入口には峰の塔と書かれています。
淡海公の墓と言われています。
淡海公とは藤原不比等の事です。
そしてこの淡海とは琵琶湖の事でしょうね。
当時は近江朝でしたから。
材は石で、基壇から九輪の頂まで約4.0m、台石の高さ0.9m、台石に永仁六年(1298年)大工、井行元の刻銘があります。
大工とありますが、これは大工さんの事ですか?
西大門跡の石仏も大工が作ったとありました。
藤原不比等は、659年に生まれ、大納言から右大臣になり、律令政治を推進し、701年大宝律令、718年養老律令を完成。
その間、娘の宮子を第42代文武天皇の夫人にし、また、光明子を第45代聖武天皇皇后にして、皇室との関係を深め、平城京遷都の際、氏寺を移して「興福寺」と改称しました。
とにかく藤原氏を大きくしたのはこの人の力が大きいのは間違いありません。
でも不比等は最初から順風満帆ではありませんでした。
壬申の乱の時、父鎌足の言葉を守り、どちらにも付きませんでした。
そのお陰で、天武天皇が勝った時にペナルティを受ける事はありませんでしたが、逆に天武朝に迎えられる事もありませんでした。
それでも天武天皇が亡くなった頃から朝廷に迎えられる様になりました。
最初は草壁皇子の教育係です。
それからは徐々に朝廷内で力を付けて行きました。
これには父鎌足の力と言うよりも鏡女王の力があったのではないか?という説があります。
そんな話から不比等は鏡女王の子ではないかという説が生まれたのかも知れません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます