電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ミラーニューロン再び

2009-07-26 23:30:17 | 自然・風物・科学

 マルコ・イアコボーニ著『ミラーニューロンの発見』(塩原通緒訳・ハヤカワ新書/2009.5.25)はとても読みやすい。このイタリア生まれに神経生理学者は、まるで日本の福岡伸一教授のような存在だと思われる。パルマ大学のジャコモ・リゾラッティを中心とした神経生理学のチームが初めてミラーニューロンを確認したのは、1996年のことだ。マルコ・イアコボーニは、同じイタリア人が、脳科学の今世紀最大の発見だと思われるような偉業に心から感動し、自分でも人間のミラーニューロンの存在を信じて研究を続けている。そして、このミラーニューロンが人間にも存在しているとしたなら、確かにそれは人間の脳のいろいろな問題に大きな一石を投ずることになることは間違いないと思われる。

 ミラーニューロンについては、私は、2006年3月12日のブログで書いている。ところで、このミラーニューロンについてのウィキペディアの記述は面白い。

ミラーニューロン(英: Mirror neuron)は霊長類などの動物が自ら行動する時と、その行動と同じ行動を他の同種の個体が行っているのを観察している時の両方で活動電位を発生させる神経細胞である。したがって、他の個体の行動に対して、まるで自身が同じ行動をしているかのように"鏡"のような活動をする。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野と下頭頂葉においてミラーニューロンと一致した脳活動が観測されている。(ウィキペディアより)

 確かなことは、人間では、まだ、ミラニューロンは発見されていない。だから、信じられているという表現になっている。これは、人間の場合は、細胞一つ一つに電極の針を刺して、その反応を調べることができないことから、当然だと言える。人間の場合は、だから、機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)などでミラーニューロンと同じような働きをする領域を特定している段階である。しかし、ここで特定された前運動野と下頭頂葉は、マカクザルで発見された領域と類似していることから、人間にもあると信じられるようになったということだ。その意味では、このウィキペディアの微妙な言い回しは、その辺の微妙なニュアンスをうまく表現しているといえる。

ミラーニューロンは、神経科学におけるこの10年で最も重要な発見の1つであると考える研究者も存在する。その中でも、ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは模倣が言語獲得において重要な役割を持つと考えている。しかし、その分野での認知度にも関わらず、ミラーニューロンの活動が模倣などの認知活動において、どのような役割を果たすのかという疑問に答える神経モデルや計算モデルは、現時点では存在しない。加えて、1つの神経細胞がある現象を引き起こすとは一般的には考えられていない。むしろ、神経細胞のネットワーク(神経細胞群(neuronal assembly))全体が、ある活動を行う際に活性化していると考えられている。(ウィキペディアより)

 この項目が誰によって書かれたかは分からないが、脳科学に詳しい相当高度な知識の持ち主がこの項目を書いたに違いない。私は、この最後の「神経細胞のネットワーク(神経細胞群(neuronal assembly))全体が、ある活動を行う際に活性化していると考えられている」という叙述は、素晴らしいと思う。ミラーニューロンという一つ一つの細胞がそれで鏡のような役割を果たすというのは、信じられない。そういう意味では、「ミラーニューロンシステム」とうように表現した方がいいかもしれない。そして、英語のサイトでは、たいてい「mirror neurons」と表現している。

The discovery of mirror neurons in the frontal lobes of macaques and their implications for human brain evolution is one of the most important findings of neuroscience in the last decade. (What Do Mirror Neurons Mean ?

 さて、ウィキペディアの最初の叙述の最後に次のように書かれている。

ミラーニューロンの機能については多くの説がある。このようなニューロンは、他人の行動を理解したり、模倣によって新たな技能を修得する際に重要であるといえるかもしれない。この鏡のようなシステムによって観察した行動をシミュレートすることが、私たちの持つ心の理論の能力に寄与していると考える研究者も存在する。また、ミラーニューロンが言語能力と関連しているとする研究者も存在する。さらに、ミラーニューロンの障害が、特に自閉症などの認知障害を引き起こすという研究も存在する。しかし、ミラーニューロンの障害と自閉症との関係は憶測の域を出ておらず、ミラーニューロンが自閉症の持つ重要な特徴の多くと関連しているとは考えにくい。(ウィキペディアより)

 こうした記述にみられる研究は、それこそマルコ・イアコボーニたちは行っている研究である。上記の「ミラーニューロンが言語能力と関連しているとする研究者も存在する」という所に関係した実験がある。

