只の道…淡々と歩く

無いものを在るとする…ゆくゆくは苦悩となる
無いものは無いのです。

昨日の山坂は、雪で車がスリップし上がれませんでした

2016-01-26 07:31:12 | 日記
他人のために尽くすという方がいらっしゃいます。
その方は、小さい頃「困った人がいたら助けるのよ」ということを、
いつも聞いていた人かもしれません。
私(思考)から観れば善者です。
事実から観ればその人で只の人です。

また盗みを働くという人もいます。
その人は小さい頃、欲しいものも与えられなかった境遇にあったかも知れません。
今の泥棒をしているのを私(思考)から観れば悪者です。
事実から観ればその人で只の人です。

結局、私(思考)は善者であり悪者であると言えますね。
事実から観れば只のアホです。(笑)
ですから、お気楽に思考入れないで只、歩いていきましょうね。

只の道…淡々と歩く

心の研究もされている禅師、井上御老師のホームページから
一節ずつを、私(思考)が観てみましょう。
あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

われわれの知性っていうのは膨大な情報処理をする
 まさに人間の特性の最たる機能なんだけれども、
 これはあのときが良かったという記憶されたものを、
 ひっぱりだして精細に記憶の中から観念で作り上げて、
 それと現実と入れ替えてやろうと思うようなことを、できないことをするのよ


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
知性である思考は記憶でもあるのです。
それがこの事実とすりかえるのです。
すりかえたものを事実と認定するのです。
いかに私(思考)は凄いことをしているのでしょうか。(笑)

いえいえ、更にすりかえたものは幻想ですから
どうやっても本物にならないから苦悩するのです。(笑)
このようにできないことを一生繰り返すのです。

例えば、記憶にお金に苦労した経験があれば
「金持ちになりたい」という願望が生まれます。
ですが願望は願望で幻想です。

残念ですが幻想は永遠に金持ちにはなれません。
なれないから苦悩するのです。(笑)
ですから「お金持ちになれる、ならない」を忘れ去って

今のこの瞬間、今、今を淡々と流れていればいいのですね

出社が朝暗い内の6時40分です…寒い

2016-01-25 07:51:39 | 日記
多くの方も自分の人生は数十年とわかっています。
誰だって300年とは言いません。(笑)

また定年過ぎたら第二の人生を頑張るぞ!と
言われる人もいます。はい!それは幻想です。(笑)

そして現実残りの人生は?・・と言うと
まったく誰にもわからないのです。
40年かもしれませんし、3日かもしれません。
いいえ食後かもしれません。(笑)

私みたいにあの世寸前までいく大病した者は、
今を生きているだけで儲けの人生となりました。
儲けの人生は何があろうと「諦め」がつきます。

騙して逃げた人を恨むことはありません。
憎むとか恨むが自分の中に入ったら気が滅入ってくるのです。
知らずして踏み潰した蟻さんを、申し訳なく思い続けることはありません。
わからないことはわからないで始まって終わりです。

魚として生まれたものを刺身として焼魚としておいしく戴いています。
回りまわってすべては間違いなく“ひとつ”です。
将来はこうなりたいという願望もありませんから不安もありません。
こうなりたいという願望はそうはならないということが付いているからです。

微かな希望が思い通りにならなくても仕方がないと諦めています。
このように様々なことまで“諦め”がつくようになったのは、
成るようにしかならない”ことがしっかりと理解できたからです。
そして諦めたら始まりです、これが宇宙法則で淡々と流れています。

それから私(思考)という幻想は、何ひとつ出来ないと理解できたからです。
しかも私(思考)という幻想から操られていることもわかったのです。
ですから自分の人生を、私(思考)という幻想から支配されては辛くなります。

思考する癖を極小にしていけば、自由自在に物事は流れていることがわかります。
そして私(思考)が知らない必要なことまで舞い降りて来ます。
それに沿って淡々とやっていくことがお気楽ということです。

「そう・・うまくいくかなぁ~」と思考しないことが肝心だと言うことです。
ですから繰り返し言いますが、
事実にうまくいくもうまくいかないも無い!それだけです。(笑)


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

このように悟るなら 不完全を思い煩うこともない
この真理を信頼し生きることが不二の道である
不二と信頼は一体なのだから… 前回

    『道は言語に絶している
      そこには昨日も明日も今日もないのだ


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
この“真実への道”は言葉がありません。
ですから『例え』でしか表すことができません。

このブログの『只の道…淡々と歩く』も同じことです。
「思考する力」をいかに弱めていくかが『只の道』です。
同じく浮かんでくる念に取り付く癖を切り捨てていくことが『只の道』です。

馴れしたんだ思考という煩悩を忘れ去る道です。
真の自分というあなた”には昨日も明日も今日も
無く、涅槃寂静の世界です。

苦悩のある「幻想の自分」から
真の自分”に目覚めていきましょう。

この「信心銘」もこれで終わりです。
また半年後あたり機会がありましたら
3回目として始めてみたいと思います。

身も凍るような今朝です

2016-01-24 09:04:13 | 日記
『あとを振り返らない』この事ができるようになると
お気楽になります。
繰り返し述べていることですが私(思考)は言う事を聞きません。
反対に文句を言う始末です。(笑)

その時、吸い込んで吐き出した息はもう二度とありません。
「くしゃみ」をしたときの、「くしゃみ」はどうやっても返って来ません。
同じく「おなら」をした時の、「おなら」はどうやっても返って来ません。
「他人と喧嘩」をした時の、「喧嘩」はどうやっても返って来ません。

