電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

衆議院が解散になった!

2005-08-17 00:03:54 | 政治・経済・社会
 会社の夏休みに入る直前に衆議院が解散になってしまった。勿論、それで夏休みを止めたわけではないが、多少困った。困ったのは、選挙の結果がはっきりとは読めず、9月初旬の選挙結果によっては、いろいろな問題がまた起こる可能性があるからだ。小泉内閣が進めていた構造改革が頓挫するのか、それとも更に拍車がかかるのか。その違いは、日本のこれからに大きな影響を与えるに違いない。
 私は、小泉総理の政治思想には賛成していないが、彼の自民党総裁としての政治論理には感嘆している。彼は、「自民党をぶっつぶす」というようなことを時々口にしていたが、自民党の派閥政治はほぼ、潰してしまったのではないだろうか。アメリカ、イギリス、韓国、中国などの国は、大統領や首相または、主席が政治的リーダーシップを取って、政治を行っている。小泉総理も首相としてはイギリスの首相と同じように党でなく内閣を中核とした政治勢力を作り、政治的なリーダーシップを取ってきた。

 参議院で否決された「郵政法案」は、小泉内閣の最後の仕上げだっただけに、小泉総理は衆議院の解散をして、改めて自分への国民の支持を仰いだということもできる。そして、国民からの指示が彼の支えであるだけに、今回の衆議院の解散は大きな賭でもあるが必要な選択でもある。もちろん、経済界もアメリカもそして、国民の多くも郵政民営化を必要なことと思っている人たちの方が多いと思われるだけに、ある意味では、この選挙こそ小泉内閣の最大の構造改革を意味しているのかも知れない。

 これに対して、郵政法案に反対した人たちは、小泉総理から自民党公認を外され、そのうえ「刺客」と呼ばれる対立候補を送り込まれるような事態になったことに対して、「恐怖政治」だとか「横暴」だとか泣き言を言っているが、これは彼らの認識が甘かったとしかいいようがない。完全に彼らは、小泉総理の覚悟に気づいていなかったのだと思う。それだけ、現在の自民党議員の中で、小泉総理の政治力が突出していたというべきだと思う。

 今一番の見所は、自民党の大改革の向かおうとしているときに、民主党がどれだけ独自な選挙対策をもち、自民党に振り回されない選挙ができるかにある。新保守主義的で民営化と市場の論理による構造改革の推進をめざす小泉内閣の路線は、現在ある意味では有効性を発揮して、日本経済を上向きにさせている。しかし、それは、かなり強い競争社会の実現であり、「選択の自由と自己責任」を基本原理とする強者の社会改革でもある。いずれ、日本社会はさらなる合理化・効率化を推し進め、そうした市場経済論理は、民営化の流れの中で、あらゆる分野に浸透していきそうだ。本当にそれでいいのだろうか。

 これからは、世界の中の日本という立場をどれだけ自覚できるかが基本になる。日本だけの国内的な経済合理性だけでは世界に通用しないと思われる。そして、そこが、小泉総理の一番危ういところだと思う。日本の国内の経済問題は常に、同時にアメリカや、特にこれからは中国や韓国との関係と密接不可分の関係を持って立ち現れてくる。そういう意味では、今一番自民党に変わって政権を取れそうな立場にある政党としての民主党にしっかりした政策論争を期待したい。おそらくそれだけが、自民党に勝ちうる選挙対策だと思う。ムードで戦ったら、おそらく小泉自民党の勝ちのような気がする。

 いつの間にか、日本の政治は2大政党になってしまった。おそらくここ当分は、自民党と民主党が2大政党として、戦い続けるであろうし、その二つしか選択肢がないに違いない。そのことは、国民の関心を一方ではつかむかも知れないし、逆に更に無関心層を生むことになるのかも知れない。そういう中で今一番注目すべきことは、いま国民の意識がどこへ流れていこうとしているかということだと思う。あるいは、この選挙でどんな選択をするかということかも知れない。お前は一体どちらを応援するのかという声が聞こえそうだが、そのいずれかしか選択肢がないという今の政治状況では、そうした分析だけが意味あることのように私には思われる。

