電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

1年ぶりのゴルフ

2005-06-26 22:02:09 | スポーツ・ゲーム
 PCの画面に向かう時間が長すぎたせいか、網膜剥離の一歩手前まで行き、レーザー治療を受けた頃、血圧も高くなり、一時スポーツから遠ざかっていた。それまでは、月に1回くらいはゴルフに行っていた。練馬区の江古田から、埼玉県の飯能市に住むようになってから、ゴルフに行く回数が減ってしまった。昨年の夏頃ゴルフに行ったのが最後だったので、先日行ったのは1年ぶりだった。
 義理の母と義理の妹と私という何とも変な組み合わせのゴルフだった。義理の母と義理の妹は、ゴルフの練習ということも兼ねて私を誘い出したわけだ。私は、昔はそれなりにゴルフができたと思うが、そのときは全く自信がなかった。まあ、そんなに上手くなくても、精神的にゆとりを持てるようなゴルフができれば、一緒に回る人を楽しませることができる。そのためには、多少ゴルフが上手くないと、困る。

 ゴルフというのは、道具を使ってするスポーツで、体力に応じて色々工夫ができ、年を取ってもアマチアとしてはそこそこ競技が楽しめるスポーツだと思う。陸上だとか水泳だとか、自分の体力を主な力とするスポーツは、若い人には絶対に勝てない。勿論、ゴルフもプロ級の場合は、若さも必要だと思うが、私たちの場合は、かなりの年齢まで勝負ができるように思う。そんなわけで、また、時間と金を作って、ゴルフを始めようか思っていたところに誘いがかかり、私は乗ってしまった。その日は金曜日だったが、前日まで無理だと思っていた予定が、すべて前日に繰り上がり、休むことができてしまった。私が行けるよと返事をしたのは、前日の午後だった。

 コースは、日高市の平沢にある鶴ヶ島カントリークラブ。家から来るまで15分。過去に5、6回くらい来たことがある。2年ほど前に来た頃は、多分80台で回っていたように思う。1年くらいのブランクがあるが、日頃素振りなどをしっかりしていれば、基本的なところはそんなに崩れないことがわかった。ただ、多少なれるまでに時間がかかったが、過去の経験が役に立ちそうだ。結果は、49、51のトータル100だった。スコアには不満だったが、内容的には満足しできた。少し練習して、またコースに出るようになれば、多分、かなりのところまで昔のゴルフができそうに思えた。

 義理の母も妹もゴルフの経験だけは豊富で、しかも地元なので女性のキャディーさんと話も合い、意気投合していた。義母は73歳で、年齢に応じたプレーを楽しそうにプレーしていた。それでも、彼女はいつもハーフ60前後で回っている。すごいことだと思う。義妹は、キャディーさんの指導よろしく、ハーフを50台で回った。初めてだという。私は、それなりに貢献したことになる。

 丁度梅雨の中休みかといわれる時期で、とても暑かった。水を小刻みに飲み、しっかり汗を流し、よく歩いた。気持ちよく疲れた。シャラの白い花や、泰山木の白い花が林の緑によく映えていた。時々冗談を言いながら、1日付き合うのは、とても精神的にいいものだと思った。私の直接の母ではないが、義母はとても優しく、義妹もそれとなく信頼してくれている。彼女たちは自営業なので、私のようなサラリーマンの経験がなく、私が休みを取ったことに大変恐縮してくれた。私は私で、義理の母の注文を会社を休む口実にできて、幸いだった。

 勿論、妻や子どもにも多少後ろめたいような気もする。自分だけがいいことをしているのが何となく後ろめたいというのは、当たり前かも知れないが、それでも楽しいことも楽しいのだ。こうした楽しい体験は、とても貴重な気がする。PCの前で、囲碁をしている時間とは根本的に異なる楽しさだと思った。多少、時間と金が必要だが、これから思い切ってこうした時間を作ろうと思った。久しぶりに、仕事のことを忘れて遊ぶことができた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親子クリーンオリエンテーリング

