電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

『いいね!フェイスブック』

2011-04-24 21:11:56 | デジタル・インターネット

 野本響子著『いいね!フェイスブック』(朝日新書/2011.4.30)を読む。とても読みやすくて2日で読み終えてしまった。フェイスブックというのは、アメリカで生まれた今はやりのSNS(Social Network Service)のことである。もちろん私も利用している。今まで読んだフェイスブックの入門書の中で、一番分かりやすく親しみやすい。たぶん、それは、著者のフェイスブックを利用しているスタンスが、分かりやすいからだと思う。樺沢紫苑著『Facebook仕事術』(サンマーク出版/2011.3.25)という本もいい本だが、これは、やはり、フェイスブックを使い込み、それでビジネスをしている人という立ち位置がはっきり現れている分、たぶん、普通の人は少し抵抗があるに違いない。

 野本さんは、「あとがき」で、「友達は増やしすぎず、知り合いだけを承認するというスタイルで、ゆるく関わっていくつもりである」と述べているが、この立ち位置がいい。そういう野本さんだから、次のようなことに興味を感じるのだと思う。

 では、削除も利用解除(停止)もしないまま、現実世界で死亡してしまったら? 実はアカウントが残るのだ。
 友達が「亡くなった」ことをフェイスプックに知らせると、亡くなったユーザーは「追悼アカウント」になる。
 迫悼アカウントは、その人のお墓のようなもの。ログインはできなくなり、友達だけがプロフィールを見られるようになる。追悼アカウントになった人のウォールには、家族や友達が追悼メッセージを書き込める。
 人の生き死にまで考えて作られているフェイスプック。とことん、現実世界の人とのやり取りを写し取る仕掛けが施されている。
(野本響子著『いいね!フェイスブック』(朝日新書/2011.4.30)p119)

 利用解除の話は、誰でも触れるが、もし、自分が使い続けて死んでしまったらどうなるだろうという興味の持ち方は、おもしろい。この本では、勿論、第2章で、フェイスブックの基本的な使い方について書いているが、それはそれで、さし当たり使うには十分な内容であるが、フェイスブックは常に変化しているので、基本的なこと以外は、役に立たなくなってしまう。その意味で、フェイスブックの特色を中心に書かざるを得なくなっていている。そして、誰もが、フェイスブックを使い始めて突き当たる次ような問題をいちばん大きな問題として取り上げているのも適切な解説だと思った。

 しかし、人は自然と顔を使い分けている。会社での顔、家庭での顔がまったく同じ人のほうが少ないのではないだろうか。これまで上手に使い分けていた人は、両方に同時に見せる自分を作ることに疲れてしまうかもしれない。一般に人は年齢を重ねるほど、社会的な立場が強くなればなるほど、見せる顔が増えていく。これは、社会人ではなく現役の「学生たち」が作ったフェイスプックならではの問題かもしれない。フェイスブックが成長していく段階でも、やはりこの問題は議論されている。
 大人のユーザーには「自分用のプロフィール」と「楽しめるソーシャル用プロフィール」の両方を用意すぺきだという声もあったが、フェイスプックの創設者でCEOであるマーク・ザッカーパーグは常に反対した。「仕事上の友だちや同僚と、それ以外の知り合いとで異なるイメージを見せる時代は、もうすぐ終わる」と彼はいう。「2種類のアイデンティティーを持つことは、不誠実さの見本だ」(『フェイスプック若き天才の野望』より)
 このザッカーバーグの言葉は興味深い。果たして、彼の言う通りに、フェイスプックの登場で世界はより誠実になっていくのだろうか。
(同上・p92)

 ここのところは、本当は、もっと、考えてみる必要がある。「建前」と「本音」には、二つの使われ方がある。一つは、表側の意味と裏側の意味ということであり、意識された世界と無意識の世界と言い換えてもいいかもしれない。もう一つは、公私という意味だ。マーク・ザッカ―バーグが言っているのは、どちらかというと後者の公私のほうの意味だと思われる。まさに、公私の区別のないマークらしい言い方である。私たちは、多分、それはとても難しいことだと思われる。私は、公私両方に通用するように気を配りながらフェイスブックに書き込んでいるように思う。

 つまり、リアルの世界がそうであるように、インターネットの世界でも、実名で存在する以上は、常に第三者から目撃されているということは想定されていなければならない。確かに、表現されたものは、常に「ハレ」の世界に存在しているのである。本質的には、匿名掲示板においてであれ、表現されたものは「ハレ」の世界のものである。匿名掲示板の表現は、それ故、匿名の作者のものとしてしか存在できないのだ。「ハレ」は「ケ」に対応しており、「ケ」とは、日常性である。そして、「日常性」ということは、表現されないと同じことである。それは、無意識の世界のようなものだ。

