いずれにしても、私が勝間さんに感心するのは、まず、売れている人が協力すべきだという発想をしていることだ。要するに、もうけたら還元すべきだと彼女は言っている。そして、この発送は、サラリーマンの発想でないことだけは確かだ。これは、起業家の発想である。この発想は、勝間さんだけでなく、特に新しい事業をおこしている人たちの発想だ。起業家というのは、自分のためであると同時に、人のためになるということをやることが大切なのだ。ある意味では、とことん、人のためになるとはどういうことかを考えることが、起業家の資格であると勝間さんは言っているのだ。大前研一さんを目標に生きてきたという勝間さんの面目躍如たる姿が、私にはまぶしかった。

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