 
コメント (2)
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スペイン音楽の午後

2005-08-07 22:48:36 | 日記・エッセイ・コラム
 私の住んでいる街の小さな喫茶店で、山田陽一郎さんのフラメンコ・ギターのミニ・コンサートがあった。お客はほぼ30人くらいで、皆何らかの関係で山田さんをよく知っている人たちだ。私も、義姉がフラメンコをやっていて、そのギタリストの演奏で踊っているのを見かけたことと、彼女のパーティーで何度がお会いしたことがあって一応顔見知りの仲間だった。コンサートは、2時半から3時45分までで、一月ほど前にギターの勉強にスペインに行っていたときの話などを織り交ぜて、楽しいひとときを過ごさせてもらった。
 演奏は、前半が「アルハンブラの思い出」「禁じられた遊び」「コーヒールンバ」「カプリッチョ・アラベ」で、後半が山田さん作曲の「光の中の影」「ラ・カレタ海岸」「ソレアレス」「赤の大地」だった。終わってから、アンコールに応え、4・5人のフラメンコ仲間の踊りと一緒に一曲演奏してくれた。私にはその曲名を知らなかったが、聞いたことがある曲だった。さすがに、狭いフロアでの踊りだったので、あの情熱的な踊りというわけにはいかなかったが、皆楽しそうに踊っていた。

 タルレガの「アルハンブラの思い出」は、とても懐かしい曲だ。私は高校生の頃、吹奏楽部に入っていて、クラリネットを吹いていたが、時々クラシックギターを練習したりしていた。アルバイトでためた金で、やすいクラシックギターを買い、クラシックの教則本を見ながら練習した。確かその教則本の一番後ろに載っていたのが、この「アルハンブラの思い出」だ。この曲は、タルレガがアルハンブラ宮殿を訪れたとき、とても感動してその夜のうちに作曲したと言われている曲だが、トレモロのところがとても美しい曲だ。そして、結局最後までそのトレモロが上手く演奏できなかった。

 私は、大学時の学園紛争の中で前歯を折り、クラリネットを諦めたが、実は高校の時稲刈りをしていて誤って左手の小指の先を少し切り落としてしまって、結局ギターを諦めた。前歯も小指もクラリネットやギターにとってとても大切な体の一部だ。勿論、私の場合は、プロのクラリネット奏者やギター奏者になるなどという大それた夢や希望を持っていたわけではなく、そのころ大好きだったバッハなどのバロックの音楽を少しでも理解できるツールになればいいと思っていただけだったので、挫折感があったわけではなかった。それでも、数日は悲しかった。

 コンサートに行くと、何故だか、私は金沢で過ごした学生時代のことを思い出す。私の学生の頃は、名曲喫茶というのが流行っていた。金沢には「モザール」という有名な名曲喫茶があった。有名ではあるが、もっぱらクラシックばかりをかける喫茶店でお客は少なかった。学生時代は、貧乏でとてもコンサートになど行く金がなかった。だから、有名な演奏家の演奏が録音されているレコードを友だちに借り、それを名曲喫茶に持って行ってかけてもらい、いっぱいの紅茶をゆっくり飲みながら聴いた。

 そのころ私は、バッハやモーツアルトの幾つかのすきな曲の楽譜を買い求め、それを持って名曲喫茶に行き、レコードを聴きながら、その楽譜を眺めていたことがある。当たり前だといえば当たり前だが、五線譜の上に書かれた記号と耳から聴いている音の流れとが見事に対応していることにとても驚いた。確かに、演奏家は、この譜面通りに演奏しているのだとそのとき思った。そして、この曲を書いたバッハやモーツアルトも同じように演奏したし、自分の耳で聴いていたはずだ。それがとても不思議な感覚だったように思われた。更に、不思議なことに、楽譜を眺めながら曲を聴いていると、なぜだがその曲が生まれてきたところに遭遇しているような感じがしたものだった。

 それは、学生の自意識過剰な思い入れに過ぎないが、そもそも学生は自意識過剰であることが特権のようなものだ。ある意味では、それでわかったつもりになっていたのだと思う。今では、もっと静かに、幸福感を感じることができる。学生の頃はそういうことは一人で聴くものだと決めていたのだが、今では回りに妻や友人がいても、気楽に聞けるようになった。年のせいかもしれない。勿論、我が家で一人留守番をしていて、紅茶でも飲みながら、バラック音楽を聴いていて本当に幸せな気持ちになることがあるが、それよりももう少し気楽に音楽を聴くほうが好きになっているようだ。

 私は、山田さんのミニ・コンサートには妻と二人で行ったのだ、隣の妻のことはすっかり忘れて、そんな昔のことを思い出しながら、スペイン音楽を楽しんだ。帰り際、「楽しかった?」と妻に聞かれて、「そうだね」と答えたら、「楽しかったと言いなさい!」と妻に怒られてしまった。私は、どうやら、妻の横で真抜けた顔をしながら演奏を聴いていたようだった。
コメント (1)
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