2005-06-19 21:17:12 | 子ども・教育
 飯能市の幾つかの学校で、学校公開の一環として「親子クリーンオリエンテーリング」が学校とPTAとの共同開催として行われた。昨年までは、平日に子どもたちだけが、学校で行っていたものだ。今年から、年2回、土曜日を使って保護者も参加できるようになった。飯能市全体がどうかわからないが、大きな学校行事だと思った。会社が休みなので、私が参加した。お父さんが多いのかなと思ったが、土曜日のせいか、お母さんの方が多かったと思う。
 内容は、次の3つがである。
 1 子どもたちは縦割り班(1年生から6年生までの混合)で回る。
 2 子どもたちと一緒に学区内を回りながら、ゴミ集めをする。
 3 学校に戻ってきたら、子どもたちと一緒にゴミを種類ごとに分別する。
 そして、行事の趣旨としては、「身近な自然、環境に目を向けさせ、郷土への関心を持たせる」「縦割り班で、協力して活動する態度を育てる」ということがうたわれていた。

 子どもたちは月曜日が振り替え休日になっていて、普段通りの時間にいつもの通りに学校に出かけていった。我が家の近くが、集合場所になっており、6年生の班長さんがちょっと身体の調子が悪いので、我が息子が班長代理で、下級生を3人ほど引き連れて学校に行く。4人が並んで歩いているのを見ていると、何となく、カルガモの親子のようなイメージだ。息子が大きくて、他の3人は女の子でとても小さいのだ。というわけどうか、私が見ていると、何となく恥ずかしそうに、私を見ないように歩いていった。

 子どもたちは、8時頃学校に出かけていったが、保護者は9時に学校のグランドに集合ということになっていた。一応汚れてもいい格好と、軍手、ゴミ袋を持ち、新聞紙の回収日ということでもあり、溜まった新聞紙を抱えて学校に向かった。家を出て驚いた。家のすぐ近くに幼稚園があるのだが、なんだかその幼稚園も同じようなことをやっているようなのだ。今日は、いつもと違って、お父さんが付き添いでたくさん来ていた。

 学校に行き、新聞紙を渡し、受付をすませると、子どもたちと一緒に縦割り班に入って並ぶ。私たちの班は、6年生が2人、5年生が2人、4年生が2人、1年生が一人という構成になっていた。全体で7人で、保護者は男2名、女2名だった。残りの子どもの保護者は必ずしも欠席というわけではないが、別の役割を持っている人たちもいるようだった。班には、地図を見ながら進路を決める班長さんと、ポイントごとにシールを貰い、用紙に貼って行く係がいた。ポイントには、特徴のある植物があり、それの葉っぱや花や特徴などを勉強する。シールを貼る用紙には、その植物の写真が印刷されていて、子どもたちはポイントの植物を観察していた。

 ポイントは20ポイントほどあったようだ。すべてを回った班もあったようだが、一筆書きと同じように、コースを上手く取らないと、時間内にすべてを回るのは難しそうだ。我が班は、4つ回れなかったようだ。私の覚えている植物は、「クワ」「鬼ぐるみ」「アジサイ」「サツキ」「ユリノキ」「すずかけ」「イチョウ」「タチアオイ」「イチイ」など。歩きながら、ゴミを見つけたら拾うことになるが、だいたいみんな同じような進路になり、ゴミの方はあまり拾えない。

 9時半頃スタートして、校庭に帰り着いたのは11時20分くらいで、湿度が高く、蒸し暑いせいか、子どもたちは2時間くらいの歩きにかなり疲れていたようだ。私も汗だくになり、疲れた。他の保護者の人たちも、汗をぬぐいながら、歩いてた。今日は特別な日なのか、保護者に甘えながら、手を引かれている子もいた。そういう意味では、楽しい時間だったのかも知れない。しかし、保護者がいない子どもたちは、何となく寂しそうだった。その辺が課題なのかも知れない。

