電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

松永英明というブロガーの過去と責任

2006-03-20 11:43:36 | デジタル・インターネット

 アルファブロガーと言われていた松永英明さんは、私がブログを始めるときに、最初にブログについてのノウハウついて教えて貰うために読んだ本(『ウェブログ超入門!』日本実業出版/2004.6.10)の著者だ。私は松永さんに会ったことはないが、本や彼のブログを読んだ限りでは、とても誠実そうな印象を受けたし、その印象は松永英明さんが実は、最近までオウム信者であるということ知ってからも変わらない。松永さんの自信のインフォーマルなブログによれば、松本・地下鉄サリン事件のときには、オウム第一上九・第5サティアンにいて「郵政省出版」に属し、新雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」の創刊の準備をしていたという。そして、オウムと完全に切れたのは、つい最近だと書かれている。

 松永さんについては、現在のところ大体3つの評価が行われている。一つは、当然の疑いでもあるわけだが、彼はまだ隠れオウム信者であり、これから何をするか分からない人間であり、とうてい許すことができないという意見である。二つめは、これと反対で、一応過去と決別したようであり、彼の誠意ある発言を信じて、今後を見てあげようという意見である。三つ目は、どちらかといえば後者に近く、多少松永さんに同情的であるが、現在の彼はたとえオウム信者ではないとはいえ、松本・地下鉄サリン事件のときにオウム信者であったのであり、そのことは直接的ではないとはいえ、間接的に責任があるはずであり、その責任は何らかの形で取るべきだという意見だ。

 私の知っていた松永さんはとても誠実そうに見えるが、それでも私にはこの三つともすべてが当たっているような気がするのだ。ある意味では、人は多重人格でありうると思っているといった方がいいかもしれない。なぜなら、松永さんが、完全にオウムと切れたのは、つい最近である言っていることからも分かるように、松永英明というペンネームを選んで、ブロガーとして活躍を始めてからも彼はオウム信者であったわけだし、完全なオウムとの決別は、松永英明=河上イチロー説が出て来てからのような印象を受ける。その時に、松永さんは、たぶんは、今のままの中途半端な立場はよくないと気づいたように見える。

 現在もオウム信者は、名前を変えたとはいえ教団を作っている。おそらく、その教義はかなり変質しており、松永さんのブログを呼んだ限りではかなりルーズな組織になっており、むしろオウムを辞めて、別の世界で生きていくのが困難な人たちが寄り集まっているような印象を受ける。私たちは、オウム信者が教団を作るのも嫌だと思っているし、かといって彼らが教団を解散して、私たちの隣人になるのも嫌だと思っているところがある。つまり、彼らはまだ犯罪者であり、そのためには教団としてまとまっていた方が安心だと思っているところがあるのだ。これは、偏見だと言えば偏見だが、普通の感覚でもある。中国や韓国の人たちが、未だに日本人を嫌っている構図と似ている。

 松永さんは、おそらく、やっとことの重大さに気づいたのではないかと思う。彼は、松永英明という名前で、新しい自分を発見したように思えるが、河上イチローであった自分の清算が済んでいるわけではない。松永英明という名前でやっていることは、教団とは一切関係がないというように言っているが、そして、おそらくそれは正しいのかも知れないが、しかし、彼はオウム信者としてやっていたことは確かだ。やっと松永英明という名前で現実社会からそれなりの存在意義を認められたときに、オウム信者であると暴露されて狼狽している様子がとてもよく分かり、彼と関わってきた人たちが不審のまなざしで見られることに対して、困惑しているのもよく分かる。

 村上春樹さんの『アンダーグラウンド』(講談社文庫)の「はじめに」の中で、村上さんは『アンダーグランド』をまとめようと思ったきっかけになったという、雑誌に投書欄に掲載されていた読者の手紙のことを書いている。

 手紙は、地下鉄サリン事件のために職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれていた。彼女の夫は会社に通勤している途中で運悪くサリン事件に遭遇した。倒れて病院に運び込まれ、数日後に退院はできたものの、不幸にも後遺症が残り、思うように仕事をすることができなくなった。最初のうちはまだよかったのだけれど、事件後時間が経つと、上司や同僚がちくちくと嫌みを言うようになった。夫はそのような冷たい環境に耐えきれずに、ほとんど追い出されるようなかっこうで仕事を辞めた。(『アンダーグランウンド』p16より)

