電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「パキータ」

2006-04-30 23:09:18 | 文芸・TV・映画

 パリ・オペラ座バレエ団の日本公演が3年ぶりに東京文化会館で行われた。今回の日本公演は、4月21日から24日までが「白鳥の湖」で、4月27日から30日までが「パキータ」である。私は、知り合いが譲ってくれたチケットで、29日に見に行った。バレエを見るなんて何年ぶりだろう。テレビやDVDで時々見たりしているが、実際の公演を見に行ったのは10年以上も前の話だ。しかも、今回は、パリ・オペラ座バレエ団の公演で、今度はいつ見られるかわからない。そういう意味では、幸せであった。

 こうしたバレエとか、オペラとかは、たいてい妻と一緒に行くのが多いのだが、今回は突然の話で、チケットは1枚しかなかった。一人で、バレエを見に行くというのは、妻と二人で行くのと違って、何となく華やかな気持ちにさせる。6時半開演だが、6時に東京文化会館についたら、もう多くの人びとでごった返していた。私は中に入り、会場の前のホールで赤ワインを注いで貰い、一人でホールの中二階の二人がけのテーブルに座って、会場に向かう人の流れを眺めながら、グラスを傾けた。ワインは、600円ほどだが、ここで座ってワインを飲むのが私はとても好きだ。

 ワインを飲みながら、前日、友人3人と酒を飲んで語り合ったことを思い出していた。友人の二人は、早くから結婚し、もう子どもたちも大きくなっていて、ほとんど家で会うことはないのだが、その代わり、休みの日などに、女房と二人で食事をすることになるのだが、そんな時最近時々とても気まずい場合があるというのだ。彼らは、そこでふと会話が途切れてしまって、困ってしまうということらしい。私は、結婚が遅く、子供が産まれたのも遅くまだ小さいので、今のところ妻と二人で気まずい雰囲気を味わっているような暇はない。しかし、私の場合も、時々、子どもが塾や習い事に行っていて、妻と二人になるときがある。その場合は、まだ子どもの話などが中心だが、ふとお互いに孤独を味わっているような時間が流れることがある。それは、気まずいと言うより、そこに一人の人間がいるのだなという感じでもある。

 子どもは自分の遺伝子を一部持っているが、妻は全くの他人である。おそらく、未だに、妻は私の知らない人生を生きてきた過去を持っているし、それはそれで、私の場合も同じだと思う。この劇場の中を行き交う多くの人たちを私は全く知らない。もちろん知っている人も居るのかも知れないが。彼らは、いろいろな目的でバレエを見に来たはずだ。それは人数分の理由や目的がある。しかし、見終わった後、バレエについて何かを感ずるはずだ。かれらは何を味わって帰るのだろうか。妻は、「美」をとても大事にする。私が、そこに「意味」や「知」を求めているとき、たいてい妻は、「とても綺麗だったね」という感想を述べる。彼女の中で、「美」は完結しているらしい。確かに、彼女が感じている美しさは、永遠に私にはわからないのかも知れない。

 6時20分ごろになったので、私は、会場に入り、1階2列34番の席に座った。東京文化会館に行った人ならわかるが、そこはオーケストラボックスのすぐ前で、ほとんど右端に近く、下から舞台を見あげるような位置になる。音楽もそして踊りも、すぐ近くで、とても迫力がある。ただ、前の座席に座っている人が邪魔で、舞台の全体が見えないのが残念だった。しかし、私の周りに座っている人たちは(女性のほうが圧倒的に多いのだが)、そんなことはなれているようで、ブラボーと叫んだり、熱烈な拍手を送ったりしていた。私は、美しい踊りだと思ったが、あまりに近くで見たせいか、つま先立ちするバレエの踊りに痛々しさを感じてしまった。

 「パキータ」というのは、19世紀のナポレオン占領下のスペインにいた美しいジプシーの娘の名前である。彼女は、スペインにやってきたフランス人貴族のリュシアンと恋に落ちるが、自分がジプシーであり、不釣り合いの身分であることに悩み、身を引こうとする(第1幕1場)。しかし、スペイン人やジプシーたちがリュシアンを殺そうと計画していることを知り、機転を利かして、彼を助ける(第1幕2場)。そして、その陰謀が暴かれた舞踏会で、実は自分がフランスのある貴族の娘であることがわかり、めでたくパキータとリュシアンは結ばれる(第2幕)という話だ。大体のあらすじを知ってから、私はこのバレエを見たので、登場人物たちの踊りの意味がとてもよく分かった。音楽と踊りが見事に調和していた。

 バレエは、途中20分の休憩を挟んで、8時50分頃終了した。私は、真っ直ぐに池袋に向かい、9時半の特急に乗り、家に帰った。電車の中で、久坂部羊さんの『無痛』(幻冬舎/2006.4.25)を読みながら、ふと、今日のバレエのことを思い出していた。彼らは、足が痛くなったときどうしているのだろうか。ツメが割れて血が滲んだときどんな思いをしながら踊っているのだろうか。そういえば、バレエは、ルネッサンスの頃にもうイタリアで始まった踊りであるが、ある程度完成したのは、フランスのルイ14世の頃だ。このパリ・オペラ座バレエ団もそのルイ14世が始めたものだ。そう、バレエというの、貴族たちが見るためのものだ。そして、貴族たちというのは、とても残酷なものだ。イタリアから、フランスへ、フランスからロシアへ、そしてまたフランスに戻り、現代のモダンバレーへと続くバレエの歴史は、また、それで興味深そうで、機会があったら勉強してみたいと思った。

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グーグルとWebの未来

2006-04-23 21:15:34 | デジタル・インターネット

 佐々木俊尚さんの『グーグルGoogle 既存のビジネスを破壊する』(文春新書/2006.4.20)を読んだ。梅田望夫さんの『Web進化論』を読んでからこの本を読むと、とても理解しやすい。梅田さんが、いわばグーグルの存在論を書いているとすれば、佐々木さんはグーグルの機能と役割を詳しく書いている。もちろん、二人が書いていることはかなりの部分で重なっているが、梅田さんがグーグルの存在のブラスの側面を強調し、佐々木さんがどちらかというとグーグルの負の側面をより多く取り扱っているのが特徴だと言えないことはない。いずれにしてもインターネットという存在が、やがてグーグルのような企業を生み出し、そしてそのグーグル(必ずしもグーグルでなくてよいのだが)がインターネットを支配していくようになるという必然性のようなものがこの二つの書物から理解できる。

 佐々木さんの本で、私が始めて知ったことがある。こんなことは、Webに詳しい人なら常識なのかも知れないが、グーグルの「アドワーズ」というビジネスモデルには更にモデルがあり、それがオーバーチュアの創設者のビル・グロスの発明した「キーワード広告」にあるということを教えて貰った。キーワード広告というのは、たとえば、ヤフーの検索サイトに行って、「雑誌」と入力してクリックしてみる。するとそのトップページの真ん中当たりに、「スポンサーサイト」という部分がある。「雑誌のオンライン書店はこちら!」という見出しと「雑誌ならヤフオクで」という見出しがある。これが、いわゆる「キーワード広告」というものである。そのほか、たとえば「教材」と入力してみる。こちらのほうは、「ディズニーの英語システム」などいくつかの見出しが出てくる。

 グーグルは、このビル・グロスの「キーワード広告」をまねて、「アドワーズ」というシステムを開発した。今度は、グーグルを開いて、同じように「雑誌」や「教材」で検索し見るとよい。グーグルの場合は、右側にスポンサーサイトというのがあることが理解できる。佐々木さんは、グーグルが既存のビジネスを破壊していきながら、自分の新しいビジネスモデルを創りあげていくところを解明している。「キーワード広告」が素晴らしい効果を示して成功した「B&B羽田空港近隣パーキングサービス」の例を取り上げているが、この「キーワード広告」というのが脚光を浴び始めたのはインターネットで「検索エンジン」がとても重要な機能を果たすようになったきたからだと言う。

 その変化が日本国内でも鮮やかに現れてきたのは、2002年ごろだったと思う。ネットレイティングスというインターネットの調査会社があり、ネットに関連するさまざまな調査を行っている。グーグルやヤフーなど主要な検索エンジンで使われた検索キーワードのランキングも調べているのだが、同社のこの年の調査結果に、「地図」や「アダルト」など従来からよく使われていた検索キーワードと並んで、「Yahoo!」「フジテレビ」「NHK」など、特定のホームページを表すキーワードが上位を占めたのである。
 それまでの検索エンジンは、何かを調べたい人が情報収集のために使うというのが、最も普通の利用方法だった。ところがこの時期から、明らかに検索エンジンの使い方が変わってきた。つまり「情報収集」ではなく、検索エンジンを「ナビゲーション(道案内)」として使う人が急に増えてきたということなのだった。(『グーグル』文春新書・p96・97より)

 この「検索エンジン」をナビゲーションとして使うということは、インターネットの世界に二つの機能をもたらす。ひとつは、既存のインターネットのビジネスモデルを破壊するような役割を果たすことになる。たとえば、楽天のようなモールは、楽天をポータルサイトとして使うことによって、より有効に機能する。しかし、「検索エンジン」でこのサイトに直接アクセスできるようになるということは、そうしたポータルサイトとしての機能を無効にすることを意味する。グーグルは、「グーグルニュース」という無料のサービスを提供しているが、ここへ行けば色々な新聞記事が分類され、記事ごとに調べられる。もう、誰も「朝日新聞」のサイトや「読売新聞」のサイトなどへ行かなくてもすむ。こちらでは、むしろ地方紙などが脚光を浴びたりすることになる。

 もう一つの機能は、膨大なインターネットのサイト情報をデータベース化することにより、検索エンジンに乗らないサイトは、インターネットから存在していないことにされてしまう役割を果たすことになる。これを、「グーグル八分」というそうだ。つまり、グーグルに認められないと誰もそのサイトに行かなくなってしまうことになる。ある意味では、「検索エンジン」が全能の神のようになり、神に認められない限り、存在しないも同じだということになるわけだ。これに伴う、グーグルとのトラブルはかなり起きているらしい。中国政府と提携して、中国国内のグーグル検索エンジンではグーグルがある種の用語を検索できないようにしてしまったことは有名であり、そこではある種のサイトは存在しないと同じことになっているわけだ。

 いま、アメリカでは、このグーグルに対抗してヤフーとマイクロソフトが「検索エンジン」の強化に乗りだしているという。検索エンジンを制するものが、インターネットの世界を制するというわけだ。佐々木さんは、グーグルが今後どうなっていくかわからないし、グーグルが成功するかしないかは不明だが、たとえグーグルが企業として失敗しても、その時は、ヤフーかあるいはマイクロソフトが、さらにはまた全く新しい企業かも知れないが、だれかが「検索エンジン」と膨大なデータベースによってインターネットの世界を支配してしまうような時代が今すぐそこに迫っていると警告しているように思う。

 しかし、私は、インターネットはまた別の発展をしていくような気もする。孤立無援のHPが世界に存在を示すのは、「検索エンジン」に乗るか乗らないかだけではないと思われるからだ。たとえば、ブログのような存在やSNSのような存在は、インターネットの機能そのものを上手く働かせた存在でもある。トロット夫妻が開発したムーバブルタイプのブログでは、トラックバックとコメントという機能を通じて、リンクの輪を広げていくことができる。グーグルの検索エンジンは、「優れたHPから沢山リンクが張られたHPはいいHPだ」という論理だが、ブログは「私の選んだ友だちは本当の友達だ」という論理で成り立っているのだ。

 もちろん、すべてがそうだとは言えないとしても、インターネットの基本は、「友だちの友だちは友だちだ」という論理でリンクが成り立っていく世界であることも確かだ。それは、本質的なところで、「検索エンジン」の論理と相反するものを持っている。最も単純な理由は、「検索エンジン」は最終的には機械的な処理であり、コンピュータにすべてまかせることになる。これに対して、ブログのトラックバックは、人間が自分で操作しなければならないのであり、そのことに意味がある。そういう意味では、私は、ブログが単なるWeb日記などを越えたWebサイトとしてインターネットでの重要な役割を果たすような時代がきているのだと思う。

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子どもと学びのゆくえ

2006-04-16 21:44:24 | 子ども・教育

 小学校で英語教育が必修になりそうだ。「小学校における英語教育について」という外国語専門部会における審議の状況報告が出されている。おそらく、これをもとに小学校で英語が、3年生かあるいは5年生から教えられることになりそうだ。4月6日の首都大学の入学式で、東京都知事の石原慎太郎さんが、「小学生は国語力を磨け」と文科省の批判をし、物議を醸していている。これに対して、小坂文科大臣が、「すでに9割の小学校が英語活動に」取り組んでいるといって反批判をしている。石原慎太郎さんの言葉は、酷い言い方だが、ほぼ当たっていると思う。小学校で英語を教えることはかまわないが、必修にする必要などないと思う。

 小坂文科大臣は、かなりの学校で実際に英語を教えている現実と、かなりの親が子どもに英語を早くから教えようと英語塾などに通わせている状況を踏まえて、すべての子どもが英語教育に何らかのかたちで触れられるようにしたいと考えているようだ。つまり、英語の塾などに通わせられない家庭の子どもでも、学校で英語に触れられるようにしたいということだ。それは、それで一理ある。しかし、先の外国語部会の審議では、小学校では、①「英語のスキルを教える」のではなく、②「コミュニケーション能力の活用」のひとつとして英語を教えようという結論になっている。

 外国語専門部会としては、こうしたことを総合的に勘案すると、中学校での英語教育を見通して、何のために英語を学ぶのかという動機付けを重視する、言語やコミュニケーションに対する理解を深めることで国語力の育成にも寄与するとの観点から、②の考え方を基本とすることが適当であると考える。
そして、この場合においても、①の側面について、小学生の柔軟な適応力を生かして、英語の音声や基本的な表現に慣れ親しみ、聞く力を育てることなどは、教育内容として適当と考えられる。(「審議の状況報告」より)

 「英語のスキル」を重視するか、「国際コミュニケーション」を重視するか、議論があったようで、後者を小学校段階の目標に据えている。しかし、それは、同じことだと思われる。いずれ、英語は普通の教科となり、子どもたちは、そのスキルを身につけるようになるに違いない。実際、英語教育を始めれば、それはそうなっていくに違いない。たとえ、学習指導要領で評価の対象にしないといったとしても、中学校で評価の対象になっている以上それが、早まるだけであり、特に最近「小中一貫校」などといわれていることから、一層拍車がかかることになる。

 要するに、「学力向上」から始まった今回の教育課程の改革は、子どもたちにとって更に厳しくなるに違いない。私には、学校から、遊びが消えていくような気がして仕方がない。子どもの生活の中心は、遊ぶことである。義務教育段階の子どもたちにとって、もっとも大事なことは、よく遊ぶことであり、その遊びを通して、ルールや社会性や、友情や思いやりを学ぶことが大切だと思う。彼らは、勉強でさえ遊びとしてすることができる。と、そんなことを考えていたら、「塾に通えぬ小中学生に無料の“公立塾”…文科省、来年度から」という読売新聞の記事が出た。

 経済的理由などで塾に通えない子どもを支援するため、文部科学省は来年度から、退職した教員OBによる学習指導を全国でスタートさせる方針を固めた。
 通塾する子どもとの学力格差を解消するのが狙いで、放課後や土・日曜に国語や算数・数学などの補習授業を行う。来年以降、団塊世代の教員が相次ぎ定年を迎えることから、文科省では「経験豊富なベテラン教師たちに今一度、力を発揮してもらいたい」と話している。

 最近の文科省の論理は、すべての子どもたちにある程度の学力を平等に身につけさせたいということを盛んに強調している。あたかもそのために文科省という存在があるといわんばかりである。このこと自体について、私は特別何も言うことはない。しかし、学校の正規の授業の中でいまどのように学力を身につけさせるべきか模索中なのに、土曜日や日曜日に、学校を利用した塾を作ることなどしていいのだろうか。団塊の世代の退職教師を利用しようとすることは決して悪いことではない。しかし、おそらく、それは塾とは全く別物になるに違いない。そんなことをするより、学校の教師にもう少しゆとりを与え、学力でも遊びでもしっかり子どもたちに対応できるようにするために退職教師を使った方がいいのではないか。

 今必要なことは、子どもたちが子どもたちの時代でしかできない遊びや勉強の仕方を学ぶことである。いたずらに、大人のマネをして、職業教育をしたり、社会勉強をすることではないと思う。そういうことにしっかり対応できる学校にすることが大事ではないかと思う。子どもたちの学力が、普通の塾や、文科省推薦の公立の塾でしか身につかないようでは困る。現に、有名私立中学校などでは塾になど行かなくてもよいに違いない。そして、東京などではそうした有名私立中学校へ受験する子どもたちが、半分以上に達する公立の小学校が出現している。