 リサは被験者に手の行動と口の行動を描写した文章──「バナナをつかむ」や「モモをかじる」──を読ませ、そのときの被験者の脳活動を測定した。そのあとで、今度は手を使っての行動(オレンジをつかむ)と口を使っての行動(リンゴをかじる)を移したビデオ映像を見せた。結果、被験者はそれらの文章を読むときも、手の動きと口の動きそれぞれを制御することでしられている特定の脳領域を活性化させていた。それらの領域は、手の動きと口の動きに対応する人間のミラーニューロン領域だったが、そこは被験者が手の行動や口の行動を描写した文章を読むときにも選択的に活性化されるのである。この実験結果を見るかぎり、私たちはミラーニューロンの助けを借りて、いましがた文章で読んだ行動を頭の中でシミュレートすることにより、読んだ内容を理解しているように思われる。私たちが小説を読むときも、私たちのミラーニューロンが小説に描かれている行動をシミュレートして、あたかも私たち自身がその行動をしているかのように感じさせるのではないか。(『ミラーニューロンの発見』p121・122より)

 おそらく、ここから「言語におけるミラーニューロンの役割は、言語を通じて私たちの身体行動を個人的な経験から社会的な経験に変換し、人間の仲間全体で共有されるようにすることだ」というマルコ・イアコボーニの考えが出てくる。しかし、これは、今のところ飛躍だと思う。「ミラーニューロンの役割」とは、言語が通じるということの基盤づくりにあるということだけは確からしく思われる。そして、「人間の仲間全体で共有されるようにする」のは、「ミラーニューロン」ではなくて、「言語」だというべきである。

 この点は、言語の意味論を「イメージ」から考え、想像するときに活動する脳の部分と、実際に動かすときに活動する脳の部分は基本的に同じであるということから、「仮想的な身体運動」としての意味論を展開する月本洋の考え方がより適切だと私は思う(月本洋著『日本人の脳に主語は入らない』(講談社選書メチエ/2008.4.10)。 マルコは、「言語」をミラーニューロンの活動に一般化してしまっているが、月本はリサの研究(言語機能は肉体に本質的に結びついているという考え)を言語を理解する時のキーにしている。そして、そうすることにより、私たちは「言語」をより深くまで理解していけるような気がする。

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『1Q84』

2009-07-19 23:10:31 | 文芸・TV・映画

 村上春樹の『1Q84』(新潮社/2009.5.30)について少しだけ書いておく。もちろん、私が村上春樹を理解できるようになったからでもないし、『1Q84』を正しく読み解けるようになったからでもない。私は、『1Q84』を発売日の5月29日(金)に買い、31日には「Book1」も「Book2」も読んでしまった。村上春樹の長編をこんなスピードで読んだのは初めてだ。『1Q84』の世界は、私にはとても分かりやすい世界に思えた。村上春樹の小説ってこんなにわかりやすかっただろうか、というのが読後のいちばん大きな印象だった。だから、私はすぐに、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』のいわゆ三部作を読み返してみた。そして、それを読み終えるのに1ヶ月以上かかってしまった。

 そのうちに、「文学界」8月号で特集が組まれた。ついに芥川賞や直木賞は取らなかったばかりではなく、どちらかというと日本の純文学の世界からは疎んじられてきた村上春樹について、ただ『1Q84』という作品のために特集がくまれたということに対して、とても皮肉なものを感じたのは私だけではないと思った。「文学界」の「村上春樹『1Q84』を読み解く」という特集で、加藤典洋、清水良典、沼野充義、藤井省三の4人が、それぞれ勝手に村上春樹の『1Q84』について語っている。そこで、加藤典洋は、「『桁違い』の小説」という文章を書いている。

 この小説を読んでからほぼ一週間の間、これをどう思うか、どう判断するか人に語り、自分の考えを述べることを禁欲してきた。何かこの小説には「感想を言いたくない」と思わせるものがあり、それが非常に強かったので、それに従うことがそのことについて、どこかで最初に「書く」ときに大事になると感じられたからである。(「文学界」2009年8月号p216)

 ここを読んだ時には、なんだが私とよく似た感想だなと思ったが、その後がかなり違っていた。加藤は、「この小説を現在の他の日本の小説家の作品とは『桁違い』、『隔絶している』、それくらいにすばらしい」と、評価している。私は、『1Q84』は村上春樹の作品としては、処女作より後退しているのではないかと思った。もちろん、だから駄作だというわけではない。『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』などを読んできた読者と『1Q84』だけを読んだ人では、明らかに村上春樹の世界に対する印象が違って見えるに違いない。。

 私の理解では、村上春樹は、小説という虚構の世界を通して、「個人」と「社会」について考えてきた作家だと思う。「個人」とは「僕」であり、「社会」はあちら側に「システム」として対峙している。村上春樹は、「システム」と「個人」の関係を描こうとして、作品の中に、謎を設定した。『羊をめぐる冒険』では、「僕」という主人公の視点から物語が描かれているので、当然「あちら側」は謎の世界である。「こちら側」は「僕」の世界であり、「あちら側」というのはいわば「羊」が作った「システム」ということだ。「社会」というのは、単に「個人」の総和ではない。多数の「個人」が作り出す「社会」は「個人」からみると、どうしても未知な部分が存在せざるを得ない。しかし、この「こちら側」と「あちら側」はどこかに穴が空いて秘かに結ばれていて、何らかの方法で行き来ができるようになっていると思われるようにできている。

 物語の基本構造は、『羊をめぐる冒険』と『1Q84』とよく似ている。ただ、「僕」の視点から書かれていた『羊をめぐる冒険』とは違って、『1Q84』は三人称で書かれ、物語の構造はより明確になり、そして細部がよりわかりやすく書かれている。細部を見る限り、青豆の世界は、「必殺仕事人」から作られた世界であり、方法的に試みられた『エンターテインメント』性の導入があり、この殺し屋の設定は、ハードボイルドというより、明らかにに日本のテレビドラマだという加藤の見解には同感だ。

 さて、こういう目鼻立ちのくっきりした小説、その芯のところ、一番大切な場所に、みすぼらしい、小さな、何でもない場面がおかれている。でも、その数秒間のできごとが、大活劇の、また人間の心の奥深くまでもぐる(『ミクロの決死圏』のような)おおきな骨格を保つ小説の全重量をささえている。そのことを考えると、「胸をしめつけられる」。(『文学界』2009年8月号/同上・p217・218より)

 勿論、ここでいわれている「何でもない場面」というのは、青豆と天吾が10歳のとき出会った場面である。「少女は長い間無言のまま彼の手を握り締めていた」という場面だ。

 この女の子がじつは堅固なスポーツジム・インストラクターでかつ特異な「キラー」でもある青豆だとわかる、後続章の何気ないくだりは、戦慄的である。
 こんな小さくちっぽけな場面の上に、二巻からなるこの大部の小説の絢爛ともいえる世界が構築されている。そう思うと私は、「胸が苦しくなる」。感想を言いたくない、とはこのことである。(同上・p218)

 ところで、村上春樹は、同じ1984年の物語を書いている。『ねじまき鳥クロニクル』という小説は、1984年の物語であり、英訳本では、「Book1 1984年6月-7月、Book2 1984年7月-10月」となっているという。同じ特集の中で、沼野充義が「読み終えたらもう200Q年の世界」で次のような指摘をしている。

『ねじまき鳥クロニクル』の発端も同じ一九八四年で、主人公の岡田亨は天吾と同じ年の三十歳。また『海辺のカフカ』のあの忘れがたい田村カフカ少年とナカタさんのコンビは、かなりの程度まで、『1Q84』における天吾とふかえりの関係に似ている。ナカタさんはふかえりと同様、この世界と異界をつなぐ存在で、ディスレクシア(読字障害)を抱えたふかえりに似て、読み書き能力を失っている。
 こういった側面をみると、村上春樹は常に一貫しているわけで(ハルキはやっぱりハルキなんだ!)、実際、還暦を過ぎたはずなのに、いつまでも若々しく、主人公の年齢を自分の実年齢に合わせて引き上げることを絶対にしないのには驚くべきことだ。ちなみに天吾の二十九歳というのは、村上春樹自身がデビュー作『風の歌を聴け』を書き始めた年であり、作家の総決算の小説で自分の出発点に今一度戻っていったとも言える。(同上・p225・226)

 おそらく、『羊をめぐる冒険』では、無意識のうちに、そして『1Q84』では意識的に作り出された村上春樹の物語の構造については、ジョセフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』と比較しながら、物語構造を解き明かしている大塚英志の『物語論で読む村上春樹と宮崎駿──構造しかない日本』の主張がおそらくいちばん当たっているように思われる。

 けれどもまるで三島由紀夫の『仮面の告白』のように乳幼児の記憶から始まり、フロイト式のファミリーロマンスやフレイザーの『金枝篇』、アーヴィングを連想させる識字障害やサヴァン症候群などいくつものどこかでみたような文学装置が今までになく動員される一方で、村上龍の『五分後の世界』をどうしても連想する枠組み、ライトノベルズの美少女もどきの青豆やふかえりといったキャラクター造形が試みられる。「文学」(「ライトノベルズ」込み)のデータベースからサンプリングされている、ということなのだろう。しかし、それらの具体的な表現は三島もアーヴィングにも、あるいは「ふかえり」であれば綾波レイには及んでおらず、しかし現在の「文学」としてみれば舞城王太郎らライトノベルズ系文学よりは成熟している。何より構造は『スター・ウォーズ』であるのだから。(『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』角川oneテーマ21/2009.7.10 p251・252)

