(座禅中の脳波測定。Gigazine より引用。)
「プラセボー効果」が脳内のどんな物質の変化なのかが明らかになれば、それが単に「思い込み」に過ぎないのか、もっと別の機序なのかが分かってくるでしょう。
そこで、「信心による効果」はプラセボー効果なのか別物なのか?といったことも分かってくるでしょう。私は今のところ「神仏への信心よる安寧」とプラセボー効果は同じものだろうと考えています。
私の父方の明治20年代生まれの祖母は、特定の宗教ではなく「それらしいもの」は何でも拝んでいました。名刹の仏像はもちろん道端のお地蔵さんや道祖神にまで手を合わせていました。神社のお札を買ってくるのも好きでしたね。祖母はそれによって心の落ち着きを得ていたのでしょう。これって「プラセボー効果」だと思われませんか?
そう考えると、宗教的な修行すなわち座禅などには、どんな効果があるのでしょうか?座禅で心が落ち着くのは「プラセボー効果」とは違うのでしょうか?
「悟りを開く」とよく言いますが、私は悟りを開いたお坊さんを見たことがありません。修行僧は座禅をしていて、突然「分かったー!」という境地に達するそうです。しかし、それは「悟り」ではないそうです。
座禅中のお坊さんを驚かせると脳波が乱れます。しかし、ただちに脳波は正常に戻ります。凡人が座禅をしていて驚かされると脳波はすぐには戻りません。これは座禅の効果だとみなされてきましたが、一流のアスリートにも脳波がすぐに戻る傾向が見られ、座禅特有の現象ではないようです。
西洋では座禅が輸入されメディテーション(瞑想)として流行りましたが、科学的な研究では「瞑想にはなんの医学的効果もない」という報告があります。
で、「悟り」ですが、「悟りを開いた」というお坊さんに出会ったことがない以上、「悟り」とは架空のものではないかという疑念が拭い去れません。それとも「悟りを開いた」とは自分で言うものではなく、他人からそうだと認められるものなのでしょうか?