 藤原智美さんの『「知を育てる」ということ』(プレジデント社/2006.3.27)では、全国の特色ある有名な学校を紹介している。こういう学校を見ていると、「学校とは子どもが『知』を手に入れるための場所である」ということが実感としてわかる。しかし、それは特殊な学校であり、それなりのカネと時間と文化的環境の中で育てられないとそこへは行けないようになっている。その意味では、確実に格差や階層が生じている。政治家の子どもは政治家に、学者の子どもは学者に、教師の子どもは教師に、俳優の子どもは俳優にというような現象を見ていると、日本も本当に階層社会になりつつあるのではないか思われる。

 こうして過剰な期待感を背負わされた学校は、最近では学校機能そのもののアウトソーシングを始めている。総合的な学習にはNPOなどを利用するだけでなく、東京の公立中学校の中には、塾に土曜日の授業をまかせるというところもある。
 家庭が子育てを学校に委託し、学校がそれをさらに外部化するという構図を、ぼくらはどうとらえればいいのだろう。もしかすると、近い将来、学校は躾や食や体力や学力向上のためのコーディネーターのような役割になってしまうのだろうか?(『「知を育てる」ということ』p234・235より)

 いま、小学校で英語が必修化されるようになったり、全国学力テストが実施されるようになったりと、世界に通用する人材育成のための国家戦略として、学力向上への動きが激しくなっているが、その流れの中で、学校そのものが実は既に大きく変わりつつあるような気がする。学校の構造が変わるだけでなく、教師の意識も変わりつつある。つい先日、「職員会議での挙手、採決禁止=都教育庁」という通達が出されたそうだが、唖然としてしまった。職員会議をどのように学校の運営に生かしていくかどうかなど、校長の力量にまかせるべきだし、ときには多数決で決めた方がいい場合もあるに違いない。そんなことは、企業社会では常識だ。会社の社長は、社員がより働いてくれるなら、社員たちの創意工夫や自主的な働きを期待しているはずだし、必要なら多数決で決めさせたりするに決まっている。そして、たとえそうなっても最終的な責任は自分にあることを自覚しているはずだ。それとも、現在校長が職員会議での決議によって身動きできないようになっているのだろうか。そんなことを言っている場合ではないような気がするのだが。

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『ナルニア国物語』

2006-04-02 20:00:15 | 文芸・TV・映画

 かみさんと子どもと一緒に、近くの入間市にある映画館で『ナルニア国物語 第1章ライオンと魔女』を観た。『ハリーポッター』や『指輪物語』と比べて、とても穏やかな映画だと思った。もちろん、そう感じたのは私の印象であって、他の人はまた別の印象を持つのかも知れない。丁度、ロンドンがナチス・ドイツの空襲にあい、日本で言うところの疎開に送り出された4人の兄弟姉妹の冒険ファンタジーである。空襲の場面から映画は始まるのだが、何となくハリーポーターが、魔法学校へ出かけていく場面を彷彿とさせる。

 もちろん、話の展開の仕方は、『ハリーポッター』より、『指輪物語』に近い。『指輪物語』の作者J.R.R.トールキンと、『ナルニア国物語』の作者C.S.ルイスは、同年代の文学者であり、友人でもあった。二つの作品には、ヨーロッパの第1次世界大戦や第2次世界大戦の影がはっきりと刻印されている。邪悪な世界を支配する魔女やサタンには、ナチス・ドイツのナチズムが作者によって意識されていたに違いない。『ハリーポッター』と違い、『ナルニア国物語』も『指輪物語』も世界の崩壊と世界の再生がテーマになっている。『ナルニア国物語』のほうは、敬虔なキリスト教信者ルイスの作品らしく、物語の展開にアスランと呼ばれる王者のライオンの復活をはじめとして、キリスト教的な要素がたっぷり盛り込まれている。

 私が『ナルニア国物語』を穏やかな映画といったのは、幾つかの意味があるが、今述べたキリスト教的な要素によるわかりやすさということも理由の一つだと思うが、登場人物たちがグロテスクでないこともある。登場人物たちは、動物は動物のままであり、妖精は妖精のままであるといった方がいいかもしれない。アスランもライオンのままであり、魔女はとても魔女らしい。こうした、魔法の世界が映画になるのは、CGという技術の発展によるところが大きい。『ハリーポッター』の魔法の世界と同じように、奇想天外なナルニア国の住民たちが登場するが、これを映画化するためには、どうしてもCGが必要だったということができる。