 歩きながらの子どもたちの話を聞いていると、自分の家の近くに来ると友だちにここら辺がどうなっているか説明したり、知らないところだとこんなところがあるのかと驚いたりしていた。私たちは、学校区の全体をあまり知らない。特に、新しい家があちこちにできており、半分くらいは、よそから来た人のようだ。だから、保護者の方も、案外と知らない場所が多い。今は、子どもたちもあまり出歩かないし、外で遊ばなくなってしまった。そういう意味では、とてもいい行事だと思った。保護者もほとんど知らないもの同士だが、歩きながら、自分たちの住んでいるところなので、ふと共通の話題があったりして驚いたりしてしまう。

 子供会や学校の役員などに対してつい身を引いてしまう保護者も、こうした活動には抵抗なく参加できるし、子どもも楽しそうで、それなりに意義のある活動だと思った。飯能市は、森林都市宣言をしているだけあって、私たちが住んでいる学校のように、自然が豊かで、神社仏閣もいくつかあり、環境が整っていて、車の通行量がそんなに多くない道路があり、こうした活動がしやすい。先生方は、もちろん安全に留意し、ポイントごとに立っていたりと大変そうだが、子どもたちの元気な声ににこやかに笑っていた。運動会とはまた違った、地域社会との連携の仕方だと思った。大切にして欲しい行事だ。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゲーム脳」という言葉について

2005-06-07 19:17:08 | 子ども・教育
 「少年犯罪が起こるたび、ネットやケータイが悪玉にされる。だが、今やそれらの機器が子どもにとって『唯一の居場所』であり、『自己の鏡』とさえなっている。大人はどう接するべきか」というのは、かつてこのブログで取り上げた香山リカさんと森健さんの共著の『ネット王子とケータイ姫』のテーマだった。その中で、香山リカさんは、「ゲーム脳」というのはまだ証明されたわけではないというように言っていた。香山さんは、「ゲーム脳」になるからケータイやネットなども含めたIT機器のへののめり込みがあぶないということより、そこにしか自分の居場所を見つけられない少年少女たちの心の危機のほうが重大だといっている限りでは、私もそうだと思う。
 しかし、証明されたわけではないが、「ゲーム脳などない」というのも言い過ぎなのではないだろうか? 確かに、この点については、脳科学者の川島隆太教授も「ゲーム脳」はないということを述べている。川島教授は、『頭をよくする本』(KKベストセラーズ)の中で「ゲーム脳」という言葉の定義を「テレビをしすぎることで脳が壊れたり、うまく働かなくなったりして、病気に近い状態になってしまうこと」というように述べ、「ゲームをやって脳が壊れるということはない」と言っている。そして、「テレビゲームをしている間は前頭前野はほとんど働かないで、休憩のような状態になってしまう」と述べている。「ゲーム脳」という言葉について言えば、おそらく川島教授の言っていることは正しいだろう。

 しかし、私は、これだけ色々な方法をつかい脳を活性化させようとしている人が、子どもがテレビゲームにのめり込んだ場合、脳に何らかの影響を与えているだろうと言わないことのほうに驚く。私は、テレビゲームは脳に色々な影響を与えていると思う。それは、いい意味でもそうだし、悪い意味でもそうだというほかない。小さな頃から、テレビ、ケータイやパソコンに囲まれ、それにどっぷりつかって育ったらどういう人間になるかは、今のところ未知だと言うほかない。一方では、ビル・ゲイツやリーナス・トーバルズのような人間を生み出し、他方では様々な犯罪者をも生み出している。だから、私は、『壊れる日本人』(新潮社)の中で、次のように述べている柳田邦男さんに意見にかなりの部分で共感する。