 この女性の夫は、社会から二重に暴力を受けたことになる。一つは、サリン事件による無差別殺人事件の直接の被害者になってしまったことである。これは、オウム真理教団によって意図されたものではあるが、本人にとっては不運としか言いようがない。もう一つは、その結果の後遺症で仕事が上手くできなくなり、結局会社からはじき出されたということだ。これも本人にとっては、不運としか言いようがない。こうしたまるで不条理な事態について、村上春樹さんは、次のように語る。

 その気の毒な若いサラリーマンが受けた二重の激しい暴力を、はたの人が「ほら、こっちは異常の世界から来たものですよ」「ほら、こっちは正常な世界から来たものですよ」と理論づけて分別して見せたところで、当事者にとっては、それは何の説得力も持たないんじゃないか、と。その二種類の暴力をあっちとこっちに分別して考えることなんて、彼に取ってはたぶん不可能だろう。考えれば考えるほど、それらは目に見えるかたちこそ違え、同じ地下の根っこから生えてきている同質のものであるように思えてくる。(同上・p18)

 私には、現段階の松永英明さんがブログに書いている文章を読んでいる限りは、松永さんはこの若いサラリーマンの立場に自分がいると思っているような気がしてならない。彼がたまたま入信したオウム真理教が松本・地下鉄サリン事件のようなことを起こしたことが信じられないという思いと、そのオウム信者であるが故に社会からつまはじきされてしまうことに対する怒りのようなものが、松永さんの文章には感じられる。もし、私の印象が正しいとしたら、それは、間違っているというしかない。少なくとも、オウム真理教団が存在しなければ、『アンダーグランウンド』の世界は成り立たなかったことだけは確かである。

 松永さんは、一種の自己批判を込めて、「オウム/アレフの物語 」を書き始めたようだ。まだ、書き始めたばかりなので、これについてのコメントは差し控えるが、サリン事件が起きたときに、オウム信者であり、かなりの情報をもっていたと思われる人の文章としてどんなものになるか注目していきたいと思う。松永さんは、「松永英明」というライターとして生きていきたいと思っているらしいのだから、彼は自分で自分の「過去と責任」を文章を書くことによって果たすべきだと思う。そして、おそらく、その課題は一生背負わなければならないことになると思われる。

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「思いやり」と「ミラー・ニューロン」

2006-03-12 23:30:49 | 自然・風物・科学

 「思いやり」とか「相手の気持ちを想像する」という脳の活動は、ラマチャンドラン(『脳のなかの幽霊、ふたたび』角川書店刊/2005.7.30)によれば、前頭葉の中のミラー・ニューロンの働きに基盤を持っているということらしい。ミラー・ニューロンというのは、1996年にイタリアのジャコモ・リゾラッティのサルを使った実験によって発見されたものだ。サルの前頭葉の運動前野に自分がある行為をしたときと、ほかのサルが同じ行為をしたのを見たときと同じ活動をする神経細胞があるというのである。あたかも、鏡に映したかのように自分の行為とほかのサルの行為とを表現しているので「ミラー・ニューロン」と名づけられたという。

 前頭葉の運動指令に関与する部位に、サルがある特定の運動をするときに発火するニューロン群があることは、よく知られています。あるニューロンはサルが手をのばしてビーナッツをつかむときに発火し、別の細胞は何かを引き寄せるときに、また別のニューロンは何かを押すときに発火するというぐあいです。これらは運動指令のニューロンです。リゾラッティはこれらのニューロンの一部が、同じ行為をほかのサルがしているのを見ているときにも発火することを発見しました。たとえば、サルがビーナッツをつかむときに発火する「ピーナッツつかみ」ニューロンは、ほかのサルがピーナッツをつかむのを見ているときにも発火します。人間でも、これと同じことが起こります。(前掲書・p60より)

 ラマチャンドランが言うように、これは確かに異例のことで、他人がピーナッツをつかんでいる視覚イメージと自分がピーナッツをかんでいる自己イメージとは全く違っているにもかかわらず、このようなことが起こるのは、脳の中で内的な変換が行われて二つのことが同じことだと判断されていることになる。むしろ、二つのことが同じだと認識されるのは、自分の行為と他人の行為の両方に反応して発火するミラー・ニューロンに働きによると考えてほうがよいことになる。

 ほかの人の動作を判断するには何が必要かを考えてみましょう。たぶん、その人街sていることを、バーチャル・リアリティとして内的にシミュレーションする必要があるのではないでしょうか。そしてそれには、ミラー・ニューロンの活動が関与するのではないかと考えられます。したがってミラー・ニューロンは、ただものめずらしいというのはなく、人間の本性のさまざまな特徴──たとえば、他人の行為や意図を解釈するといった特徴──を理解するうえで、重要な意味をもっています。(同上・p61)

 このことについては、茂木健一郎さんが『脳と創造性』(PHP研究所刊/2005.4.5)のなかで、「あたかも鏡に映したように自己の行為と他者の行為を共通のプロセスで処理する脳内モジュール」を「ミラーシステム」と呼び、このミラーシステムの構成要素としてミラー・ニューロンをとらえている。

 ミラーシステムは、脳が自分に関する情報と他者に関する情報を共通のモジュールで処理している可能性を示唆する。たとえば、相手がこのような行為をしているということは、自分の場合だとこんな行為をしていることに相当するから、相手はこういう気持ちでいるに違いないという推測を行う際に、ミラーシステムが関与しているのではないかと考えられるのである。
 相手の心を読み取る能力を「心の理論(theory of mind)と呼ぶ。高度に発達した社会と文化を持つ人間の能力を考える上で、心の理論を支える脳のモジュールはきわめて重要な役割を担っていると考えられる。他人の心の状態と、自分の心の状態をあたかも鏡に映したように共通のプロセスで処理することによって、他者とのコミュニケーションを可能にしているのである。(『脳と創造性』p110・111)

 こう考えると、次のようなラマチャンドランの考えは、とても信憑性が出てくる。

 私は、ひょっとするとこのミラー・ニューロンが、人類の進化に重要な役割を果たしたのではないかと思っています。人類の特徴の一つは、私たちが文化と呼んでいるものです。文化は、親や教師をまねることに大きく依存していますが、まねるという複雑なスキルは、ミラー・ニューロンの関与を必要とするのではないかと考えられます。いまから五万年前あたりに、ミラー・ニューロンのシステムが十分に精巧になって、複雑な行為をまねる能力が爆発的な進化をとげ、それが私たち人類を特徴づけている、情報の文化的伝播につながったかも知れないと、私は思っています。(前掲書・p61・62)

 私たちは、ラマチャンドランの進化的な考察にも同感するが、もっと身近な問題にも適用できるような気がする。冒頭に述べた、「思いやり」とか「他者の気持ちを想像する」ということはまさしく、このミラー・ニューロンによると考えられる。私たちは、こうした脳内の神経細胞の働きによって、「思いやり」とか「他者の気持ちを想像する」という活動ができるようになっているということを知ることはとても複雑な気分にさせる。そこに、精神の崇高な作用があるのではなく、ただ脳の幾つかあるうちの一つの心的な脳内モジュールの作用を認めることになるからだ。

 そう考えると、たとえば「思いやり」とか「他人の心を理解する」ということがなかなかできなくなっている現代の子どもたちというのは、こうしたミラー・ニューロンの活動があまり活性化されていないということに起因しているのかも知れない。ラマチャンドランは、自閉症の子どもたちがミラー・ニューロンによるシステムに欠陥を持っているのではないと述べているが、今の子どもたちもまた、社会的・自然的環境の変化の中で、「ミラーシステム」が正常に働かなくなって来ているのかも知れない。

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知の世界の再編成

2006-03-05 09:57:27 | デジタル・インターネット

 「世界中の情報を組織化(オーガナイズ)し、それをあまねく誰からでもアクセスできるようにすること」というのが、グーグルという会社のミッションだという。梅田望夫さんの『ウェブ進化論──本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書/2006.2.10)には、梅田さんの友人でグーグルにつとめている人の「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね」という言葉が紹介されている。

 ティム・バーナーズ=リー著『Webの創世』(毎日コミュニケーションズ/2001.9.1)の中で述べられていた「Semantic Web」(意味を持つWeb)という世界について一番理解をしめし、その本質的な部分に今一番近づいているのがグーグルかも知れない。もちろん、ティムが求めていたのは、「Semantic Web」を実現することであり、そのために、XMLという規格を作り、検索エンジンが情報を組織化できるようなWeb世界をつくることだった。しかし、いま、グーグルの検索エンジンの成功は、あらゆる人たちがグーグルに検索されるようになるために、より「Semantic Web」に近いWebサイトを作ろうという動き加速させているようだ。

