電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

今、何が起きているのか

2024-02-20 16:03:22 | 政治・経済・社会
 日本の空き家は現在1000万戸にぼると言われている。そして、あの東京都世田谷区には、なんと5万戸の空き家があるという。(NHKスペシャル取材班『老いる日本の住まい』(マガジンハウス/2024.1.25)すごい数だと思う。核家続の子どもたちが巣立ち独立していったあと、残された夫婦がやがてなくなり、その後の処分が上手くいかずに放置されているというのが大部分だそうだ。私は、この話を聞いて、痛みのようなものを感じた。

 その痛みを感じるのは、多分そこのなくなった夫婦のすこし後輩にあたるのが私たち団塊の世代だからだ。現在では考えられないが、私たちの少し前の世代とそして私たちも、普通のサラリーマンをやっていれば、東京にだって家を持てた時代があったのだ。勿論、私の世代では、もう少し郊外になったけれども、確実に、持ち家を得ることができたのだ。多分、高度経済成長時代を経て持家が増大していった結果が、現在の空き家の問題をつくっているのだ。

<実際、1957年から73年にかけて、日本は年平均10%以上の経済成長を達成しています。せいぜい1%程度、時にはマイナス成長で停滞している現在からは、とても信じられない数字で、高度経済成長期の日本は、失業率も1%台でした(オイルショック時は3%mバブル経済時は2%、2022年時の失業率は3.27%)。しかも男性であれば毎年給料も上がるし、ボーナスは数ヶ月分も出る。それであれば、男性ひとりの収入でも、家電製品はもちろん、マイカーも勤め人を続けていれば手に入れられるはずです。

 大切なのは、当時、経済成長の恩恵を手に入れられるのは、社会の上層部だけではなかったという点です。高学歴・高所得者だけでなく、低学歴・低所得者層であっても、むろん給料やボーナスとしてもらう額面や待遇には差があったとしても、それなりに昇給・昇進が約束されていた時代でした。要するに、真面目に働いてさえいれば、ほとんど皆が、「今日よりは明日、明日よりは明後日の方が、生活はよくなる」実感を得られたのです。>(山田昌弘著『パラサイト難婚社会』(朝日新書/2024.02.28)より)


 私たちは、全てではないが、1960年の安保闘争や、その10年後に大学で吹き荒れた学園紛争になんらかのかたちで関わり、その後、この高度経済成長のなかで、そのことをすっかり忘れてしまい、最後は、マイホームの中で老後を迎えていたのである。そして、気がついたら、いつの間にか、経済成長はストップし、一億総中流世界は終息し、格差社会になっていた。30年近くも、給料はほとんど上がらないばかりか、非正規雇用労働者が増加して、若者たちは結婚さえままならない事態になっている。

<持家政策は、アメリカの家族制度と住まい方をモデルに策定されました。GHQが日本政府に持家政策の導入を進言したことには、さまざまな意図が込められていました。家族としては最小単位である核家族がそれぞれの住まいを持つようになれば、そこで生活する家族は、自分たちの生活を守るために、自然に保守的な思想をもつようになると考えられたのです。つまり持家制度は終戦後に頭をもたげてきた共同体的な思想、すなわちもう一方の戦勝国であるソヴィエト連邦や中華人民共和国などお社会主義や共産主義陣営の思想に対する対抗策として導入されたといわれています。>(難波和彦著『住まいをよむ』(NHK出版/2024.1.1)より)


 1979年にソヴィエト連邦は崩壊し、中華人民共和国も1979年に改革開放を始め、資本主義社会への転換を果たした。フランシス・フクヤマ著『歴史の終わり』が書かれてのは、こうした時期だった。私たちも、多分、共産主義や社会主義ではない、新しい資本主義の時代が始まるのだ思った。しかし、それは、間違いだった。フクヤマは、現在では、『アメリカの終わり』を書いているし、いろいろなところで、戦争が始まり、紛争が起きている。環境問題など地球と危機だと叫ばれているのに、帝国主義的な対立が、世界に起きている。いつの間にか、世界は、変わってしまっていたのだ。
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定住と農業革命について(続)

2024-02-11 16:28:54 | 政治・経済・社会
 先週のブログで、ハラリの『サピンエス全史』では、農業を始めて定住化が進んだというふうに読めると書いた。ところが、狩猟採集民が建設したギョベクリ・テペの遺跡について、面白いことを述べている。