 私は、村上春樹についていろいろなことを確かめてみたいと思っている。村上春樹が描いた物語の構造は、ある種の普遍性を持っていて、だからこそ私たちをその世界に引きずり込んでしまうのであり、また、私たちは心の片隅で、そうした世界に引きずり込まれてしまいたい誘惑を待っていたりもするのである。大塚英志は、『1Q84』に詰め込まれた雑多な通俗的な細部を否定的に見ているような気がするが、私は反対に、これほどまでの通俗的な事物を投げ込んで、大きな物語を、しかも、世界に向けて書いている村上春樹という作家に、感心してしまった。

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松とPine

2009-07-11 22:07:15 | 文芸・TV・映画

 日本語の「松」は、英語では、「pine」という。日本語では、「松」という言葉は、「待つ」という言葉と同じ音で、しばしば掛詞として利用されている。ところが、英語の「pine」にも日本語の「待つ」と同じような意味があるのを最近知った。ちなみに、手元の『小学館プログレッシブ英和中辞典』(1998年第三版)には、名詞としての「松」の意味を持つ「pine」の他に、動詞で、「思い焦がれる、切望する」という意味をもつ「pine」が載っている。これは、おそらく偶然だと思われるが、とても面白いと思った。

 二宮ゆき子が歌っていた「松の木小唄」はおそらくは誰もが知っているに違いない。

松の木ばかりがまつじゃない
時計を見ながらただ一人
今か今かと気をもんで
あなた待つのもまつのうち

 この歌の「まつ」は、英語に訳すなら、「pine」がぴったりだと思う。

 さて、私がこの「pine」について知ったのは、「松の木小唄」の返歌かと間違われそうな『百人一首』に乗っている在原行平の歌のマックミラン・ピーターによるの翻訳を読んだ時だ。行平の和歌は次のようなものである。

立ち別れ いなばの山の 峰におふる
松としきかば 今かえりこむ
(今私は、あなたとお別れして、因幡の国に行きます。でも、稲葉山に生えている松ではないですが、あなたが待っているいると聞いたら、すぐに都に帰って来ます。──筆者訳)

この歌が、マックミラン・ピーター著・佐々田雅子訳『英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ』(集英社新書/2009.3.22)の中で、次のように英訳されていた。

Ariwara no Yukihira

Though I may leave
for Mt.Inaba,
famous for the pines
covering its peak,
if I hear you pine for me
I'll come straight home to you.
(同上・p75)

 「for the pines covering its peak」という表現と「I hear you pine for me」という表現を見た時、私は驚いて辞典を調べた。そして、「pine」に二つの意味と用法があることを知ったのだ。そして、不思議な一致にしばらく呆然とした。しかし、訳者の頭の中では、おそらく日本語の「まつ」と同じように、「pine」という言葉が響いていたに違いない。もちろん、全ての読者がそういう体験をするとは限らない。日本語の和歌を知らない人は、きっと単なる「洒落」だと思うのかもしれない。しかし、その「洒落」の中に、和歌の面白さがあることも事実である。

 私には、この英詩の意味は読み取れるが、どれだけ優れたものかはよく分からない。ドナルド・キーン博士が絶賛しているところから、かなりの翻訳だと思われるが、全体的にとてもわかりやすい訳だと思った。最近時々、『百人一首』を読んでいる。角川ソフィア文庫に入っている島津忠夫訳注の『新版百人一首』と比較しながら、マックミランの訳を読んでいる。いわば、英語の勉強のつもりなのだが、このアイルランドの詩人の訳を通して、和歌の別の見方に気づかされのも面白い。また、百人の歌人たちに思いを馳せるのもまた、楽しい。

 最後に、小野小町の「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」のマックミラン訳を載せておく

Ono no Komachi

A life in vain,
My looks, talents faded
like these cherry blossoms
paling in the endless rains
that I gaze out upon, alone.
(同上・p68)

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「神」の発見

2009-07-05 22:09:10 | 生活・文化

 会社に通勤する時は、大体7時少し過ぎの飯能発池袋行きの急行に乗る。飯能駅始発なので、大体座って行くことができる。昔は、そんなときはたいてい読書だったが、今では目が疲れるので、WALKMANを聴いている。金曜日の朝も、7時7分発の通勤急行に乗り、座ってしばらくしてから、WALKMANを聴くことにした。家を出る時にWALKMAN本体にイヤホーンのコードを巻き付けて、いつでも聴けるように左胸ポケットに入れておくのだ。そして、WALKMANを聴き始めて1年近くになり、こうした動作はほとんど無意識のうちに行われている。