 私は、今流行のAjaxを少し勉強しようとして、Ajaxで作られているというWebサイトとして、グーグルの「グーグルローカル」や「google suggest」を時々見に行く。それらのサイトは、遊んでいても楽しいのだが、グーグルの提供するWebサービスは、徹底していて、それらは私たちが自分たちのビジネスで利用することが許されている。実際「グーグルローカル」を利用した、大企業のサービスとしては、NTTコミュニケーションズの「ブログ人マップ」や不動産検索エンジンの「Smatch」として利用されている。Ajaxは、基本的には全く新しいテクノロジーというわけではない。名前が「Asynchronous JavaScript+CSS+DOM+XMLHttpRequest」の略だと言うことから分かるとおり、XMLの規格も使われている。

 私たちは突然、グーグルのような企業が生まれたことに驚く。梅田さんが言うように、グーグルは、おそらく、ITの世界で言えば、IBMやマイクロソフトに続く、第3の何かだと思う。IBMはビジネスの世界に導入されたコンピュータのというものの象徴であったし、マイクロソフトはパソコンの普遍的なプラットホームというものの象徴であった。グーグルは、インターネットの世界で検索エンジンの果たす本質的な機能に対してもっとも遠くまで見通した企業だと言うことができるが、グーグルが最終的に何になろうとしているかは、今のところ未知の領域に属する。ただ、少なくとも、マイクロソフトを越える企業があり得るとしたらおそらくその最右翼がグーグルだと思われる。

 ところで、梅田さんは『ウェブ進化論』で、「ネット世界の三大法則」という新しいルールに基づき新しい世界が発展し始めたということを主張している。この三大法則はリアル世界では絶対に成立しない法則だという。三大法則の前提には、ITの世界における「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」という「次の10年への三大潮流」がある。「チープ革命」とは、「ムーアの法則」よるもので今後も、コンピュータのハードの技術が倍々で進化していくということである。つまり、一年足すと同じものが半値になってしまうということだと思えばいい。

「三大潮流? どの話も、無料とかコスト低下とか、儲からない話ばっかりじゃないか」と反射神経的に反応される読者も多いかも知れない。そしてそれは、日本の大企業幹部の典型的反応でもある。そうその通り。旧来の考え方で営まれるビジネスや組織に対して、この三大潮流は破壊的に作用する傾向が強い。慣れ親しんだ仕事の仕方を変えずにいると、年を経るごとに、少しずつ苦しくなっていく。しかし、三大潮流に抗するのではなく、その流れに乗ってしまったらどうだろう。その流れが行き着く先を正確に予想することはできないが、流れに身を任せた知的冒険は、きっと面白い旅になるのではあるまいか。(『ウェブ進化論』p29・30)

 さて、梅田さんの言う「ネット世界の三大法則」とは次のようなものだ。

第一法則:神の視点からの世界理解
第二法則:ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
第三法則:(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something、あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積

 第一法則の「神の視点からの世界理解」ということでは次のようなことが例としてあげられている

 検索エンジンというのは、検索したい言葉をユーザが入力し、結果としてその言葉に適した情報のありかが示されるサービスである。これが顧客の利便性という視点からのごく普通の理解だ。しかし同時に検索エンジン提供者は、世界中のウェブサイトに「何が書かれているのか」ということを「全体を俯瞰した視点」で理解することができる。そしてさらに、世界中の不特定多数無限大の人々が「いま何を知りたがっているのか」ということも「全体を俯瞰した視点」で理解できるわけだ。(同上・p36)

 第二法則については、次のように説明されている。

 第二法則とは、「ネット上にできた経済圏に依存して生計を立てる生き方」を人々が追求できるようになったことである。ネット上に自分の分身(ウェブサイト)を作ると、リアルな自分が働き、遊び、眠る間も、その分身がネット上で稼いでくれる世界が生まれた。個人にある種の才覚とネット上での行動力さえあれば、リアル世界に依存せずとも、ネット上に生まれた十分大きな経済圏を泳ぐことで生きていける可能性が拡がりつつある。(同上・p36)