<ギョペグリ・テペの構造物を建設するには、異なる生活集団や部族が何千もの狩猟採集民が長期にわたって協力する以外になかった。そのような事業を維持できるのは、複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかなかった。
 ギョペグリ・テペは、他にもあっと驚くような秘密を抱えていた。遺伝学者たちは長年にわたって、栽培化された小麦の起源をたどっていた。最近の発見からは、栽培化された小麦の少なくとも一種、ヒトツブコムギがカラカダ丘陵に由来することが窺える。この丘陵は、ギョペグリ・テペから約三〇キロメートルのところにある。
 これは、ただの偶然のはずがない。ギョペグリ・テペの文化的中心地は、人類による最初の小麦の栽培化や小麦による人類の家畜化に、何らかの形で結びついている可能性が高い。この記念碑的建造物群を建設し、使用した人びとを養うためには、膨大な量の食べ物が必要だった。野生の小麦の採集から集約的な小麦栽培へと狩猟採集民が切り替えたのは、通常の食料供給を増やすためではなく、むしろ神殿の建設と運営を支えるためだったことは十分考えられる。従来の見方では、開拓者たちがまず村落を築き、それが繁栄したときに中央に神殿を建てたということになっていた。だが、ギョペグリ・テペの遺跡は、まず神殿が建設され、その後、村落がそこ周りに形成されたことをしさしている。>(『サピンエス全史』より)

 私は、「従来の見方」のほうが正しいとしてなぜいけないのか分からない。そこに村落ができ、その後、小麦が栽培化されたのだと考えてなぜいけないのか。むしろ、小麦栽培を素晴らしいというのは罠だといっているくらいだから、わなにかかったしまったのは、「複雑な宗教的あるいはイデオロギー的体制しかなかった」からこそ、小麦の栽培に特化した人びとの集まりができたのだと思う。小麦栽培をしている人たちが、神殿づくりもしたのである。あるいは、税のように作った小麦を神殿づくりに携わる人に渡したのかもしれない。

 ハラリがいうように、狩猟採集民の生活のほうが、小麦に家畜化された生活よりはるかにいい。だから、彼らが進んでそうしたとは思えない。ハラリは、罠にかかったのだというが、そうではない。それは、産業革命が起こり、機械が普及することにより、より便利になったように思われるが、それは、わなであると言っているようなものである。この点は、柄谷行人が『世界史の構造』で述べている次の言葉の通りである。

<たとえば、「新石器革命」あるいは「農業革命」という言葉は、「産業革命」からの類推に基づいている。しかし、もし産業資本主義や現代国家が産業革命によって生まれたというならば、誰でも、それが逆立ちした見方だということに気づくだろう。紡績機械や蒸気機関といった発明は確かに画期的であるが、それらの採用は世界市場の中で競合する重商主義国家と資本制生産(マニュファクチャー)の下にのみ生じたのである。>(『世界史の構造』より)

 だから、そんなことなどしたくなかった「農業革命」をある意味では罠にかかったように進んで人々がしたのはなぜかということが問われなければならない。それは、定住化することによって生まれた氏族社会や部族社会から次第に首長制国家や、アジア的専制国家ができたからだというべきだ。そして、農耕だけでなく、狩猟採集生活も同時にやっていた人々が、国家によって、農耕民として固定化されたからだ。

 定住と農業の関係は、私は、ハラリより、西田正規著『人類史のなかの定住革命』の説の方を支持したい。定住することによって、植物の栽培化、動物の家畜化が生じたと考えたほうがわかりうやすいと思う。そして、なぜ、いやな農業や牧畜に従事するようになったかは別の理由があったと考えるべきだ。それこそ、社会がそれを必要としたというべきだ。また、定住化したのは、気候変動によると考えるしかない。つまり、歴史の偶然である。ハラリがいうように、遊動する狩猟採集民は、定住を欲したわけではない。

