上平主税碑の向かい合わせに勧業山記念碑があります。
『幕末、十津川郷士は京都に出て勤皇運動に従うこと数年に及んだ。
この為維新後、山林は荒れ失業者続出、村は疲弊した。
この窮乏を救うため、明治15年(1882)更谷喜延をはじめ同憂の士が、政府に働きかけ、勧業資金の貸付を請願した。
しかし、事は急には捗らず、明治20年(1887)になって漸く士族授産資金、3万円の貸与が許可された。
村はこのすベてを産業復興資金として、こりかき山・北又山554町歩、300万本の杉桧の植栽にあて、明治27年(1894)完成した。
後年、この山林は勧業山と呼ばれ、村の基本財産となり、一部は文武館財政の基盤となった。
尚、借受けた資金は、年々返済の予定であったが、明治大水害の為免除された。』
建碑は昭和15年(1940)、文は文武館長古川正澄である。
『幕末、十津川郷士は京都に出て勤皇運動に従うこと数年に及んだ。
この為維新後、山林は荒れ失業者続出、村は疲弊した。
この窮乏を救うため、明治15年(1882)更谷喜延をはじめ同憂の士が、政府に働きかけ、勧業資金の貸付を請願した。
しかし、事は急には捗らず、明治20年(1887)になって漸く士族授産資金、3万円の貸与が許可された。
村はこのすベてを産業復興資金として、こりかき山・北又山554町歩、300万本の杉桧の植栽にあて、明治27年(1894)完成した。
後年、この山林は勧業山と呼ばれ、村の基本財産となり、一部は文武館財政の基盤となった。
尚、借受けた資金は、年々返済の予定であったが、明治大水害の為免除された。』
建碑は昭和15年(1940)、文は文武館長古川正澄である。