 最後の第三法則は、次のようなものだ。

 第三法則とは、序章で例に出した「一億人から三秒弱の時間を集める」ことで「一万人がフルタイムで一日働いて生み出すのと同等の価値を創出する」というような考え方のことである。たとえばお金であれば一円以下の端数、時間ならば数秒といった、放っておけば消えて失われていったはずの価値を「不特定多数無限大」ぶん集積しようという考え方である。もしその自動集積がほぼゼロコストでできれば「Something」(某かの価値)になる。リアル世界の発想では「無」だったものが「Something」になるのだから大事件である。(同上・p37)

 この三大法則を上手く組み合わせたところにこれからのインターネット上のビジネスモデルができることになる。アマゾン・コムがやったこともこの三大法則にかなっている。アマゾン・コムでは、一度買い物をすると、次にこんな本がありますよといって情報提供をしてくれる。これは、第一法則に基づいている。また、最近流行のブログなどのアフィリエイト機能は、第二法則の応用だということができる。そして、そのアフィリエイト機能は、第三法則にもかなっている。アマゾン・コムは、自分では何もしなくても、不特定多数の無限大のウェブサイトにアフィリエイト機能をつけることにより、膨大な購読者を集めることができることになる。

 ところで、この第三法則は、とても興味深い性質がある。IT世界で最近使われるようになった言葉に「ロングテール」という言葉がある。「ロングテール」には「恐竜の首」が対応している。たとえば、2004年の新刊本の販売部数を売れたものから順に棒グラフにしていくと、一番左に『ハリー・ポッター』が来て、それから順に幾つかの本が並ぶことになるが、ベストセラーが終わると急に販売部数は下がりそれからずうっと約七万点ほどが並ぶことになる。最初のベストセラーの部分は「恐竜の首」のように高いが、残りは「長いしっぽ」のようになるというわけだ。

 さて、リアル書店や、リアルの出版社は、このベストセラー(恐竜の首)で利益を上げ、いい本だが売れない本の損失を補って、文化に貢献してきた(売れなくても文化の創造は必要だし、それに寄与しているからこそ再販制は維持しなければいけないという主張をよくする)ということになる。こうした現象はパレートの法則として、「80対20の法則」として有名だ。「ある集合の20%が、常に結果の80%を左右する」という法則である。つまり、新刊本の二割の本が、八割の売上を稼いでいるというように言ったりする。会社でいえば、あまりいい表現ではないが、二割の社員が八割の貢献をしていると言ったりする。

 梅田さんによれば、アマゾン・コムでは、その法則が通用しないのだという。つまり、アマゾン・コムでの本の売り上げのうち三分の一は、リアル書店では売れない本によるのだという。つまり、「ロングテール」とは、いわゆる「負け犬」の本のことだ。アメリカの場合は、再販制もないので、この「ロングテール」のほうが、利益がいいらしい。この辺はとても興味深い。そして、「ロングテール」は、リアルの世界では、どうしても切り捨てられる世界であり、インターネットを活用しなければ永久に救われない世界であるともいえる。

 昔、1年で100万冊売れて終わりという本と、100年間で100万冊売れてきた本ではどちらが価値ある本かということを論じあったことがある。出版社にとっては、明らかに1年で100万冊売れる本のほうが価値があるに決まっている。100年も商売を続けることは並大抵ではない。しかし、100年間売れ続けるということは、すごいことである。おそらく、その本は更に何百年も売れ続けることになるだろう。いわゆる古典になっていく本だ。そうした本は、リアル書店では「負け犬」であるかも知れないが、生き残った本でもある。「ロングテール」が本当に生きてくるのは、インターネットの世界だけかも知れない。また、どのように生き残っていくのかはこれからの問題でもある。

 もちろん、Webの世界は、儲けることだけではなく、知的な冒険でもとても面白い現象を呈していると思うのだが、梅田さんの『Web進化論』もとても知的でエキサイティングな内容だと思った。梅田さんは、最近は、自分より年下の人としか付き合わないようにしていると言っているが、私より一回り若い梅田さんから私などはもう相手にされないというのは残念だが、まあ、こうした本を読むことによって私にも最先端に触れることができるのは、幸せだというべきか。

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