電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

不動裕理や宮里藍はアメリカへ行くべきか?

2004-11-29 12:32:30 | スポーツ・ゲーム
 宮崎県宮崎市「宮崎カントリークラブ(6,438ヤード、パー72)」にて行われた「LPGAツアーチャンピオンシップリコーカップ」ファイナルラウンドは、今年の日本女子プロゴルフの見納めだった。優勝したのは、不動裕理だった。今年の日本女子プロゴルフは、宮里藍の優勝から始まり、不動裕理の優勝で終わるという充実した1年だった。新しいスターが登場し、劇的な戦い方をしてくれてとてもエキサイティングなゲームが多かった。アメリカツアーでタイガーウッズが登場したときのような驚きがあった。もちろん、ゴルフが好きでないとなかなか楽しめないが、この最終戦は、手に汗を握る戦いで、見ているだけでわくわくした。宮里と不動という10代最後と20代後半の若い選手の戦いが注目され、男子ゴルフの方はかすんでしまっている。
 昨日の試合では、テレビを見ながら、私は、不動裕理のほうを応援していたように思う。誰かが宮里藍には華があると言ったが、私は今日は、なぜか不動裕理のほうに華を感じた。おそらく、華やかな女子プロゴルフ界の中で、宮里藍より不動裕理の方がゴルフ一筋に生きているのがよく分かったからではないだろうか。宮里藍もまた、不動に近いものがある。そして、強いものが勝ち、やがてその強いものもいつかは追い越されていくことになるが、今のところは、日本では不動裕理がいちばん強いゴルファーだと思う。

 宮里藍は、目標をしっかりと定めている。尊敬する選手は、アニカ・ソレンスタムであり、不動裕理だと言う。そして、二人と回るときに積極的にいろいろなものを吸収しようとしている。おそらく、宮里藍は、昔の岡本綾子のように、先輩女子プロからいろいろ意地悪されているだろうと思う。スポーツ新聞の記事からいろいろ聞こえてくる。宮里藍はそれをあまり気にしていないようだ。というより、上は不動裕理しか見ていないので、それ以外がその他大勢になってしまっていて、それが先輩たちから生意気に見えるのだと思う。

 不動裕理の場合は、昔から、淡々としてプレーをしてきた。CMに出るわけでもないし、ゴルフの試合以外ではあまりTVに露出していないように思う。そして、優勝を何度も重ね、さらに練習を重ね、いつの間にか、樋口久子とト阿玉の作った5年連続賞金女王の座に着いてしまった。誰もが、不動を天才と見ない。努力の人と見る。しかし、私には、ゴルフに対する天性の才能があるように思う。それは、常に変わらぬ手順でボールを打つというスタイルに現れている。彼女は、普通の人がする手袋をはめない。手袋によって微妙なタッチが分からなくなるのを恐れているかのようだ。

「私にとっては奇跡でしたね。今回の優勝は。多くのギャラリーの方々が、宮里さんだけでなく、私にも声援を送って下さったのがとても印象的でした。今週はいっぱいミスもしたけど、成長した自分やまだ足りない部分も見つかりましたし、楽しくプレーすることができました。これからは何事にも動じないようにならないと」と不動は今大会を振り返った。また「自分が目指すもの・自分が大切にしたいものを目指していくことが大事だと思います。(6年連続賞金女王は)今のところは何も考えてません。ゆっくり休んで、じっくり考えたいです」と最後にはいつも通りの謙虚なコメントを残した。


 これは、優勝の後のインタビューでの不動のコメントだ。この大会では、4日間連続で宮里藍と不動裕理が同じく見合わせで回った。それは、今年の日本の女子プロのNo1とNo2がしのぎを削っていたと言うことだ。まさに、絵に描いたような試合ぶりだった。「これからは何事にも動じないようにならないと」という不動の言葉に、試合の緊張感が伺われる。普通だったら絶対に外さないショートパットを6回も外してしまった。それでも勝てたのは、ショットが安定していたからだし、それは、結局、不動が強かったからだと思う。

 二人がアメリカツアーに行きたがっているという話がある。それは、いいことだろうか。プロ野球でイチローや松井秀喜が大リーグに行ってからの日本のプロ野球はどうなっただろうか。私は、不動も宮里も日本で頑張るべきだと思う。そして、日本のツアープロとして、世界と戦って勝って欲しいと思う。いつか、世界から日本のツアーに参加したいと思わせるようになって欲しいと思った。また、来年もこうした熱い戦いをみたいと思う。これは、わがままなのか。
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コンピュータは脳をシミュレートできるか?