<中緯度の森林環境に定住民が出現する背景には、亜寒帯的ステップや疎林に。おける狩猟に重点をおいた旧石器時代の生活から、晩氷期以降の温暖化による温帯森林の中緯度地帯への拡大に対応して、魚類や、デンプン質の木の実や種子に依存を深め、漁網やヤナなどの携帯できない大型漁具や、食料の大量貯蔵が発達したことがあった。初期の定住生活者の出現は地域によって多少の違いはあるものの、日本列島においても、ヨーロッパ、西アジア、北米の中西部とカリフォルニアにおいても、更新世末期から完新世にかけて温暖化の時期に現れる。>(『人類史のなかの定住革命』による)

<中緯度森林地帯における、遊動民から定住民、そして、定住民から農耕民にいたる歴史的過程のどちらがより重要な意味を含んでいるのか。これらのことから私は、採集か農耕かということより遊動か定住かということの方が、より重大な意味を含んだ人類史的過程と考え、生産様式を重視する「新石器時代革命」(=食料生産革命)論に対して生活様式を重視する「定住革命」の観点を提唱した。>(同上)

<農耕が人類史においてはたした意味は、定住生活を生み出したことにではなく、中緯度森林の段階に見られないさらに高い人口密度や、より大きな集落や都市、より複雑な社会経済組織などの形成過程においてこそ評価される。すなわち、それ以前の素朴な社会にとどまっているなら、たとえ栽培型植物の栽培が行われたとしても、中緯度森林の定住民の範囲内にあるものとして理解しておくべきである。>(同上)

 小麦や稲、トウモロコシ、ジャガイモなどの主食になる植物の栽培は、それぞれの地域で、独自に発生し、発展し、世界経済が普及するにつれて、世界中に広まった。つまり、定住していれば、必然的に栽培植物は、見つけられ発展していくのであり、それらが定住生活を促したわけではなかったとみるべきである。狩猟採集民としての生活は、サピエンスの数万年の歴史を持っており、定住化が始まったのは、1万年とすこし前であり、日本で言えば縄文時代である。弥生時代になってから農耕民が存在し始めたのであり、それから数千年しかたっていない。定住化してから、稲作が普及するまでのほうがはるかに長いのだということを忘れるべきではない。

 決して、米や小麦によって人類が奴隷的な地位に陥ったわけではない。それは、定住生活のなかで氏族社会が発生し、やがて都市や国家が生まれてきたことと関係しているのだ。小麦や稲作は、最初の一歩が踏み出されれば、すぐに拡散して行くことができる。定住者の交流があればなおさらである。山上憶良の貧窮問答歌に登場するような農民が存在したのは、彼が属していた大和政権ができたからであり、彼らは、米作りだけに押し込められてしまったからだ。
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定住と農業革命について

2024-02-04 13:54:33 | 生活・文化
 最近、柄谷行人の『世界史の構造』を読んで、「定住するようになって、農業が発展した」という説を知って、なるほどと思い始めた。ある意味では、狩猟採集民にとって、定住革命が起きたのたと思う。定住することによって、農業を推し進めざるを得なくなったとも言える。いままでは、「農耕するようになって定住するようようになった」と思っていた。それで、10年近く前に読んだ、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読み直している。
 
 ところで、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』について、ChatGPTに尋ねてみた。その返答を載せておく。

<ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史:ヒト種の誕生から21世紀の未来まで』(英語原題:"Sapiens: A Brief History of Humankind")は、イスラエルの歴史家ユヴァル・ノア・ハラリによって書かれた本で、人類(ホモ・サピエンス)の歴史についての壮大な概観を提供します。この本は、人類が地球上で支配的な種となった経緯と、その過程で起こった主要な文化的および社会的変化を探ります。

主な内容は以下の通りです:

認知革命 - 約7万年前に始まり、言語や思考の発展によって、複雑な社会構造や文化的なイノベーションが生まれました。

農業革命 - 約1万年前に始まり、定住生活の開始と農耕の導入によって、人口の増加、社会階層の形成、政治体制の発展を促しました。

統一の人間の秩序の出現 - 信仰、帝国の成立、資本主義などの抽象的な概念や大規模な組織の出現に焦点を当て、これらが人間の歴史にどのように影響を与えたかを探ります。

科学革命 - 500年前から始まり、科学的思考と探求が人類の世界観と能力をどのように拡大させたかを説明します。

ハラリは、これらの時代を通じて、人類の行動や思考がどのように進化し、現代社会の基礎を形成したかを探ります。彼はまた、経済、政治、哲学、生物学などの多様な分野を横断して、人類の過去、現在、そして未来についての深い洞察を提供します。この本は、人類の歴史を広い視野で捉えることにより、私たちが直面している現代の問題や将来の挑戦についての理解を深めることを目指しています>