新幹線の車両が動きだしたら「動き出した今」で、その時は二度とありません。
おわかりのとおり事実は今、今、今しかないのです。
後は「幻想で記憶」なのです。

『あとを振り返る』のは「思考する癖」なのです。
『あとを振り返る』ことが別に悪いとか良いとか言っているのではありません。

繰り返し述べていることですが「幻想思考する癖」は必ず
苦悩になるということです。
「幻想思考する癖」がある以上、人生はお気楽にはならないのです。

『あとを振り返らない』ことをしっかり肝に命じ、
今、今、今を離さず常に“実践”することです。



只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

そうでなければ真理とはいえず
守るべき価値もない すべては一つ 一つはすべてだ… 前回

    『このように悟るなら 不完全を思い煩うこともない
     この真理を信頼し生きることが不二の道である
              不二と信頼は一体なのだから


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
不完全、完全も無くすべては“ひとつ”です。

思考無く、この真実という“ひとつ”と一体化し、
絶対安心”に満ちた人生を過ごすことが
人間として誕生した意味といえます。

この僧璨鑑智禅師の「信心銘」から
ご指導いただける有難さに感謝しながら
今、今、今と“実践”して参ります。

どんよりした早朝です

2016-01-23 08:19:31 | 日記
禅問答です。
現時点でわからなくても結構ですので
思考して観てください。
禅問答は同じことですので内容を少し変えています。

ある修行僧は毎日坐禅ばかりしていた。
ある日そこへ師匠がきて言った。
「おまえは、何のために坐禅をしているのだ」
「仏性を得るためです」

そして師匠が落ちていた瓦を拾って
「瓦を磨いて、鏡にしようとしておる」
「瓦を磨いても、鏡になるわけないではありませんか!」

「ならば聞くが、坐禅をして仏性を得るのか?」
「えっ、同じことなのですか?」

「自動車が動かなくなったとき、
おまえはタイヤを変えるのか、ガソリンを入れるのか?」
「・・・・・・・」
と、いう禅問答です。

例えば、明日の天気予報を聞こうと『ラジオ』を持ってきても聞けませんね。
私たちの身体はこの『ラジオ』と同じです。

“〇〇〇〇〇〇〇!!”
ですから本来、私たちは間違いなく“偉大な存在”なのです。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

極大と極小は異ならない 境界を忘れ去り
区別を消し去れば 存在も非存在も同じこと… 前回

    『そうでなければ真理とはいえず
     守るべき価値もない すべては一つ 一つはすべてだ


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
真実は極大と極小はありません。
と言うか、文字もなく言葉もなく
“それがそれ(極大)”です。
“これがこれ(極小)”です。

文字や言葉は幻想です。
真実が善くて幻想が悪いということは
まったくありません。
真実は真実で、幻想は幻想なのです。

すべては“ひとつ”のなかで繰り広げられています。
ひとつ”は言葉ですから
………………”とも表わすこともできますね。

………………”が空であり無であり神仏と例えられます。

自然薯栽培もまだしていないのに計画だけで楽しみ!

2016-01-22 09:58:48 | 日記
「マラソン」と聞くだけで、またこの文字を見るだけで、
小中学生のときにあった寒い日の
「マラソン大会」を思い出し、辛く、苦しく、
逃れたいイメージや思いが出てきます…と、仰る方がいます。

また「仕事」や「残業」と聞くだけで、どっと疲れる感覚に襲われる方もいます。
しかしやり始めると意外とすんなりこなすのですが…とも言われます。

さていかがでしょうか?
言葉に反応するのは感情と一体化しているのです。
感情と離れていれば只の言葉です。

マラソンで走っている時、何も思考せず自分のペースで
淡々としていれば何ら問題ありませんね。
逆にあの人に負けてはならないとか、
少しでもタイムを上げなくてはと思考すれば乱れてきます。

「仕事」や「残業」しているとき、やっていることに何も思考せず
自分のペースで没頭していれば何ら問題ありませんね。
このように私(思考)を持ち出すか、そのとき私(思考)が無いかの違いだけです。

ご飯を戴いているとき、私(思考)が食事しているとは頭の中で言いません。
しかし食事しているときも「あいつはけしからん!」とか
「仕事はつらいな~」と頭の中で騒いでいる人もいます。

このブログの“只の道を淡々と歩く”とは
本来が絶対安心の中”ですから“今この一瞬・無思考”を
体得し豊かに人生を過ごすことです。

そのために常に“実践”ですね。


只の道…淡々と歩く

2回目となる僧璨鑑智禅師の「信心銘」の一節ずつを、
私(思考)が観てみましょう。

あくまで私(思考)から観たものです。
このことは信じないで、常に“実践”で明らかにしていってくださいね。

ここも空、そこも空 だが無限の宇宙は
常にあなたの目の前に在る… 前回

    『極大と極小は異ならない 境界を忘れ去り
       区別を消し去れば 存在も非存在も同じこと


いかがでしょう。
おわかりになったでしょうか?
極大と極小は言葉であり文字です。
そして思考です。

思考を使わなかったらすべてに違いなく、
境界が無く、区別も無く、存在も非存在も無く
ひとつ”であり同じことです。

「そりゃ~そうだけども…」と不安がある人は
今ひとつ“実践”が足りません。
思考の世界から抜け切らないのですね。

抜け切ってもこれは「思考」とわかっていますから
何ら問題にならないのです。