 フェイスブックは「建前」の世界だ。会社や家族、親戚が見ているなか、本名で本音を語るのは難しい。だから実社会から離れたい人や、他人に気兼ねすることなく本音を語りたい人は結局匿名のSNSや掲示板を使い続けることになる。ポルノや暴力的な内容のものなど、フェイスプックの規約で禁止されているコンテンツもフェイスプックの外に置かれることになる。
 もちろん、そういったコンテンツのほかにも、匿名には匿名の良さ、気楽さというものがあることを忘れてはいけない。インターネット上では、決して悪意で匿名を使う人ぱかりではない。実名を出すからには人々は自分の立場を常に意識しなくてはならないが、匿名なら、立場を明かさないからこそ、気軽に他人を助けることができることもある。インターネットの掲示板で専門家がするアドバイスだって、匿名でなけれぱ数が減るだろう。署名をして意見を言うとき、人は慎重になるからだ。
 その意味で、実名制のフェイスプックと対局に位置するのは、日本では巨大掲示板の2ちゃんねるだろう。(同上・p221)

 ここで、野本さんは、フェイスブックは「建前の世界」であり、2チャンネルは「本音の世界」であると言っているように見える。しかし、それは、多分、間違っている。2チャンネルの世界もまた、「建前の世界」なのだ。匿名の人が「建前」述べていると考えるべきだ。彼は、匿名であるが故に、実名の世界に戻って来ることができない。

 2ちゃんねるには、匿名であるがゆえの「真実」も数多く含まれている。もちろん、匿名の掲示板でも警察が捜査すれば個人を特定することは可能だが、それでも初めから本名を出して語るより、心のハードルも低くなる。
 企業の従業員による内部告発や、いじめられている子ども本人へのアドバイスが書けるのもこういった匿名の掲示板なのである。
 結局人々の本音を知るためには、匿名の掲示板を見たほうがいいということになる。だから、2ちゃんねるなどの匿名掲示板は影響力を保ち続けるはずだ。
 実名を使った便利なツールの側面も持つフェイスプックとは対極の存在だが、どちらか一方しかない世界にはならない。道にも大通りがあれぱ、裏道もある。ネット・コミュニティーにもいろいろあっていいのだ。どれか一つに統一される世界のほうが気持ち悪くないだろうか。
(同上・p221・222)

 最後の所は、同意するが、匿名であることは、常に「真実」ではない。それが、真実だと証明されるのは、常にリアルの世界に戻ってこなければならない。それは、2チャンネルがやっていることではない。ただ、「真実」らしく見えるだけである。ここで述べられている「本音」と「建前」の区別は、しかし、あまり適切ではない。つまり、「建前」がフェイスブックの世界で、「本音」の世界は2チャンネルというのは正しくない。もしそうなら、それは、抑圧された表現の世界が「本音」の世界だということになる。つまり、それは、「建前」の世界が、抑圧された世界であるということであり、本当のことは言えない世界だということになる。勿論、そういう世界はある。それは、独裁国家だけの問題ではない。炎上していくブログなどを見ていると、よく分かる。

 フェイスブックには、大きく「個人ページ」と「facebookページ」がある。「個人ページ」は、おそらくは、「年賀状」や「暑中見舞い」の葉書の世界だと思えばよい。年賀状は、普通、家族の全員が見せ合う。最近では、家族そろった写真を印刷して送ってくる人が増えた。これなど、まさしく、フェイスブックで代用されそうな世界だ。そして、こうした人たちは、「仕事上の友だちや同僚と、それ以外の知り合いとで異なるイメージを見せる時代は、もうすぐ終わる」というマーク・ザッカ-バーグの言葉を実践している人たちだということができる。

 ところで、こう書いてくると、フェイスブックの世界というのは、年賀状の自分の家族の写真を平気で載せられるようなプライベートをかくす必要のない場合しか上手く使えないもののように見える。野本さんの使い方は、基本的にそこまでを推薦している。彼女の節度は、そこまでについてなら、使った方がいいですよといっているのだと思う。それが外のフェイスブック推奨者と野本さんの違いであり、野本さんの良さだと思う。

 しかし、フェイスブックの進んでいる道は、多分、もっと過激な内容を含んでいるように思われる。野本さんが引用しているデビット・カークパトリック著『フェイスプック若き天才の野望』(日経BP社/2011.1.17)によれば、アメリカでさえ、企業の中での使いかたはぎこちないという。多分それは、インターネットの世界が、一種の広場だからだと思う。つまり、フェイスブックの世界とは、生産者や消費者という立場を棄てて市民として立つことを強制するからだと思われる。それが、「建前」ということの本当の意味だ。

 私たち普通の人が実名で不特定多数に表現するということは、すべての個人がある意味で自分の物語を表現するということを意味する。それは、文字通り作家と同じである。だから、会社や家族の中の出来事でも、ここに書くことにより、会社や家族の世界を越えて行くのだ。それは、ブログやツイッターの世界でも同じことが言える。ただし、ブログやツイッターは、登録者が個人とは限らない。しかし、フェイスブックは、あくまでも実名の個人が自分のページを持つのである。ここがポイントだと思う。個人として、表現を背負っていく人間を私たちは作家と呼ぶ。だから、フェイスブックの登録者は、すべての人が、自分の物語を作り上げて行かなければならない。それができなければ、多分フェイスブックは、名刺代わりであり、年賀状や暑中見舞いとなるだけだと思う。

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東日本大震災から1ヶ月

2011-04-11 22:01:54 | 生活・文化
 3月11日から今日でちょうど1ヶ月が経過した。余震が続き、原発がまだ予断を許るされない状況で、私たちは、復興への希望を語るよりも、どちらかというと不安な日本の未来を想像してしまいそうだ。大前研一さんの言葉を使えば、日本経済が今まさにメルトダウン寸前のところに、大震災がやってきた。地震と津波と原子炉溶解という非常事態の中で、私たちは、ほとんど第三者であることを許されず、当事者として巻き込まれつつある。この先、我が日本がどのような未来を作り上げていくことができるのかは、私たち1人1人の在り方に左右されていくに違いない。
 東日本大震災について語ることは、今の私にはまだできない。被災者に向けて、管総理大臣のように「頑張れ!」というような言葉を私は使いたくない。私たちは、ただ、黙々と働く以外に方法はない。そして、今こそ、「働く」と言うことの意味を、考え直してみるべきかもしれない。私たちは、すぐ、ボランティアという言葉を使うが、「働く」というのは、本来、自分の為にではなく、誰か他人の為に身体を使うというということを意味している。資本主義社会では、労働は、賃金をもらうための活動になっているが、本来は、ある意味では奉仕である。私たちは、社会的にいろいろな組織的活動(公的な組織であったり、民間の企業活動であったりするが)をしているが、それらは、自分の為ではなく、誰か他の人のために活動しているのであり、たまたま、それが、資本主義社会の中では、労働という形になっているだけだ。

 勿論、被災した人たちが、今必要としているものは、できるだけ早く供給されなければならない。しかし、そのほかのことについて言えば、私たちは、自分の仕事を通じて行う以外、本質的な支援はありえない。もしそれが、不可能と言うことであれば(支援になっていないということであれば)、それは、私たちの社会の欠陥であり早急に是正されなければならない。そして、この大震災は、いろいろなシステムの欠陥や、人的な欠陥を露呈させてきたことも事実である。例えば、原発事故により、東京電力の電気の供給量が減少し、結局計画停電が行われた。そのときに、東京23区は基本的に計画停電の地域から外された。これは、何を意味しているかというと、原発は、ある意味では、東京への電気の共有のために存在していたと言うだけではなく、東京は周辺の地域の犠牲の上に成り立っていることの現れでもある。

 東京には、国家の中心的な機能が集中しており、それを止めるわけにはいかないということで、計画停電の地域から外されているが、本当は、東京の首都機能を維持するために周辺地域は犠牲になれと言っているのだということは覚えておいた方がよい。そこには、もし、あの東北を襲った大津波が、東京を襲ったらどうなるかということなど想定されていないのだ。東京電力は、本当は、どこも平等に計画停電にすべきだったのだ。そうでなければ、たぶん、必要な改革はなされることはない。管総理大臣のもと「復興計画」が有識者によって検討されるそうだが、それは、東北と関東の被害地域だけの復興だけではなく、それ以外の地域のいびつな構造事態も変えていくものでなければ中途半端なものになってしまうだろうと思われる。

 このことについては、もう少し時間をかけて改めに考えたい。この1ヶ月の間、私は、いろいろなメディアを等して情報を収集してきたが、私が自分の行動の指針に役立ったのは、ツイッターを窓口としたことだ。私は、自分が信頼している人たちのツイッターをフォローすることにより、そのときに必要な、情報や考え方を知ることができた。テレビや、新聞や雑誌は、ほとんど、役に立たなかった。そういう意味でも、3月11日以降は、私の情報収集の仕方が、まったく変わってしまった。というより、それ以前からネットを通じて、情報を得ていたが、この大震災以降、単なる情報だけではなく、考え方もまた、ネットに依存していくようになったということだ。

 大震災に対する基本的なスタンスは、内田樹さんのブログに教えられたし、大震災と原発に対する考え方については、大前研一さんの動画や論文から教えられた。そして、いろいろな情報については、佐々木俊尚さんのツイート(facebook毎日まとめて配信されている)から学んだ。今でも、彼らから、教えられながら、自分の考え方や行動の指針としている。それが、間違っているかどうかは、これからが証明してくれるはずだが、内田さんの言葉を借りれば、彼らからの情報により、私は私なりの物語(仮説)を紡ぐことになる。従って、私の考え方は、ほとんど、借り物だが、借り物だけでできあがっていることを知っていることだけが私の取り柄だと言えば取り柄かもしれない。
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