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粟原寺跡2

2013-08-11 10:42:15 | 日記

10時25分に到着。

粟原寺跡は、粟原集落の端にある天満神社の境内とその隣接地に、塔と金堂の跡が残っている。
跡地には桜の木が何本か植えてあったが、ここを訪れた日に咲いていたのは八重桜だけであった。

入口の傍に建てられた案内板が立っている。
その内容を要約すると、次の通りである。
この寺にあった三重塔の伏鉢が、江戸中期、談山妙楽寺(今の談山神社)から発見され、現在は談山神社に国宝として所蔵されている。
その伏鉢には銘文が刻まれており、それによって建立の経緯が分かっている。
すなわち、中臣大嶋が草壁皇子(持統3年(689)死亡)のために寺院の建立を発願したが、持統7年(693)年に大嶋が死んでしまった。
そこで、大嶋の遺志を継いだ比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から造営を始め、和銅8年(715)までの22年の間に伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成させた。
さらに、和銅8年四月に三重塔と七科鑪盤を造ったという。

現在、塔跡も金堂跡も、土壇は明らかでない。
しかし、塔跡には心柱礎石、側柱礎石、円天柱の礎石が残っている。
これらの礎石から、6.06mの建物(三重塔)があったことが窺われるという。
金堂跡は、現在塔跡の西に3~4個の礎石を残すだけで、礎石が移動や消失していてその規模や場所は詳しく知ることはできない。
また塔跡の東側の一段低い土地に、金堂跡北西の竹薮などから出土した多数の礎石が並べられている。
どの建物の礎石だったか不明であるが、円柱座・地覆座を連結した形式のものが多いという。

粟原寺があった場所が、万葉歌人・額田王の終焉の地であるという伝承がこの地に残されている。
姉の鏡女王の墓が隣の忍阪集落にあるのだから、この付近に額田王ゆかりの史跡があっても不思議ではない。
しかしこの寺を創建した比売朝臣額田と額田王が名前が類似しているために生じた伝承であろう。

現在、粟原寺跡の西端に十三重石塔が立っている。
「鶴の子の塔」と呼ばれている石塔で、鎌倉時代後期の作とされている。
もとは、大宇陀町大字半坂に至る半坂道にあったものを、明治22年(1889)にこの地に移したという。

逆に、いつの時代か不明だが洪水で粟原寺が流されたとき、この寺に伝来した仏像の多くが桜井市内の各地に分散された。
俗に「粟原流れ」と呼ばれる仏像たちで、例えば大字桜井の大願寺・来迎寺の本尊や、大字外山の報恩寺の本尊、大字赤尾の興善寺の毘沙門天や薬師座像などである。
長野市の清水寺の地蔵菩薩座像も「粟原流れ」とされている。
いずれも、国の重要文化財の指定を受けている。

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