 ロンドンから疎開先に出かけ、そこにあった洋服ダンスの中から、子どもたちはナルニア国に出かけていくという発想は、この世界とあちらの世界はどこかで通じているのだよということを象徴している。それは、全く別の世界であり、魔法の世界であるけれども、こちらの世界と全く別なのではないというルイスの考えがあるように思う。だから、ナルニア国で貫かれている倫理は、この世界でも貫かれなければならないという、ルイスの願いでもある。その世界は、とても分かり易く、私をほっとさせた。特に、4人の主人公、ルーシー、エドマンド、ピーター、スーザンの兄弟姉妹は、よくある普通の子どもたちであり、とりわけルーシーの無邪気な姿は、見ていて微笑ましくなる。

 ビアトリス・ゴームリーのC・S・ルイスの伝記『「ナルニア国」への扉』(文溪堂/2006.4)によれば、トールキンは、この『ナルニア国物語』を批判したようだ。

 なぜトールキンがこれほどまでにナルニア国物語を認めなかったのかといえば、ジャック(ルイスのこと)はトールキンのように、苦労してゼロから完璧に想像の世界を創りあげていなかったからだ。ジャックはかわりに、自分の想像の世界で生き生きと暮らす、違う国の神話や、タイプのちがう想像上の生き物を、楽しみながら物語にまぜいれた。ナルニア国では、古代ギリシャ神話にでてくるフォーンと中世時代の騎士が同居し、『たのしい川べ』に登場する動物と同じようにおしゃべりするビーバーがいて、おまけにサンタクロースまででてくる。こうしたごちゃまぜの魔法の世界に、現代のロンドンに住むごくふつうの女の子ルーシーがやってくる。ジャックはこうしたことに何の疑問も持たなかった。ジャックは子どものときから、自分が生きている世界はひとつではなく、”ちょっと角を曲がった先に”まだ知らない別の世界があると感じていたからだ。『ライオンと魔女』の老教授がいうように、ちがう世界にまよいこむのは”全くありうること”なのである。(『「ナルニア国」への扉』p114・115)

 私には、トールキンの指摘もよく分かる。物語の世界が、借り物じみているのは確かだ。しかし、ルイスは、おそらく、自分でもこの別の世界の存在をある意味では信じていたのだ。ルイスにとって、それは、単なる空想世界ではない。自分がこれまでに考え、悩んできたキリスト教への信仰心の象徴でもあるのだ。だから、かれは、古代ギリシャ時代からの神話や中世の神話をそのまま、神への信仰の象徴として信じていたと思われる。アスランは、だから、ルイスにとっては、キリストそのものだったと思われる。ルイスにとっては、キリスト教の世界とナルニア国の世界とは、まさしく同じ世界であった。

 トールキンが『指輪物語』を書いたとき、彼は現実逃避の文学だと批判された。彼の作品は、現実を丁度裏返したような世界になっていて、彼はその世界で平和を実現させた。ルイスの世界もまた同じような世界ではある。しかし、ルイスの場合は、トールキンと違って、『ナルニア国物語』はひとつの象徴であり、神話であり、ふと迷い込むが、最後にはそれは消え失せてしまう世界である。消え失せてしまうが、人々の心の中に、確かな像を残す。おそらく、『ナルニア国物語』を読んだ読者は、アスランの存在を忘れることができなくなる。

 最近、児童文学の世界でファンタジーが売れている。そして、映画にもなっている。書かれたときがそうだったように、おそらく、そうしたファンタジーの世界に対応した現実がどこかにあるに違いない。サタンや魔女が現実世界の誰を象徴しているのかはわからないが、世界が変動期を迎え、どこへ向かおうかわからなくなってきているという不安がそうさせるのかも知れない。そして、それらを読んだり見たりしているのは、子どもだけでなく大人も同じだと思われる。とりわけ子どもたちの場合は、ひょっとしたらもっと深刻なのかも知れない。

 日本の場合、こうした良質のファンタジーは、おそらくコミックの世界で実現されているものと思われる。岸本斉史の『NARUTO』などは、ある意味では日本版『ハリーポッター』だと言えないことはない。『ナルニア国物語』や『指輪物語』が第2次世界大戦の影を映しているとしたら、『ハリーポッター』や『NARUTO』は、現代世界を象徴しているに違いない。そこの何を読み取るかは別にして、彼らの中に、新しい子ども像が息づいていることだけは確かだ。

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