いよいよ、先の河村文科相の、「6・3制」の弾力化などを柱とする義務教育改革案(河村プラン)が、9日中央教育審議会総会に提案された。朝日新聞によれば、次のような内容だという。
この、最後の、到達水準については、文科省幹部は、朝日新聞のインタビューで、「 到達すべき目標を明確に設定すれば、それを習得していない場合には留年も否定できない。責任ある教育を徹底する意味もある」話しているという。これに対しては、識者代表として藤田秀典・国際基督教大学教授(教育社会学)が、「劣等感・差別につながる恐れ」として次のような反対意見を述べている。
私は、「到達水準」という考え方がよくわからない。いままでは、学習指導要領はこれ以上のことは教えないということで、いわば学習内容の範囲を示していた。ところが、学習指導要領の精選ががなされ、内容を三割減にするとそれに対して学力低下論が起こり、今度の学習指導要領は最低基準を示したものだという説明になった。学習指導要領が、これが義務教育の間で身につけなければいけない最低の基準として検討されたことなどない。あくまでも、身につけて欲しい学習内容であったはずだ。
もし、本当に最低基準であるのなら、それを身につけさせるまで卒業させないというのは正しい。実際、現在でも、病気等で留年せざるを得なかった子どもはいる。しかし、多分、今のままであれば、半分近くの子どもたちは留年することになるのではないか。文科相は、「留年」を考える前に、なぜ「習得していない」か考えるべきだし、早急に「習得できる」ように指導すべきではないのか。そのための、「義務教育改革案」ではないのかと思う。
そうしてもやはりできない子は生まれてしまうのだろうか。その場合、何ができない子なのだろうか。そのためには、学習指導要領が本当に最低の到達目標になっているかどうか検討されなければならない。また、藤田教授の「できない子に対する細やかな指導・ケア」というのも曖昧だ。それは、いつどのようにやるのか。それこそ、指導の差別化ではないだろうか。「劣等感」というのは、本人の持つ感情であり、「差別」は他の人が行うものだ。問題は、一時的な「劣等感」や「差別」が固定化されることだ。自他とものにそれを認めてしまうことだ。今の義務教育の中にそれはないのだろうか。都会の公立の中学校と私立の中学校では、厳然とした違いがあるのも事実だ。そして、子どもたちは、多分「劣等感」や「差別」をかみしめながら、生きているのだ。
義務教育とは、通過していくべきところだ。オリンピックではないが、通過することに意義があるとさえ思う。人間が大人になっていく通過儀礼のようなものだ。義務教育の全ての教科を好きになることなどとてもできない。できないことがあったっていいのだと思う。自分の得意の分野を伸ばせばいい。何かができるということが大事だ。何もできないということはあり得ない。私たちはそうやって、義務教育を卒業してきた。今の子どもたちだってそれが可能だ。もう少し、私たちは、「知の力」と「子どもの力」を信じてもいいような気がする。できたら中央教育審議会は、文科相の意向に沿う改革案を作るだけではなく、私たちに分かるように徹底した議論を尽くして欲しい。
……「6・3制」の弾力化については、学校教育法を改正し、既存の制度に併存する形で小中一貫の「義務教育学校」の創設を可能にする方向が示された。これについては、05年度中に中教審の答申を受け、06年度に学校教育法の改正を目指すとしている。
学習指導要領のあり方も大きく変える。これまでは教育課程の基準として「教える側の指針」だったが、義務教育修了段階での子供の「到達水準」に転換。各教科の目標を指導要領で明確化する。
この、最後の、到達水準については、文科省幹部は、朝日新聞のインタビューで、「 到達すべき目標を明確に設定すれば、それを習得していない場合には留年も否定できない。責任ある教育を徹底する意味もある」話しているという。これに対しては、識者代表として藤田秀典・国際基督教大学教授(教育社会学)が、「劣等感・差別につながる恐れ」として次のような反対意見を述べている。
……小学校で「九九」ができない子が増えたといった現状から出た発想だろう。留年をさせていたフランスでは、学習意欲の低下などの弊害が指摘され、政策見直しを迫られた。日本は国際的にも上と下の学力差が小さく、その中での留年は劣等感や差別につながりかねない。むしろ、できない子に対する細やかな指導・ケアの方が大切だ。
私は、「到達水準」という考え方がよくわからない。いままでは、学習指導要領はこれ以上のことは教えないということで、いわば学習内容の範囲を示していた。ところが、学習指導要領の精選ががなされ、内容を三割減にするとそれに対して学力低下論が起こり、今度の学習指導要領は最低基準を示したものだという説明になった。学習指導要領が、これが義務教育の間で身につけなければいけない最低の基準として検討されたことなどない。あくまでも、身につけて欲しい学習内容であったはずだ。
もし、本当に最低基準であるのなら、それを身につけさせるまで卒業させないというのは正しい。実際、現在でも、病気等で留年せざるを得なかった子どもはいる。しかし、多分、今のままであれば、半分近くの子どもたちは留年することになるのではないか。文科相は、「留年」を考える前に、なぜ「習得していない」か考えるべきだし、早急に「習得できる」ように指導すべきではないのか。そのための、「義務教育改革案」ではないのかと思う。
