電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「スーツ」と「スイート」

2005-11-23 22:21:10 | デジタル・インターネット
 「Adobe Creative Suite」というのは、アドビというソフト会社のPhotoshop,Illustrator, InDesignなどがセットになったデジタル・デザインのプラットホームとでもいうべきものだ。私たち出版に関わるものにとってはなじみ深いソフトであり、私のPCにもそれがインストールされている。ところで、私はそれをいままでずっと「アドビ クリエイティブ スーツ」と読んでいた。どうも、そうではなく、アドビ社の人たちは、「アドビ クリエイティブ スイート」と読んでいるようだということを、先日若い女性編集者に教えてもらった。
 彼女は、アドビのセミナーに出ていて、アドビの人たちが「スイート」と読んでいることに気がついたらしい。そこで彼女は、「suit」と「suite」という文字の違いに気がついたという。英和辞典を調べると「suit」には、「ひとそろい」とか、「一組」とかいう意味もあるが、主として服のひとそろい、洋服のスーツを意味している。そして、「suite」もまた「ひとそろい」とか「一組」という意味がある。「一組のソフトウェア」という意味で使うときは、当然「suite」であり、「a suite of software」(ソフトウェア一式)と言うように使う。違いは、前者は動詞としても使われるが、後者は名詞だけであることだ。

 ところで、小学館の「Progressive English-Japaniese Dictionary」によれば、「suite」は「スーツ」とも発音するそうだ。特にアメリカでは、その傾向が強いようだ。だから、本当は、「アドビ クリエイティブ スーツ」と読んでも間違いではなかったらしい。もちろん、そう読んでいる人が、「suite」を「suit」と間違えて読んでいたのか、それとも、アメリカ人の発音を聞いていて単純に「スーツ」と読んだのかどうかは、不明であるが、私の場合は、「suite」を「suit」と間違えて読んでいたようだ。

 私はこのとき、はじめて、ホテルの「スイート・ルーム」の「スイート」をまた違う意味で勘違いしていたことに気がついた。私は、「sweet」と「suite」を間違えていたのだ。特に新婚旅行などにこの部屋を予約することが多いことや、「スイート・ルーム」という英語があるものと思い込んでいたので、「甘い部屋」「気持ちのよい部屋」という意味を考え、その分高級な部屋だと思っていたらしい。本当は、「suite」という単語一つで日本語の「スイート・ルーム」の意味を表していたのだ。彼女は、「スイート・ルームというのは、幾つかの部屋が組み合わさった部屋のことですよ」と教えてくれた。「間違ってもダブルベッドが置いてある部屋という意味ではありませんよ」と彼女は念押ししてくれた。

 英語で、「 We rented a suite in the resort's best hotel.」というのは、「 私たちは、そのリゾート一高級なホテルのスイートルームに泊まった。」という意味であり、「a suite room」とは言わないらしい。「英辞郎」によれば、「特別室」という意味もあるらしい。もっともその「特別室」のもともとの意味は、「一続きの部屋」という意味であったようだが。「ウサギ追いし かの山」というのを、「ウサギ美味し かの山」と理解していたのと同じような間違いを私はずっとしていたことになる。この年になるまで、このことに気がつかなかったことはとても恥ずかしいことかも知れないが、考えてみれば私が「スイート・ルーム」を予約したのは、新婚旅行に行ったときのたった一回だけだったのだ。
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偶然の幸運に出会う能力

2005-11-06 21:00:24 | 子ども・教育
 「偶然の幸運に出会う能力」。そんな能力があれば、誰でもそれを欲しいと思うに違いない。普通に考えれば、「偶然の幸運」は、自分のコントロールの及ばない領域である。その人の能力ではなく、偶然に決まるからこそ、「偶然の幸運」というわけだ。しかし、本当にそうだろうか。「偶然の幸運に出会う能力」のことを「セレンディピティ」と名付けたのは、ウォルポールである。そういえば、「セレンディピティ」というタイトルの映画があった。
 この「セレンディピティ」に注目して、茂木健一郎さんが『「脳」整理法』(ちくま新書/2005.9.10)で面白い論を展開している。「セレンディピティ」という言葉のそもそもの由来は次のような内容だという。

 「セレンディピティ」という造語の元になったのは、『セレンディピティプの三人の王子』という童話でした。「セレンディプ」は、いまのスリランカを指す古語です。この童話で。三人の王子たちは、旅をする中で、自分たちが求めていたものではないものに出会います。そのような偶然の出会いが、結果として王子たちに幸運をもたらしました。そのような偶然に出会う能力を、ウォルポールは「セレンディピティ」と名づけたのです。(『「脳」整理法』・p110)

 ところで、このような「セレンディピティ」は、どのような脳の働かせ方なのかというと、第一に「とにかく何か具体的な行動を起こすこと」が必要である。そして、第二に、「偶然の出会いがあったときに、まずその出会い自体に気づくこと」が必要である。そして、第三に、「素直にその意外なものを受け入れること」が大切だということになる。「偶然の幸運」は、まさしく「偶然」であるが故に、自分が意図していたものとは違った形でやってくるのだ。それ故、それを自分にとって「幸運なもの」であることに気づかなければ、永遠に出会うことはできないということになる。この三つの「行動」、「気づき」、「受容」が「セレンディピティ」を高めるために必要なことだという。

 ただし、これらの三つの能力がすべてそろっていても、それだけでは、偶然に出会う準備ができたにすぎません。肝心な「偶然の出会い」そのものは、自分ではコントロールできないかたちで起こります。セレンディピティとは、偶然の出会いがあったときに、「それを生かす準備ができている」、また「事後にそれを生かすことができる」能力を指すのです。
 もちろん、準備ができていたからといって、肝心な出会いそのものがない可能性もあります。その一方で、もし準備ができてなければ、せっかく出会いがあったとしても、それを生かすことができないのです。(同上p114・115)


 この「セレンディピティ」という概念の面白さは、教育とか学習ということを考えるときに、いままでとはまた違った見方を提供してくれる。繰り返しのドリルをしてスキルを高めたり、正解を学んで応用できるようになったりすることとは、違った学習の仕方を示唆している。もちろん、基礎的な素養は必要だ。しかし、そうした素養は、「セレンディピティ」を追求していけるようにするためにこそ必要なのかも知れない。

 茂木さんは、最近日本でノーベル賞を受賞した、白川英樹さんの「伝導性プラスティックの発見」、田中耕一さんの「タンパク質の質量分析法の開発」、小柴昌俊さんの「ニュートリノの観測」などは、それぞれ「セレンディピティ」によってなされたものだという。

 レントゲンによる「X線」の発見も、セレンディピティでした。レントゲンは、「クルックス管」と呼ばれる真空放電管を使った実験中、放電管と蛍光板の間に手を入れると、手が透けて、骨が映ることを偶然発見したのです。放電管から出る目に見ることのできない波長の短い電磁波が、蛍光板に当たって可視光に変換された結果、骨が透けて見えたのです。指輪をつけた夫人の手を撮影した写真は、当時のヨーロッパに一大センセーションを起こしました。(同上p119)

 最初にあげた映画もそうだが、「偶然素敵な恋人に出会う能力と、偉大な科学的発見をする能力は、実は同じである」ということになる。そして、大切なことは、「行動し、気づき、受容する」という能力を鍛えることだ。おそらく、学習の機会は、日常生活のふとした場面であるに違いない。私たちは、本当はたくさんの「偶然の幸運」を見逃していたのかも知れない。
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