2004-11-28 09:50:27 | 自然・風物・科学
 茂木健一郎・田谷文彦共著『脳とコンピュータはどう違うか──究極のコンピュータは意識をもつか』(講談社BLUE BACKS)という刺激的なタイトルの本を読み終えた。「コンピュータは、人間が自らの脳に似せて(人間が、脳とはこのような働きをしているのだろうという理解に基づき)作った人工的な計算機械である」という事実から、今後さらなる研究と発展の後に、ひょっとしたら人間の脳の機能を完全にシミュレーションできるかも知れないと私は密かに思っている。茂木さんと田谷さんは、可能性は認めるものの、何時できるかには絶望的なようにも見える。
 二人が絶望的なように思っているのは、「脳の完全なシミュレーション」という事態は、必ずしもコンピュータの中に意識があるという証明にはならないのではないかという疑問があるからだ。「脳を完全にシミュレーション」できたら、コンピュータは意識を持っていると見なされるというのは、「チューリングテスト」に合格すれば、人間のように考えていると見なされるというイギリスの数学者アラン・チューリングの考えを正当だと認めた場合である。

 チューリングテストというのは、壁の向こうにコンピュータと人間がおり、質問者は質問を繰り返すことにより、どちらがコンピュータでどちらが人間かを当てるテストである。壁の向こうの人間は自分は人間でもうひとりはコンピュータだと説明する。コンピュータは、自分が人間であるかのように振る舞うようにプログラムされていて、質問に人間らしく答える。このテストを通して、質問者がどちらが本当の人間か当てることができなかったらテストに合格したと認めるというものである。

 チューリングテストに対してジョン・サールというアメリカの哲学者が「中国語の部屋」という思考実験を紹介し、チューリングテストに合格したコンピュータでも必ずしも、自分のやっていることを分かっているわけではないと主張している。「中国語の部屋」というのは、英語しか話すことも理解することもできない人が、部屋の外の人と中国語のカードで会話するという思考実験である。この場合、部屋の中の人は、中国語で書かれた記号に対して、どういう返事をしたらいいかが英語で書かれたカードを見ながら、中国語の記号列を書くというもので、この場合も限りなく完璧な中国語の返事を書けるようにすることができる。外から見ると、部屋の中の人は、中国語を理解していると思っているが、実際には英語しか理解できない。

 この「チューリングテスト」とサールの「中国語の部屋」が提起した問題は、意識に対する二つの立場を端的に表している。前者は、意識の存在は、機能的な側面を調べることでしか実証することができず、実証できない主観性の問題は論じることができないとする実証主義の立場である。後者は、私たちが普段から経験している主観的な経験の実在を主張する、実在主義の立場である。(『脳とコンピュータはどう違うか』p195)

 脳の中の1000億の神経細胞はそれぞれ数千個のシナプスによって網の目のようなネットーワークを作っている。この脳自体をコンピュータでシミュレートするのは、いつの日にかやってくるのかも知れないが、今はまだ、それぞれの神経細胞の働きとネットワーク全体との関係の研究が始まったばかりのようだ。私たちは、他人の心を直接見ることも感じることもできない。しかし、不思議なことに、私たちは直観的に他人の心が分かるときがある。さらにまた、先ほどまで分かったつもりになっていても、突然分からなくなるときもある。どちらにしても、私たちが物語を読んで、主人公に共感できるということは、人間の脳の働きにとって本質的な関係があるような気がした。
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幼稚園から続けているサッカー教室

2004-11-23 22:20:18 | 子ども・教育
 午後1時から、日高市の総合体育場で息子が通っているスポーツクラブのサッカーの試合があった。3年生だけのチームで4チームあり、惜しくも決勝戦で、破れて2位だった。2位はこれで2回目だ。3年生になるまで、いつも最下位だった。それだけでなく、勝ったところを見たことがなかった。不思議なことに、今年から、勝てるようになったのだ。その秘密は、笑ってしまうのだが、さらに別のスポーツクラブに通っていて、毎週サッカーの試合を経験している子どもが二人ほどいるからだ。彼らが自信を持ち、他の子ども引っ張っている。勝つと親も応援に熱が入り、また子どももやる気を出す。
 私の子どもが通っているスポーツ教室では、サッカーは毎週木曜日に2時間ほど練習するだけだ。これは、幼稚園の時から始めたもので、まあ、小学校で離ればなれになっていても友だちとして止めずに頑張っている。指導員の先生を気に入り、そのために止めないようだ。私の子どもは、他のことも忙しく、サッカーはこの練習の時以外はやっていない。体は大きくいのだが、何となくゆったりとしていて、私から見るとあまり上手くないし、これからも上達しそうにない。とてもサッカー選手になれるような素質はないように思う。

 それでも、体が大きいせいか、他のことで優位に立てるものがあるせいか、いじめられもせず、それなりに頑張っている。しかし、試合を見に行く親としては、上手でないと見ていられない。私達夫婦はたいてい二人で応援に行くのだが、ほとんど声を出して応援しない。どちらかというと、冷や冷やしながら、静かに子どもの動きを追い、自分でも試合をやっているような気持ちになり、体が自然と動いてしまったりする。他のお母さんたちが、大きな声で、息子の名前を呼び、しかったり、ほめたり、指示を出したりする。時々それでとまどう子どもたちもいたりする。

 表彰式が終わると5時頃になる。既に、暗くなり、寒くなってきた。子どもにコートを渡し、車の方に向かうとき、「よく頑張ったね」と子どもをほめたら、自慢そうだった。息子は、バックを守っていたが、そして、「もう少し、ボールの方につっこんだ方がいいのではないか」と言うと、「そんなことして、抜けられたどうするの?」と反撃された。それなりに、考えてはいるのだ。私は、それ以上何も言えなくなった。代わりに、親子3人でレストランに入った。

 本当は、幼稚園でサッカー教室は終わる予定だったが、やる気のあるの子どもたちの人数が多く、それが自然と延長し、3年生になった。この調子だと、まだまだ続きそうだ。今日集まった3年生は、10人。人数的にも今後も続きそうだ。同じ幼稚園出身だが、同じ小学校に通う子どもは二人だけだ。子どもたちは、3つの小学校に通っている。親たちも、幼稚園の時が子育てでいちばん苦労したのか、友だち付き合いができていて、不思議なことに、同じ小学校に通っている親より、交流があるような気がした。考えてみたら、スポーツ教室の場合は、3年生になっても、親が子どもを迎えに行っている。そこで、彼女たちは交流を深めているらしい。

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財政改革はどこへ向かうのか?

2004-11-22 23:52:51 | 政治・経済・社会
 日本は、巨額の財政赤字を抱えていて、もやは破綻していると同じであるとよく言われている。しかし、相変わらず、国家予算は減っていない。あたかも、国の経済的破綻などあり得ないという認識で国家財政は動かされているようだ。しかし、いよいよ平成17年度の予算編成の時期が近づいて来た。これまでも、「三位一体の改革」ということが言われているように、国や地方の財政の縮小圧力は確実に起こっており、そのためさらに厳しい運営が課せられている。これから、財政はどのようにうごいていくのだろうか。
 一応自分の頭で、財政危機について考えてみたいと思う。今後、仕事や生活で私たちがもろに影響を受けそうなことがどんどん起こりそうである。その場合、大切なことは、次の二つのことをしっかりと理解しおくことだと思う。一つは財政危機と言うが、それはどういうことを指しているのか、ということであり、もう一つは、財政破綻をさけるためにどのような動きがこれから起こってくるのかということである。まず、財団法人電力中央研究所の「財政危機をどうみるのか」というレポートは次のように言う。