そうしてもやはりできない子は生まれてしまうのだろうか。その場合、何ができない子なのだろうか。そのためには、学習指導要領が本当に最低の到達目標になっているかどうか検討されなければならない。また、藤田教授の「できない子に対する細やかな指導・ケア」というのも曖昧だ。それは、いつどのようにやるのか。それこそ、指導の差別化ではないだろうか。「劣等感」というのは、本人の持つ感情であり、「差別」は他の人が行うものだ。問題は、一時的な「劣等感」や「差別」が固定化されることだ。自他とものにそれを認めてしまうことだ。今の義務教育の中にそれはないのだろうか。都会の公立の中学校と私立の中学校では、厳然とした違いがあるのも事実だ。そして、子どもたちは、多分「劣等感」や「差別」をかみしめながら、生きているのだ。
義務教育とは、通過していくべきところだ。オリンピックではないが、通過することに意義があるとさえ思う。人間が大人になっていく通過儀礼のようなものだ。義務教育の全ての教科を好きになることなどとてもできない。できないことがあったっていいのだと思う。自分の得意の分野を伸ばせばいい。何かができるということが大事だ。何もできないということはあり得ない。私たちはそうやって、義務教育を卒業してきた。今の子どもたちだってそれが可能だ。もう少し、私たちは、「知の力」と「子どもの力」を信じてもいいような気がする。できたら中央教育審議会は、文科相の意向に沿う改革案を作るだけではなく、私たちに分かるように徹底した議論を尽くして欲しい。
毎度、鋭い指摘をありがとうございます。
義務教育で到達すべき学習目標自体の吟味も必要ですね。もし、最低やらなければいけないことというのであれば、もっと精選が必要ですね。
上に関しては、あまりそう思わないです。例えば算数や国語の漢字ができない子には、残して教える方がいいと思います。先生達は学年ごと、学期ごとの目標をもって教えています。その目標に達しない教科があったら、その時にケアするのは当然だと思います。例えば、ピアノができない子供がいたとして、その子供は潜在的には「みんなと同じようにピアノひけるようになりたいな」と思っていることが多いのではないでしょうか。そしたら、その場合は教えてあげることがいいと思います。習熟度は悪といった考えは今までもありましたし、佐藤学氏らは習熟度の悪影響を訴えています。でも、できない子が目の前にいたら、できるようにするために残してでも教えるのが本当の教師の優しさだと思います。そして大抵の場合、できない子は一人ではありません。各教科ごとにできない子に対する指導という意味でのケアであれば、人間には多様性がありますから、漢字が得意な子もいれば、計算が得意な子もいて、その裏返しで、それぞれが苦手な子もいるわけです。その多様性に応じた(それぞれが得意なものは違うし、苦手なものも違う。でもみんな得意なことと苦手なことはあるという意味ので多様性です)、各個別の目標があり、その目標に満たない子どもを指導するのが、劣等感などに通じるとは思えないのですが。もちろん、教師の一時的な感情などで言葉が発せられた場合には、劣等感が生じる場合もありますが、普段からその子の能力を認めて、できないところをケアするという立場を貫けば、劣等感につながる可能性は減るのではないかと思います。そもそも子どもは学力=人間の価値とみる傾向にあるのですが、そんなことはないのだ、ということを教師も世間はもう少し強く出す必要はあるかな、とは感じています。
>できない子が目の前にいたら、できるようにするために残してでも教えるのが本当の教師の優しさだと思います。
その通りだと思います。できない子どもに対して、徹底的に時間が許す限り指導すべきだと思います。
ただ、私がここで言いたかったことは、「留年」というのは、小学校というより、義務教育9年を終わったとき到達水準に達しない子どもを留年させるということだと考えたとき、その段階で「できない子に対する細やかな指導・ケア」といっても問題だと思ったからです。藤田先生がいうように、普段きめ細かな指導することは大事だと思います。しかし、最終段階でどうすることになるのかと思います。
私の考えでは、そのときは卒業させるべきだし、卒業後にさらに足りない能力を育てる学校へ行かせるのが理想だと思います。
つまり、義務教育段階では、できない子もそれなりにやって卒業することが大事だと思います。もちろん、できない子を放っておいて良いということがいいたいわけではありません。
「最低これだけは身につけべきだ」ということと、「できればこういうことまで身につけたいね」ということでは、かなりニュアンスが違います。おそらく、前者のような内容の指導要領はできないと思います。どうしても、後者のようになると思います。そうすれば、できないから留年という発想は出てこないのではないでしょうか。
>そもそも子どもは学力=人間の価値とみる傾向にあるのですが、そんなことはないのだ、ということを教師も世間はもう少し強く出す必要はあるかな、とは感じています。
このことも、その通りだと思います。
大体、勉強ができる基本は好きになることだといいますが、すべての教科が好きになるということだった無理だと思います。好き嫌いがあって当たり前だと思います。だから、できない教科があってもいいと思います。好きでない教科でもそれなりに頑張ってみたということが大事だと思います。