 その日も、だから、私はちょっとした違和感を覚えながら、セットしスイッチを入れた。すると、左耳の方が音が小さいのだ。一度、左耳の方を外して入れ直してみたが、やはり小さく聞こえているが、まるで今朝方耳の調子が悪くなったように、聞こえが悪くなっている。私は、瞬間的に、左耳がおかしくなったと思った。私の頭にあったのは、先週中津川の実家に妻と出かけ、耳の遠くなった父親と話をしたことだった。どうも、塚本家は年を取ると難聴になる家系らしいというのが、妻の感想である。

 そういえば、最近私は、両耳の奥に、何か違和感を覚えていた。何となく、耳の奥の方で炎症を起こしているような感じがするのだ。そんなときに私は、耳の中を掻いたりして、何年かおきに外耳道炎になっている。今年もまた、耳鼻科に行かなければならないかなと思っていたところだ。ところが、確かに左耳は違和感があるが、外耳道炎になったような感じではない。私は、てっきり、本当に耳が遠くなってしまったのだと思った。

 そのとき、イヤホーンを外して、いろいろ試してみたら、なぜそんな状態になったかすぐに分かったはずなのだが、その結果、本当に耳が遠くなっていたらどうしようと怖かったのだ。そのまま、かろうじて、WALKMANは聞けたので、会社まで聴きながら行くことにした。しかし、それは、とても不安な時間だった。私の頭の中は、WALKMANに集中できず、一方では意味のとれない英語の音声だけが流れていたが、他方では、キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』に描かれている、死んでいく人たちの心の過程の分析を思い浮かべていた。

 ロスによれば、死を宣告された人間は、「否認と孤立」「怒り」「取引」「抑鬱」「受容」という五段階を経て、やがて死んでいくのだそうだ。そして、これは、肉体的な死だけでなく、精神的な一種の「死」の場合、たとえば振られるとかいうような場合にも当てはまるらしい。短期間で言うならば、受験に失敗した時に辿る精神の過程でもありうる。そのロスの五段階で言えば、私は、第1段階から、第2段階を経て第3段階まで来たところで、会社に着いた。

 そして、会社でWALKMANを外して、左耳のイヤホーンにイヤーピースがないことに気がついた。すぐに、右耳のイヤホーンを左耳につけたところ、正常な音が流れているのが分かった。つまり、おかしかったのは、私の耳ではなく、イヤホーンのせいだったわけだ。私は、本当にうれしかった。私は、慌てて、鞄や、服のポケットの中にイヤーピースが入っていないか探したが、結局は見つからなかった。その日の夜家に帰って調べたが家にも落ちていなかった。おそらく、電車の中で、無意識のうちに、ポケットから取り出し、耳にセットしようとした時に、落ちてしまったらしい。

 ところで、先ほど、ロスの5段階説をあげて、第3段階まで行ったと書いたが、第3段階とは「取引」である。ここのところは、ロスのよれば次の通りである。

 第三の段階は取り引きを試みる段階である。この段階は、第一、第二段階に比べるとそれほど顕著ではないが、短い期間とはいえ、患者にとって助けになることに変わりはない。患者はまず第一段階では悲しい事実を直視することができず、第二段階では自分以外の人間や神に対して怒りをおぼえる。そしてその後、その「避けられない結果」を先に延ばすべくなんとか交渉しようとする段階に入っていく。「神は私をこの世から連れ去ろうと決められた。そして私の怒りにみちた命乞いに応えてくださらない。ならば、うまくお願いしてみたら少しは便宜を図ってくださるのではないか」というわけだ。(キューブラー・ロス・著『死ぬ瞬間──死とその過程について』中公文庫/2001.1.25 p140より)

 私は、確かに、「神」に怒りをおぼえ、「神」に取り引きをしていたように思う。しかし、それが、どんな「神」だったのか、おぼえていない。そして、その結果、現実は「神」のおぼえめでたく、イヤーピースのせいだったことになったわけだから、「神」に感謝した。それは、「神」が私の願いを叶えてくれたのだということでもある。しかし、その時は、うれしくてどんか「神」だったかなど、考えもしなかった。一神教の世界を知らない私は、おそらく八百万の神々のうちの誰かに祈ったのだ。そして、私は、今、心から、私の名前の定かでない「神」に、いや「神々」に感謝している。それは、確かに、不思議な体験なのだ。

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