TV東京系、昭和vs令和!世代を超えて愛される最強ヒット曲50連発
ゲストはtoshiさん、森進一さんの息子さんなど。
タクシー運転手さんに好きな曲を聞いて、人生や仕事の悲哀を語らせたり、いつもとは変わった切り口の番組だなと思いながら見てた。愛される昔のヒット曲を、ただそのまま流すのも芸がないと思ったのかしらん。
リーゼントの17歳の若い男性に、あなたが聴くのは?と聞いて、エーちゃんファンみたいな見た目に、ジュリーの曲じゃないな、と思っていたら
意外や「サムライ」、親の影響だって。
『当時、絶世の美男子といわれたジュリー。
全身から溢れる色気にも注目』
注目するのは、右下の1978年2月12日放送「ヤンヤン歌うスタジオ」ヤンヤンは、ジュリーが出演していたら必ず見ていました。
TV東京はこの手の懐かしヒット曲では、いつも同じような映像ばかりで、他には無いの? ヤンヤンにはよく出ていたのに、当時の映像は残っていないのかと思っていたら、1978年はあるじゃないですか~ この番組にはレギュラーのように毎回よく出演して、コントと歌を披露していたので、他にも映像があれば、放送して欲しいです(^-^)
「ヤンヤン歌うスタジオ」については、こちら。やっぱりあまり残ってはいないようです。
「サムライ」の放送時間が短くて、大いに不満が残りました。2時間に50曲は詰込みで、無理があります。我々高齢者(^^;から、若い世代まで、まんべんなく見せようとすると、時間がないわ~ ジュリー以外の曲も名曲揃いで、尾崎豊に浜田省吾は、ファンでない私でも もっとゆっくり聴いていたかった。
XJAPANのtoshiさんは、龍玄としさんだと初めて知りました。(バラエティ番組で活動する場合の別名義は「龍玄とし[1]」)へ~ 私たち世代より、ちょっと若いだけやんか。
そういえば22日の朝日新聞のコラムで「サムライ」の歌詞を引用⇒ 天草でどぶろく造り『唇に火の酒 天草のラム』「海賊は右手にピストル 左手にラム酒。天草は中世 海賊の島だった」どぶろく造りは違法です。と有りました。
77年当時、中1で帰り道に同級生と歩いていました。その人は当時で言うツッパリでした。
「俺、沢田研二好きなんだよ。だってカッコいいじゃん」
えっ!?と思いました。どう見てもジュリー好きなようには見えないし。当時は知識として知ってはいたけど私は沢田さんのファンではなかったから尚更驚きました。そういうがった坊主の心に響くものがあったんだなと今になって思います。
あの時代、ピンクレディーの猛風に唯一、対抗出来たのは沢田研二だけだった。週刊文春の連載でそんな記述がありました。本当にその通りでしたね。
少なくともツッパリファッション、リーゼントの男性は、ジュリーファンではないという眼鏡で見てしまいます。
>『タクシーに乗った時に「私、サムライという歌が大好きなんですよ」と話しかけられたとジュリーがラジオで話していた・・』
私も「サムライ」が好きです。アルバムとアレンジが違い、衣装とパフォーマンスがさらにドラマティックに歌の世界を広げて、カッコいい!!美しい!!✨
昨日の映像が、若い世代の人に沢山見てもらえたらいいな~っと思います。
ファンの選ぶ好きな曲の上位には入らないのが残念です。
73年日本歌謡大賞、77年日本レコード大賞と日本歌謡大賞。4年毎に一等賞取ってた事からジュリンピックって言葉もありました。日劇最後のウエスタンカーニバルにそんな垂れ幕ありました。
テレビでも見たし、持っているカセットテープのジャケにもそんな文言が見られます。81年は寺尾聰のルビーの指環が圧勝でした。西田敏行さんと僕が太刀持ちと露払いやったと82年の正月コンサートのMCで言ってましたが、もしも寺尾聰がいなければジュリーのストリッパーがレコ大だったと当時思いました。得票だと2位はシャネルズの街角トワイライトでしたが、大賞狙うとなればナベプロも総力上げてジュリーをバックアップしただろうし。そんな妄想を抱きます。
不死鳥といもいわれていましてが、42年後にそれをまた目の当たりにするとは。ファン冥利につきます。
昨日のサムライの件とは全く関係ないのですが。
昔、リクエストサークルに入っていて、南にあった頃や梅田にせっせとリクエストはがき書きに参加してました。その頃バスツアーで武道館に行ったような気がするのですが、はっきりしなくて。
saoさんの昔の記事を読ませてもらい、確かに有ったとわかったのですが。ほんとに往復バスで行ったのか、今も思い出せなくて😅(`77か`78)
過去記事を参考に思い出し、ありがとうございます🙏
「ジュリンピック」って、今ではとても懐かしいワードですよね。(^-^)
ハーケンクロイツは、戦争を知らない世代だからといって、そういうことに無知であってはいけないし、当然ファッションとして扱ってはいけないということを、あれで知りました。
>『もしも寺尾聰がいなければジュリーのストリッパーがレコ大だったと当時思いました。』
ジュリーファンですが、さすがにそこまでは。もっともルビーの指輪以外のヒット曲が、もう思い浮かびません。
>『大賞狙うとなればナベプロも総力上げてジュリーをバックアップしただろうし。そんな妄想を抱きます。』
ナベプロは、ザ・タイガースに新人賞を取らせられず、「危険なふたり」でレコード大賞も取らせらずですから、あんまり期待はできないと思います。
>『不死鳥といもいわれていましてが、42年後にそれをまた目の当たりにするとは。ファン冥利につきます。』
まったく、同感します✨✨✨
初めまして・・じゃないんですね、リクエストサークルのバスツアーでお逢いしていたかもしれません。
私は1978年の武道館と、翌年の中野サンプラザのバスツアーに参加しましたが、どちらもナベプロ公認のお陰で、前の良い席で見られました。
ブログではたまに、大阪のリクエストサークルについて書いていますが、参加していましたというコメントは大変嬉しいです(^-^) 今でも会報は保存しています。
ここ数年は書いていませんが、「ジュリー・メモリーズ」のカテゴリー内に、リクエストサークルの活動などを書いていますので、思い出して下さいね。