 それなりに、分かりやすく、正しい解説をしていると思った。

 ちなみに、『サピエンス全史』では、「第1部 認知革命」、「第2部 農業革命」、「第3部 人類の統一」、「第4部 科学と帝国の融合」となっている。ハラリは「定住生活の開始と農耕の導入」という微妙な言い方をしていて、定住することによって農業を発展させることができたと読める内容になっている。そして、農業の発展によって、「人口の増加、社会階層の形成、政治体制の発展」を促したという。どちらかと言うと、農業が主で、定住はその結果のように説明されている。

 ところで、日本の教科書の記述では、縄文時代から定住が始まったと書かれていて、定住することによって、牧畜、栽培が始まり、やがて、農業(穀物としての稲の導入)がはじまり、弥生時代になったと説明されている。ある意味では、そうした栽培の土壌があって、稲作も導入できたのだとも考えられる。そのことに、特別不満があるわけではないが、農業の広がりが人びとをとても幸せにしたように読み取れ、そこに不満がある。この点は、ハラリの想像力のほうが優れている。

<かって学者たちは、農業革命は人類にとって大躍進だったと宣言していた。彼らは、人類の頭脳の力を原動力とする、次のような進歩の物語を語った。進化により、しだいに知能の高い人びとが生み出された。そしてとうとう、人々はとても利口になり、自然の秘密を解読できたので、ヒツジを飼い慣らし、小麦を栽培することができた。そして、そうできるようになるとたちまち、彼らは身にこたえ、危険で、簡素なことの多い狩猟採集民の生活をいそいそと捨てて腰を落ち着け、農耕民の愉快で満ち足りた暮らしを楽しんだ。

 だが、この物語は夢想にすぎない。人々が時間ととともに知能を高めたという証拠は皆無だ。狩猟採集民は農業革命のはるか以前に、自然の秘密を知っていた。なぜなら、自分たちが狩る動物や採集する植物についての深い知識に生存がかかっていたからだ。農業革命は、安楽に暮らせる新しい時代の到来を告げるにはほど遠く、農耕民は狩猟採集民よりも一般に困難で、満足度の低い生活を余儀なくされた。狩猟採集民は、もっと刺激的で多様な時間を送り、飢えや病気の危険が小さかった。人類は、農業革命によって、手に入る食料の総量をたしかにふやすことはできたが、食料の増加は、より良い食生活や、より良い余暇には結びつかなかった。むしろ、人口爆発とエリート層の誕生につながった。平均的な農耕民は、平均的な狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、見返りに選られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上代々の詐欺だったのだ。>(『サピエンス全史上巻』より)


 ハラリは、小麦を例にとって、ホモ・サピエンスが、小麦を栽培化したのではなく、小麦に家畜化されたとまでいう。稲もそうだが、小麦も育てるのには、手間がかかる植物である。

<ホモ・サピエンスの身体は、そのような作業のために進化してはいなかった。石を取り除いたり水桶を運んだりするのではなく、リンゴの木に登ったり、ガゼルを追いかけたりするように適応していたのだ。人類の脊椎や膝、首、土踏まずにそのつけが回された。古代の骨格を調べると、農耕への移行のせいで、椎間板ヘルニアや関節炎、ヘルニアといった、実に多くの疾患がもたらされたことがわかる。そのうえ、新しい農業労働にはあまりにも時間がかかるので、人々は小麦畑のそばに定住せざるをえなくなった。そのせいで、かれらの生活様式が完全に変わった。このように、私たちが小麦を栽培化したのではなく、小麦が私たちを家畜化したのだ。>(同上)

 私たちは、農耕社会の平均的な人間たちは、農業革命によって、劇的に進化した生活ができるようになったかのように思われるかもしれないが、そして、古代の一部の上層階級の人たちは、そうだったかもしれないが、農業は、つい最近機械化されるまでは、実に苦労の多い仕事だったのだ。ハラリは、そこを自分の想像力で実に見事に描いている。久しぶりに、読み返して、あらためて感動した。(この項、次回に続く)
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