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トルコ記念館2

2013-03-25 23:50:07 | 日記
とまあ、とあるサイトから引用させて頂きました。

明治時代のこの事故の時は既に樫野埼灯台があった為トルコ人達は灯台の明かりを求めて断崖を登ったのです。
でもそれまでに船では水蒸気爆発を起こし、嵐の中で、水をかき出したりしてフラフラの状態で、泳いで岸に辿り着いてからの事です。
580人の内69人しか助からなかったのも分ります。
トルコではこの事を授業で教わります。
だからイランイラク戦争の時助けてくれたのです。

どこかの日本人が、トルコは日本から支援を受けたいから飛行機を出したのだ、等と言って、トルコの大使が嘆いたという話です。

最近では日本でも授業で教わる様になったそうです。

記念館の屋上から遭難現場が見る事が出来ます。
ホントにすぐ近くですが、上記の様な状態と夜なので生き残る事がかなり難しい事だった様です。



紀伊大島 トルコ記念館

2013-03-25 23:29:48 | 日記

9時40分、紀伊大島に到着。
紀伊大島には地続きで車で渡れます。
数年前まではフェリーと巡航船でしか渡れませんでした。
驚くほど便利になりました。

今回の目的の要、トルコ記念館です。
エルトゥールル号の遭難の悲劇を機に犠牲者の慰霊を通じて串本町とトルコ国との交流が始まり、昭和39年11月ヤカケント町と姉妹縁組みを結び、平成6年にはメルシン市との姉妹都市提携の正式調印を交わしました。
トルコ記念館は、トルコ国との友好の証として、今後一層、日ト親善の契りを深めると共に、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、建設されたものです。

トルコ軍艦「エルトゥールル号」遭難
明治22年オスマン帝国皇帝アブデュル・ハミット二世は、オスマン・パシャ特派大使海軍少将を特派使節として日本に派遣した。
巡洋艦「エルトゥールル号」(2,344トン)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。
翌23年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。
日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。
その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。
やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。
この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまいました。
地元住民の献身的な救助活動にも、オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、69名が救助された。
かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなるのです。

日本人216名を救ったトルコ航空機
イラン・イラク戦争が始まった、1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。
イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。
そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。
トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。
タイムリミットの、1時間15分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。
この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。
トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。
今の日本人が知らないだけです。
それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」