日本経済は未曾有の財政危機に直面している。年間30兆円にも及ぶ財政赤字が引き続き、政府債務残高は、2003年度末現在、700兆円、対名目GDP比で140%(1.4倍)に達した模様である。そのうち、国債残高は550兆円、その対名目GDP比は110%に達したと推測され、1995年以降現在までの8年間で、同比率は実に64%ポイント(46%→110%)もの、急激な上昇を記録している。まさしく日本の財政は異常な事態である。

 ちなみに、この政府債務残高というのは、「日本の借金時計」ともほぼ同じである。また、2003年度末のDDP(国内総生産)は内閣府の経済見通しによればほぼ497兆円である。さらに、700兆円から国債残高を差し引いた150兆円は地方の債務だと思われる。補助金や地方交付金を支出している国としては、地方の債務も国の債務である。なぜ、こうなってしまったかについて、平成16年10月22日の財政制度等審議会で日銀福井総裁は次のように述べている。

 90年代以降、1つは、歳入面で、景気低迷や減税措置に伴う税収の減少、また、2つ目には歳出面で、数次にわたる景気対策としての公共事業関係費の増加がありました。そのいずれもが寄与する形で財政赤字が大幅に拡大してまいりました。
 2000年代に入って、公共事業関係費などが大幅に削減されました。税収も下げどまってきてはおりますけれども、また一方で、高齢化に伴う社会保障関係費の増加などもありまして、一般会計の財政収支の改善は非常に緩やかにしか進んでいないというのが現状だと思います。


 つまり、バブルがはじけ、景気が低迷し税収が減少したにもかかわらず、景気対策や公共事業関係費の増加があり、財政赤字は拡大してしまったということだ。だからこそ、現在財政改革ということが言われているわけだ。問題は、財政赤字が拡大したことにより、予算がいびつになってしまっていると言うことだ。平成16年度の予算は次のようになっている。

●歳入
 税収       41兆7470億円
 その他収入     3兆7739億円
 国債発行額    36兆5900億円
 合計       82兆1109億円
●歳出
 国債費      17兆5686億円
 地方交付税等   16兆4935億円
 一般歳出     47兆6320億円
 NTT-B事業償還時補助  4169億円
 合計       82兆1109億円


 ここで明らかなように、17兆円超の国債を返済しているが、新たに36兆円超の国債を発行しており、差し引き19兆円兆の国債の増加になっている。これがそのまま、プライマリー・バランスの赤字と言うことになる。プライマリー・バランスとは、借金以外の収入から借金の金利支払い・借金返済以外の支出を引いたものをいう。要するに、収入から支出をひいたら赤字になるようだと、借金は雪だるま式に増加していくことになる。今は、そういう状態になっているわけだ。こうした事態を財政危機と言う。

 それでは、財政破綻とはどういうことだろうか。簡単に言えば、財政のサステナビリティー(持続可能性・Sustainability)がなくなることだ。つまり国の財政が持続しなくなると言うことである。企業の破綻と違って、現在では、国が破綻したからと行って、倒産するわけではない。ある意味では、「再建型の清算」が行われることになる。一番はっきりしているのは、外国の債権者に対して国債の支払い停止が起こるということだ。それはもちろん国内の債権者に対してもそうだ。国としてみた場合は、前者が明確だと思う。そこまで行くと大変なことになるが、その前に、いろいろな清算が行われて、最終的な破綻は回避されることになる。

 例えば、激しいインフレが起こり、国の借金が相対的に減少していくというようなことが起こる。 特に日本のように、国債の主たる買い手が日本の銀行等が多い場合はそうなりそうだ。日本人の個人金融資産は1400兆円くらいあると言われているが、700兆円の借金をこれで充当すればいいわけだ。もちろん、個人資産は平等に持っているわけではなく、必ずしもそうなるわけではないが、財政破綻が起きると国民の持っている総資産が半分吹っ飛ぶと言うことになるわけだ。もちろん、それだけでなく、国の公共事業は全て停止してしまうかもしれない。そもそも国債を発行使用にも誰も買わなくなってしまい、事業ができなくなる。支払いさえできなくなれば、日本の経済的信用がなくなるので、いろいろな問題が起こってくる。つまり、国がつぶれるわけではないが、相当ひどい状態になることだけは確かだ。

 それでは、こうした財政破綻が起こらないようにするにはどうしたらよいのだろうか。普通に考えれば、これ以上借金を増やさないようにしなければならない。そのためには、プライマリー・バランスがマイナスにならないようにしなければならない。結論は、簡単で、①税収を増やすか、②一般歳出を減らすか、あるいは③両方やると言うこと以外にない。①の税収を増やすには、直接に税率を上げるか、間接的に景気がよくなって企業からの税金が多くなるようにしなければならない。①の効果が少ない場合は、当然②の歳出を減らしていくしかない。この点について、谷垣財務大臣の平成16年1月の演説は、「財政構造改革」として、次のように述べている。

 我が国の財政状況は、平成16年度末の公債残高が483兆円程度に達する見込みであるなど、世界の先進国の中でも最悪の水準となっております。このため、政府としては、中長期的な財政運営に当たり、2010年代初頭の基礎的財政収支黒字化を目指すとの目標達成に向け努力しているところであります。


 ここで、「基礎的財政収支黒字化」とは、プライマリー・バランスを黒字にすると言うことである。また、「持続可能」という言葉をよく使うが、それこそ、財政破綻が起こらないで、「サステナビリティー」が確保されると言うことである。福井日銀総裁は、前述の報告の中で、次のように述べている。

中長期的に財政再建を進めるためには、2つのことが必要になると思います。1つは、かなり思い切った歳出歳入両面での見直し。もう1つは、経済の潜在力を高め、その面から税収を増やしていくということだと思います。

 しかし、これがなかなか難しい。「思い切った歳出歳入両面の見直し」は、一つは増税であり、既に近い将来の消費税のアップに向けて動いているし、歳出については「三位一体の改革」などを等して見直しを使用としているが、簡単ではなさそうだ。「経済の潜在力を高め」るのは、いちばん理想的だが、これも簡単ではない。「規制緩和や制度面の見直し、整備等を通じて、民間のインセンティブに働きかけ、そして活力を引出していくということが基本になる」というが、その効果は長い時間がかかる。それまで、耐えられるかどうかである。小泉総理大臣は、自分が総理の間は消費税を上げないと言っているが、そのことはあと2年したらあがる可能性があると言うことも意味している。

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「突然の死」と「覚悟の死」

2004-11-21 22:46:50 | 日記・エッセイ・コラム
 「突然の死」というのは、いわば突然に死がやってきて、心の準備もなく、本人も死んでいく自覚がないまま死を迎える場合をさす。これに対して「覚悟の死」というのは、自殺も含めて、本人が死んでいくことを知っている死をさす。人が癌だと宣告され、死んでいく場合も「覚悟の死」と言える。この場合、その死を「受け入れている」ということがポイントだと思う。「受け入れていない」のであれば、おそらくどんな死も「突然の死」と言うことになる。中学校の同窓会の旅行中に、同行した友人が心筋梗塞でなくなったというのは、典型的な「突然の死」だと思う。
 「突然の死」というのは、いわば突然に死がやってきて、心の準備もなく本人も死んでいく自覚がないまま死を迎える場合をさす。これに対して「覚悟の死」というのは、自殺も含めて、本人が死んでいくことを知っている死をさす。人が癌だと宣告され、死んでいく場合も「覚悟の死」と言える。この場合、その死を「受け入れている」ということがポイントだと思う。「受け入れていない」のであれば、おそらくどんな死も「突然の死」と言うことになる。中学校の同窓会の旅行中に、友人が心筋梗塞でなくなったというのは、典型的な「突然の死」だ。

 不思議なことだが、「覚悟の死」の場合は、本人だけでなく周りの私たちも死を受け入れているものだ。だから、そんなに早く死んでしまうのはとても無念だと思うが、心のどこかで、本人も了解しているのだ思うのか、その死を受け入れやすい。そして、素直に冥福を祈ることになる。しかし、突然に目の前で、訳もなく発作を起こし死んでいくのを見たとき、その死はとても受け入れられないことになる。況や、一緒に行動をしていれば、その行動にたとえ彼が賛同し、彼が喜んでいたとしても、自分たちに責任があるように思えてくる。

 私の友人の場合は、夫婦も含めて仲のよい中学の同級生が三重県の「相差(おうさつ)」というところに一泊二日で旅行したときに、その「突然死」があった。彼は、私にそのときの様子と気持ちを「『相差』という名の町を知っていますか?」という文章にしたためて、添付ファイルにしてメールで送ってきた。「相差」というのは、三重県の鳥羽から車で25分くらいの漁港の町だ。観光案内には、海の怒りを静める観音様や神社などがあり、「願いが叶う御利益コース」というのがあると言う。

 1日目は楽しい宴会をし、部屋に戻って懐かしい昔話に時を忘れたようだ。悲劇は次の日の朝食の時に起きた。夫婦で来た友人の夫のほうが、朝食に出てこない。その友人は、前に脳梗塞をやったそうで、そのせいかもしれないと近くの診療所の医者に連絡する。医者は検査が必要だということで、診療所に運べと言う。そこへ運ぶ途中に、心筋梗塞の発作が起こり、診療所についていろいろ処置したが、そこで呼んだ救急車が来る前に亡くなったようだ。

 友人は、友の口にくわえさせた酸素を送るパイプを支えながら、心臓マッサージをする医師を見たり、点滴を準備する看護士のおぼつかない様子を見たりしていたようだ。おそらく、半分呆然としていたらしい。その間、30分くらいの出来事だったらしい。救急車が車での時間がとてももどかしく感じたという。しかし、結局は、それは間に合わなかったという。彼は、「こんな旅行を企画しなければ」とか「もっと設備の整った病院に運ぶことができたら」とか、いろいろ後悔をしている。

 私は彼の文章を読んで、その友人の夫人の様子がどこにも書かれていないことに気がついた。ただ一行、「医師の指示で夫人は夫から離されて、私達男3人が孤軍奮闘する若き医師の救命措置の手助けをすることになる」と書かれているだけだ。おそらく、友人の「突然死」を前にして、彼はとてもその友人の夫人など見ている余裕が無かったのではないだろうか。まして、死んでからの夫人の様子などとても見ていられないということかも知れない。それにしても、夫人のことが書かれていないのがいぶかしかった。

 後日彼は、友人の葬儀に出席し、成人した3人の遺児や、昨年誕生したばかりの孫娘の姿を見たりしているのだから、夫人の様子は知っていたはずだと思う。私は、彼の文章を何度か読み返して見て、彼はおそらく意識的に書かなかったのだと思った。たぶんは、夫人は取り乱していたと思われるし、夫人をなんと言って慰めていいかわからなかったに違いない。あるいは、友人の死だけを呆然と眺めていて、そのときに夫人がどんな気持ちでどこにどうしていたかなど考えもしなかったかも知れない。そして、その結果、彼は、書くことをしなかったのだと思う。

 「突然の死」というのは、突然にやってくる天災のようなものだ。そのときは、ただただ、突然の災難にあたふたするだけであり、その後、時間がたつにつれた事態の大きさに驚くことになる。そして、精神的に重荷になって来るに違いない。そういう意味では、新潟中越地震で被災し死んでいった人たちと同じ事態なのかも知れない。私は、友人の手紙にまともな返事など書けなかった。前にも紹介したが、次の良寛の手紙を、私は何度も読み返してみた。私にも、半分くらいはわかるような気がしてきた。

地しんは信に大変に候
野僧草庵は何事もなく
親るい中死人もなくめで度存じ候

うちつけにしなばしなずてながらえて
かかるうきめを見るがわびしさ

しかし災難に逢う時節には災難に逢うが
よく候 死ぬ時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候

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