 脳がダイナミックに成長する幼児期に、毎日テレビゲームにひたっていたら、反射的な運動神経やカッとなったりする感情的反応の神経ばかりが発達して、人間として大事な、感情をコントロールする自制心や事態の全体をとらえようとじっくりと考える判断力や創造力につながる思考力は発達しないという「ゲーム脳」説について、私はそのとおりだと思う。
 アメリカ小児科学会の勧告については、アメリカでも日本でも、専門家からの批判がある。二歳未満の子どもの脳の発達とテレビ視聴の関係についていまだ科学的な実証性に乏しいのに、テレビを見せるなとまで言うのは疑問だというのだ。確かに科学的な実証性となると、アメリカ小児科学会の勧告には弱いところがある。
 だが、科学的な実証とは何なのか。薬の有効性を調べる研究のように、二歳未満の子どもを百人とか千人規模で二組選び、片方のグループには毎日三時間も四時間もテレビを見せ、もう一方のグループには全くテレビを見せないという生活を数年続け、その人格形成の違いを観察分析しろと言うのだろうか。(『同上』p15・16より)

 ただ、私はこの場合の「ゲーム脳」について言えば、「ゲーム」のとらえ方が問題だと思う。なぜなら、ここでは多分「テレビゲーム」や「PCゲーム」のことを言っているということに注意しておく必要があるからだ。どうも、問題になっているのは、シミュレーション・ゲームのことが中心のような気がする。テレビは、観るものを受動的にさせ、そのことが脳の働きを休ませることにつながるのだと思うが、ゲームそのものは必ずしも脳を休息させるとは思えない。サッカーなどもゲームに違いないが、それはかなりの脳の働きを必要とするはずだ。

 こうなると、一つの文学作品が一人の読者にどんな影響を与えたかと同じように、一つのゲームが一人のプレーヤーにどんな影響を与えたかということを追跡調査をする必要がある。そして、ゲームとプレーヤーの相互作用を分析する必要がある。たとえテレビゲームでもかなり高度な頭脳プレーを必要とするのであり、川島教授の言うような脳が休憩しているというのは、おそらくただ受動時にテレビを見ているときのような場合だと思う。

 すべての子どもが「ゲーム脳」になるのではないと思う。色々な才能がそうであるように、脳はいろいろな特異性を持っていて、人によってはある種のゲームに異常に反応し、そしてそのゲームの世界にのめり込んでもう戻ってこれなくなる場合もあり得るのだ。また、どれだけゲームをやっても、何ごともない子どももいるに違いない。その差は、一人一人の子どもの個性(身体的な特性または脳の構造)によるのだと思う。

 大事なことは、「ゲーム脳」があるかないかという問題ではない。なぜ、ある種の人びとはテレビゲームにのめり込み、そのまま人間であることを忘れてしまうようなことになってしまうのかを具体的に研究してみることだと思う。私たちのまだ知らない原因があるのかも知れない。しかし、おそらく、ゲームにのめり込むというのは、とても人間的な行為なのであって、人間の精神だけが、あるいは人間の脳だけがそのことを可能にしていることも確かなのだ。

 そして、少なくとも、子どもは小学生の間は、パソコンやケータイなど電子機器は、慣れ親しむ程度でいいのだ。そんなものがなくても学習ができることが大事だし、基本的な読み書き計算には、電子機器は必要ない。むしろ、紙と鉛筆こそが必要だ。声を出して読んだり、また手を使って紙の上に書いたりすることは、ある種の運動を伴っている。そして、その運動が脳に作用する。こうして、脳は学習していくのだと思う。学習は、頭の中だけで行うのではなく、体全体を使うことを通して行われるのだ。

 そう考えると、むしろ、パソコンやケータイがないと新しい情報が入手できない状況こそが問題なのかもしれない。いつの間にか、いろいろな情報がインターネットでしか得られなくなってしまっている。政府や企業のいろいろな情報開示がインターネットで公開すればよいという時代になっている。だから、私たちは、インターネットから無縁でいることは不可能な時代にいるわけだが、使わなくてもいいときはできるだけ使わないようにした方がいいと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする