院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

『怪しいPTSD』

2011-05-24 22:47:31 | Weblog
 表題の本を読んだ。著者は臨床心理士の矢幡洋氏。PTSDの概念を幼少時の性的虐待(それを本人は覚えていない、またはそのような事実がない)の領域まで拡大して一世を風靡したJ.ハーマンを徹底的に批判した書物で、痛快だった。

 ハーマンは「記憶回復療法」を広め、幼少時の忘れ去られた記憶を呼び戻すことが、現在の神経症様症状を抑えることができると信じていた。

 ハーマンの著書『心的外傷と回復』は、アメリカで非常に売れた。専門家だけでなく一般大衆が買い求めて評判を呼んだ。

 精神分析家は依頼者に幼少時の記憶を呼び戻させようと「記憶回復療法」をこぞって行いだした。それはほとんど「決め付け」のように執拗に行われ、「あなたは幼少時に性的虐待を受けていたはずだ」と繰り返し迫られた。

 そうしているうちに、「そういえば、そうだった」と依頼者は思い込むようになり枯野の炎のように、「自分は幼少時に父親から性的虐待を受けた」と父親を告訴する娘たちが増えていった。そのような現象はアメリカだけに留まらず、カナダやオーストラリアなど国際的に波及していった。

 いまになって冷静に見れば分かることだが、これらは精神分析家による洗脳に他ならなかった。矢幡氏はこれを「マインドハッキング」と呼んでいる。でも、当時は(1990年代)とうとう裁判所まで「蘇った記憶」を証拠採用して、なんの物的証拠もないのに父親たちを有罪にした。

 アメリカの庶民がこのような魔女狩り的な行動を受け入れたのには、悪魔崇拝カルト教団が存在しているという噂が庶民のあいだにあったからだそうで、これは私には初耳だった。

 以上のようなムーブメントは間違っていると言い続けていた良心的な人々もいたのだが、ハーマンが広めた熱病に浮かされて、彼らはかえって迫害を受けた。

 2000年代に入って、「記憶回復療法」で加害者にされた父親たちが集まって、今度は訴えた娘たちを逆に訴えるという挙動に出た。そして学者たちも、良識派が盛り返してきて、ハーマンは劣勢に立たされるようなった。やがて、ハーマンは良識派に罵詈雑言を浴びせながら過去の人となっていった。

 矢幡氏自身はPTSD概念をあたまから否定はしていない。ただ矢幡氏はハーマンの『心的外傷と回復』を丹念に翻訳した中井久夫氏を批判した。だが、これは矢幡氏の勇み足であって、中井氏はハーマンと同時に(PTSDが医療者によってどのように仕立て上げられて行くのかを中立的に研究した)A.ヤングの著作も翻訳していた。そのことについてはこのブログの 2011-04-17 の項で既述した。

 矢幡氏はPTSDがベトナム帰還兵のために政治的配慮から作られた概念だということも知っておられるし、学術的なマニュアルであるはずのDSM-Ⅲ(アメリカ精神医学会による診断・統計マニュアル)に無理矢理滑り込まされたということもご存じである。

 でも矢幡氏は、私が再三ここで批判してきた災害イコールPTSDという短絡的思考をあまり批判されない。(たぶん批判的に思われているだろうが。)もっと批判して欲しい。

 本書は初め亜紀書房から『危ない精神分析』という書名で2003年に出版された。それがこのほど表題の書名で文庫本化されて中公文庫になった(2010年)。ぜひ、ご一読をお薦めしたい。

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